2010年09月01日

Coffee BreakH サタン


 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは園のどんな木からも食べてはならない、と神は、本当に言われたのですか」(3章1節) 

 第3章は、痛みと悲しみ、悔しさなしには読めません。神の創造の最後に造られた人とその妻はめでたくカップルとなり、これから幸せな生活が続くはずでした。
 ところが、とつぜん、狡猾な生き物が現れ、エバにささやきます。「神の命令に背くように。」


 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです」(3章2節)
 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたはそれに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」(3節)
 そこで蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。(4節)
 あなたがたがそれを食べるそのとき、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」(5節)
 そこで女が見ると、その木はまことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くすると言うその木はいかにも好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。(6節)


 無邪気に神の命令を思い出している女に、蛇はその命令が「たいした事ではない」「それどころか・・・」と思うように、誘導しています。「決して、死なない。それを食べるとあなたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

 エデンの園では、人は特別あつかいの被造物でした。人だけが神と話ができ、人だけが、神の特別の配慮を受けていました。人がもし、なにかの欠けを感じるとすれば、それは彼らが「神のようでない」ということだったでしょう。
 神は全知全能でどのような事もできるが、人はその神によって、造られ保護されて存在を許されているものに過ぎません。
 彼らはなにかもどかしい思いをしていたのでしょうか。園の管理人の仕事が案外きつかった? 何か、神の操り人形のように、神の意のまま動かされているような気分になることがあった?
「エデンでは自分たちに並ぶ生き物はいない。必要はすべて満たされている。自分より上に君臨するのは、神だけだ。その神に自分たちが並び立てる? なんてすばらしい! そうなれば、パーフェクトではないか」
 満足の極地でも足りないものを思い、相手が神であっても同等になりたい、これが創造の最初から人間に付随した本能みたいなものだったのかと、気づかされる箇所です。

 結果、

 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。(7節)

 目が開かれるとはどういうことでしょう。それまでも、二人は物が見えなかったわけではありません。アダムは、神が連れてきた動物を見て、名前をつけていますし、女を見たときには、喜んだのです。
 
 とすると、これは、もう一つの目、神のような目でしょうか。
 神のような目で見ると、自分が裸であるのが見えたのです。それを恥ずかしく思ったのです。それで、あわてていちじくの葉をつづり合わせて腰を隠したのです。 


 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。
「あなたはどこにいるのか」
 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのをだれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」


 神のように目が開かれた代償は大きかったのです。人は自分自身の姿を恥ずかしく思っただけではありません。神さまと、まともに顔を合わせるることができなくなったのです。
 もちろん、命令に背いて食べたといううしろめたさはあったでしょう。でも、それだけでしょうか。目が開くと同時に、彼らは、神と自分たちの力の落差を知ったのではないでしょうか。神は創造主であり、自分たちは被造物にすぎない。神は全知全能であり、自分たちは限定された力しかもっていない・・・。

 彼らは、この神の怒り、神からどれほどの処罰を受けるかを、恐れたに違いありません。そして、言い訳をするのです。
 それは、彼らの致命的な弱さ、不完全さを、ますます露呈するものでした。




   ※ ここで引用している聖書は「新改訳聖書」です。ほかにも「新共同訳」、リビングバイブル、現代語訳などがあります。


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2010年09月02日

Coffee BreakI 罪のはじまり(創世記3章)


 神が命令に背いた人間を咎められたときの、人の言い訳には目を覆いたくなってしまいます。

 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取ってくれたので、それで私は食べたのです。」(3章12節)
 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたはいったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それでわたしは食べたのです。」(3章13節)

 アダムは、自分が食べた直接の責任を、なんと妻のせいにしました。そのうえ、妻を与えてくださった神のせいにもしています。
 こんな夫の言い訳を聞いた妻はどんな顔をしていただろうと思いますが、そのようなわかりきった描写をしていないのが、この場面の「すごみ」です。
 妻は、当然のように蛇のせいにします。

 二人とも、謝るということは念頭になかったのでしょうか。あまりに、良い環境におかれて、なにも思い煩う経験をしなかったし、社会的訓練の場もなかったから、違反に対して、「悪いことをした」とは思わなかったのでしょうか。

 深刻さをさとらないで、自分の責任を転嫁するのは、親や大人に甘えきっているとき、子どもが使う手です。子どもは小さな子どもでも「謝りなさい」と教えられているので、口では「ごめんなさい」と言いますが、心では得心していないなあと見える表情をします。同時に、何か言い訳を考えているのです。
 でも、それが、大人になっても同じではないでしょうか。
 より巧みになって、自分自身にさえ、卑怯だと思われないように巧妙に、自己を正当化するようになる・・・そんな気がします。

 神の命令に背いた、これだけで、とてつもない大きな「罪」である。このようなことに、人が気がつくのは、いったいいつ頃からでしょう。

 神は、刑罰を宣告し、人をエデンの園から追い出します。


 こうして、神は人を追放して、命の木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。(3章24章)

 蛇はどうなったでしょう。もちろん、読んでいただいてわかるように、蛇にも刑罰が下されたのです。
 蛇は以後、地上を這い回ることになるのです。それが、蛇にとってどういうことだったか、たぶん、蛇は、内心、ほくそ笑んでいたのではないでしょうか。そして、たぶん、巧みに人といっしょに、楽園を出てきたのです。

 人間の歴史に、執念深いサタンとの同行が始まったのです。



posted by さとうまさこ at 06:13| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月03日

Coffee BreakJ 楽園追放(創世記3章)


 創世記3章は、すでにご存知のように、人間が神に対して罪を犯して、楽園を追放される話です。罪は神に対して犯されたのです。食べてはいけないという神の命令に背いた罪です。
 ここで、夫が自分の行為を妻の差し金であったと、妻のせいにしたことは、少なくてもなんの情状酌量の余地にもなっていません。妻も同じです。蛇のせいにしたところで、罪一等減じられるわけでもなかったのです。さらに、エバは夫に対して、思ったに違いありません。

 どうしてあたしのせいにするのよ。悪いと思うなら、初めに木の実に手を伸ばしたとき、あなたは止めてくれるべきよ。少なくとも、最初神さまから、「食べてはいけない」と言い聞かされたのは、あなたよ。
 エバは神さまにも、楯突きたかったことでしょう。
 神さま。蛇がそそのかしたのです。神さま、神さまはこの蛇もお造りになったんでしょう。
 第一、こんな魅力的な実のある木を、いつでも目立つ園の中央に植えたのは
 神さま、あなたでしょう。どうして、そんな危ないものをおいて置かれたのですか。


 これは、私の読みすぎかもしれません。じっさい初めて聖書を読んだ方からこういう声を聞くのです。読者の方はどう思われるでしょう。

 エバやアダムのために、私は、私たちは、弁護したくなるのです。罪が人に入って、それが今も、自分のこの人生にも影を落としていると言われては、黙っていられないのです。

 もっとも、ここで、人が神さまに謝罪していたとしたら、神は赦してくださったでしょうか。「ごめんなさい。二度としません」
 残念ながら、赦していただくのは無理だったでしょう。神の判決の理由は明確です。
 

 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。(3章21節)
 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」(3章22節)
 そこで、神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。(3章23節)


  人の目が開けて、神の一員であるかのように、善悪を知るようになった。この上、永遠に生きるかもしれない。そうならないように、追放。
この判決理由は、すんなりと承服できません。神のようになることができるなら、それは、神様にも喜んでいただけることかもしれないのにと、最初、凡庸な私は思いました。
 じっさい、「あの人は神さまみたいだ」と言った褒めことばが、俗に通用しています。

 私が納得したのは、また、聖書の原則に帰ったときです。聖書では、神が主役です。人は神に並び立つことができないのです。神と肩を並べた、対等になったと、頭で思っても、神にはなれないのです。じっさい、「神さまのような人」に失望させられるのが人間の世です。

 人の目が開け、知恵がつき、善悪を知って、神さま気分でいられるのは、楽園にいてこそです。
 神の保護のない世界に出て行った人間は、すぐさま自分の限界を思い知ることになります。それが、4章からの物語です。
 失敗続きの人間の物語です。
 神さまは、人間を見捨ててしまわれたのでしょうか。

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2010年09月04日

Coffee BreakK 聖書の成り立ち(創世記1章〜3章)



 創世記の最初の3章は、小説のプロローグと言ったものではありません。小説では、プロローグは物語の全体のテーマや雰囲気を提示し、この先何が語られるかを読者が推測し、期待できるように、いわば書き手の手の内を少し見せるところです。読者に先を期待させ、つぎのページをめくらないではいられなくさせる、それが小説家の腕の見せ所です。

 文学史上でも非常に新しい形式である近代小説は、あらゆる技巧をこらして、読者を物語の世界に引き込み、楽しんでもらおうとする作家の「意欲」で、発達してきたのでしょう。「小説」という形式ができる前は、物語は、「叙事詩」または「戯曲」と呼ばれる形式で語られました。叙事詩も戯曲も、それを歌ったり、語ったり、演じたりする人間が必要でした。完全に独立した文学ではなかったのです。もちろん、例外はあります。源氏物語をはじめ、少数の物語文学は古くからあります。

 よくできた小説では、作家でさえ、物語の影に隠れています。作家が何を言っているのか、どういう人間であるのかなど、問題ではなく、その中に登場してくる人物や世界に読者の関心は入り込むのです。作家が語り手となって登場している場合でも、ナマの作家が登場しているわけではありません。それもまた、テクニックの一つなのです。「わたし」という語り手がいた方が、よりリアリティをもって、物語の世界に読者を引き込めるなら、その方が良いのです。至れり尽くせりの手配が整った世界なのです。

 どんなに作者が立派──この意味はいろいろありますが──であっても、書かれている世界がおもしろいはずであっても、読者が途中で投げ出せば、作者の負けなのです。もちろん、小説にも、さまざまなジャンルの、硬軟あらゆる表現のものがあります。読み手にもさまざまな人がいます。Aさんが顔をしかめたからと言って、つまらないなんて決め付けられません。Bさんは、その噛み応えを喜ぶかもしれません。「ハッピーエンディングはつまらない」人もいれば、「やっぱりハッピーエンディングでなくちゃ」の人もいます。

 気高い理想をもって苦難の人生に立ち向かう主人公に寄りそい、涙を流し、義憤に駆られ、読み終わった後もその体験が読者を駆り立てている、そんなカタルシスを求めて物語を読む人がいます。反対に、犯罪事件や人生の敗残者の記録のよう物語もあります。せっかくの、ホッと一息のプライベートタイムに、どうしてわざわざ息苦しくなるような主人公と付き合うの、など、大きなお世話なのです。

☆☆☆☆

 さあ、聖書です。
 聖書は、もちろん、小説ではありません。近代になって書かれたものではありません。2000年前から3600年くらい昔に、1600年くらいの間に書かれたものです。作者、いわゆる聖書記者と言われる人も何十人もいます。はっきりわかっている作者、名前も立場も特定できない作者もいます。

 聖書記者が一同に集まって編集会議を開き、全体のテーマを相談して、持ち場を決め、書いたというようなものではありません。
 それどころか、互いに顔も知らない、生きた時代も違う、活躍した場所も違う人たちが書き残したものが、結果的に、一冊になったのです。ところが、ふしぎなことに共通したテーマが全体を貫いているのです。
 それは、「神と人との関係」「楽園を追放された人間を、もう一度神が手元に戻して下さろうとする計画」です。ある意味、現実を超越した世界です。

 初めに、神が天と地を創造した。

 ここには、いきなりまばゆいフラッシュを当られたような衝撃はありますが、どうぞどうぞ、続きをお読みくださいといった「媚び」はありません。
 私たちは、それでも、なんとか、3章まで読むことができました。
 私は、ひとりのクリスチャンとして、何度読んでも感慨があり、行きつ戻りつ語ったので、もう、先に行ってしまわれた方もいるかもしれません。

 足の速い方はどんどん先に進んでください。でも、時々、振り返ってくださると助かります。


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2010年09月05日

Coffee BreakL 天地創造の神の性質・愛と聖


 神のご性質について、念を入れておきたいと思います。
神に背いたということで、楽園から追放するなんて少し厳しすぎる。いくら神は唯一絶対の権威をもっているといっても、違反すれば厳罰を下す「怖い」存在なのと、聞く人がいます。

 
 神は創造者であると、何度も書きました。人間は被造物に過ぎない。でも、人間は神にとって特別な被造物だったと。なぜなら、人は神の愛の対象として、神とお話ができるように特別な「心をもった」生き物として造られたのだから。

 そのような「愛の神」がどうして、楽園追放というような厳しい罰を下したのか。
 それは、神のもう一つの性質「聖」(きよさ)を認識しないとわかりません。
 神はとても聖い方です。違反や不正を激しく憎まれるのです。愛にせよ聖にせよ、神の持つパワーは限りなく強く大きいものです。
 それで、神が怒り、悲しみ、憎むとき、そのパワーも強いのです。

 ここで、このブログのおすすめサイト、ペンテコステ宣教学・やさしい神の国講座(神の国の大河ドラマ)から、簡潔で行き届いた説明をお借りすることにします。



 罪を犯してしまった人間を、神がご自分の前から追放されたのは、 神の聖さだけではなく、愛の性質のためでした。
 神の絶対の聖さは、汚れたものが近づくと、それを焼き尽くさないではいないからです。それはちょうど燃え盛る火のようです。(ヘブル12:29)
 燃え盛る火に飛び込んでくる虫は、一瞬のうちに焼き尽くされてしまうように、絶対に聖い神に罪あるものが近づくと、たちまち焼き滅ぼされてしまうのです。
 そこで神はその愛の性質のために、罪を犯した人間がご自分に近づいて滅んでしまわないように、ご自分の前から追放し、もどって来られないように、厳重な警戒を敷かれたのです。そのようにした上で、神は人間に救いの道を準備してくださったのです。(創世記3:23−24) 



 私たち人間は、神の聖さを、意識しないでも知っているのではないでしょうか。ですから、どんな人にも、「良心」というものがあります。神の聖さに、自分を照らして見る本能があるのです。だから、なかなか「正しく」生きられないことに、苦しみます。平気な顔をしている人でも煩悶します。

 私の愛犬ジョンは、とても忠実でした。教えられたことは良く覚え、守りました。悲しそうにしているときもありました。でも、煩悶しているようには見えませんでした。そもそも「良心」に照らして何かを判断するような「本能」に欠けていたからです。古くから言われているように、人間は「万物の霊長」です。




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2010年09月06日

Coffee BreakM 聖書に見る罰(創世記3章)



 人を前(みまえ)から追放された神は、それをよしとされたでしょうか。追放の理由が、神の愛の性質ゆえなのです。とても、悲しいことだったと思います。たとえば、何か問題があったために、子どもを叱る親の気持ち、親友とあえて別れなければいけないとき、人は怒りとともに、怒りによって相手と引き裂かれる痛みを覚えます。できるなら、赦して、適当なところで折り合いをつけて、これまでどおりの関係を続けて生きたい──。
 じっさい、人の場合は、完全に親子の関係を断つなんてことは、できないのですが、神さまはちがいます。許すと、愛する人が火に飛び込む虫のように一瞬にして、滅んでしまうのですから。

 人にとっては、もちろん、神の保護を失うことは怖ろしい結果をもたらしました。


 女にはこう仰せられた。
「わたしはあなたのうめきと苦しみを大いに増す。
あなたは苦しんで子を産まなければならない。
しかも、あなたは夫を恋い慕うが、
彼はあなたを支配することになる。」(創世記3章16節)

 また、人に仰せられた。
「あなたは妻の声に聞き従い、
食べてはならないと
私が命じておいた木から食べたので、
土地はあなたのゆえにのろわれてしまった。
あなたは、一生
苦しんで食を得なければならない。(3章17節)

土地はあなたのために、
いばらとあざみを生えさせ、
あなたは、野の草を食べなければならない。(3章18節)

あなたは、顔に汗を流して糧を得、
ついに、あなたは土に帰る。
あなたはそこから取られたのだから。
あなたはちりだから、
ちりに帰らなければならない。」(3章19節)
 

 これは、なんと厳しい!
 というより、あまりに、人が置かれた状況そのものなのではないでしょうか。
 私は、最初これを読んだとき、むしろ、この刑罰にとても驚きました。
 今、私たちが、生きるためにしなければならないもろもろの労苦、女性が子どもを産むことが、一つの大きな「事業」のように、心身の負担を伴うこと。また、夫と妻の関係などが、この時、神によって「刑罰」として宣告されたものだった!!

 アダムとエバは、自分たちの犯した罪が、このように、彼らの子孫に永遠に及ぶとは、考えたでしょうか。


posted by さとうまさこ at 05:45| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月07日

Coffee BreakN 因果応報とサタンと



 人は生まれながら罪を負っている。


 子どもの時、私はこのような考え方を、周辺の大人からしばしば聞かされました。人が人生でいろんな苦難に遭うのは罪のためだ。
 しかし、当時、私の周りに、クリスチャンはひとりもいませんでした。日常的に聖書を読んでいる人も知りません。
 
 私の育った宗教的環境は、いわゆる日本の伝統宗教です。寺の檀家であり、同時に神社の祭礼があればそれにも参加するような宗教的混合社会でした。実際の生活では、葬式と死者の弔い・祀りを行なう寺を中心とする絆が極めて強い地域でした。
 仏教の「教え」がしっかり語られていたのでもなさそうでしたが、生活の苦労や病気の人を慰める精神的な支えは、やはり「お寺さん」にあったようです。

 檀家寺のお坊さんは、毎月決まった日にきちんと訪問してくださって、仏壇にお経を上げて下さるのです。それはとても大切な日で、その日は新しい花や果物、菓子を仏壇に供え、特別の座布団を仏壇の前に用意して、お坊さんをお迎えしました。子どもたちは親とともに、お経を上げるお坊さんのうしろに並んで正座し、神妙な顔でお経を聞いていたものです。お経が終わると茶菓でおもてなしをし、子どもはお茶や菓子を運び、ふたたび座ります。子どもが誕生日だとか、ちょっと良いことをしたときなど、母がそれをお坊さんに報告し、するとお坊さんは手を私たちの頭に置いて、時には短い経文を唱えてくださるのです。
 親が何か相談事をお坊さんにするときは、あらかじめ言い聞かされているので、子どもは座を外しています。でも、そのつもりなら、襖越しに聞こえます。そんなに難しい話をしているわけではありません。近所づきあいや親戚づきあい、主婦としてのちょっとした愚痴。お坊さんも大体予定している時間がありますから、最後には、「いや、生きるのは苦です。人は生まれながら苦を負っているんですな。生まれながら罪があるんです」というあたりで、打ち切られます。

 「生まれながら苦を負っていて、罪がある」というのが、どういう意味かは、じつは、大人の世間話のうちに含まれていて、しぜんに得心していったことでした。
 それは、いわゆる生老病死という人間の四つの苦から始まっています。生きること自体が罪を犯しているのです。私たちの命は、ほかの命の犠牲のもとに支えられている。毎日の食事、着る物、家屋、土地を耕すこと、すべては、ほかの生き物の命と引き換えに得ているものだというのです。これは、ある意味とてもわかりやすい理屈です。食べる物で生きていなかったものなどひとつもないのですから(たとえ、米や野菜であっても生命のあるものです)、生きることは本源的に罪を作る事なのかと子どもながら納得します。挙句に、人の一生は老いに向かっており、必ず病を得て最後は死ぬのです。

 罪のもう一つの由来は、「因果応報」として語られていたように思います。いわゆる、前世の因縁、先祖からの因縁、本人の過去の行動からの因縁。
 不幸が続くのは、前世で悪いことをしたからだ。先祖が悪いことをしたからだ。知らない間に罪作りなことをしているのだ。挙句に、先祖の供養が足りないから、ご先祖が怒っていらっしゃるのだ。

 お断りしておかなければならないのですが、私はこれらが、仏教の正しい解釈から来た教えであるかどうかは、今もって知りません。
 たぶんに俗耳に入り、巷間、人々にわかりやすく解釈されていった「仏教的罪の由来」かもしれません。
 しかし、いまでも、これらの考えは、結構生きていないでしょうか。先祖の供養が足りないから、水子供養をしないから、親の行いが悪かったからというのは、まだしも。若い女の子が、「あたしね。前世では、クレオパトラだったんだって」などと電車の中で大真面目にしゃべっているのを聞くと、ただ、びっくりしてしまいます。
 
 なんといっても、上の二つの罪の原因と、創世記3章が意味する罪の由来は、まるで違うものだとわかります。

 聖書では、罪は「神に対して」犯されたものです。神を敬わないのはもちろん罪です。アダムとエバのように神の命令に背くのは罪です。しかし、同時に、人と人の関係に過ぎないと思えるようなこと、盗みや殺人、親への反抗や嫉妬や姦淫(不倫)、困っている人を助けないことも罪なのです。なぜなら、そのようなことはすべて、神がいとわしく思われるからです。神は人に、隣人を愛するようにと命じておられるのです。その命令に背くのは、罪なのです。

 では、もろもろの苦難や不幸はどのように考えればいいのでしょう。まだ、何の罪もないはずの赤ちゃんが、戦争発生地帯に生まれたばかりにひどい怪我をする、生まれてすぐ親を失ったなどという場合、原因は何なのでしょう。

 それは、私たちの生きているこの世それ自体が、罪の世界である、サタンが支配する世界であるからというのが、聖書の教えです。

 エデンの園から追い出されたというのは、神の祝福と守りの中から追い出されたことなのです。人は、神の保護のない、悪魔が支配する世界に入れられてしまったのです。

 ただ、それでも、神は、私たちを心にかけておられ、なんとか元のように私たちをみもとで愛したいと思っておられ、そのご計画を、実行しておられると言うのが、私たちクリスチャンの希望です。

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2010年09月08日

Coffee BreakO 目が開かれるということ(創世記3章)


「主(神)を恐れることは知識の初めである。」(箴言1章7節)


 箴言は、39巻ある旧約聖書の20番目にある文書です。格言とも言うべき、諭しのことばです。「知恵文学」と呼ばれています。「神の救いの歴史」とはまた別のカテゴリで書かれているので、「創世記」を読みながらでも、興味を持って読むことができます。

 子どもの頃の宗教的環境を思い出したのは、因果、因縁で不幸が巡っているような考え方が正しいのかどうかを、問題にするためではありません。
 その考え方が、間違っているにせよ、世俗の人々が考える中途半端な思弁にせよ、あの頃は、もう少し人が「霊的事実」に向き合っていた時代でした。
 男は、家族を養うため、文字通り顔に汗して働くもの。女はそのような夫に従い、家族を一所懸命支える──そういう伝統的な生き方の名残が、まだまだ人に枠を嵌めていました。
 何か、わからないけれど、目に見えない力が自分たちの目に見える人生に働いている、そのような自分の力が及ばないものへの恐れは、今とは比べ物にならないほど強かったのではないでしょうか。
 
 いまは、どうでしょう。人は目に見えないものと、目に見える自分の力とを区別できているでしょうか。
 幸せで当たり前、ほしいものを手に入れて当たり前、欲求は満たされて当たり前。それも、すべての人がそうあって当たり前。隣の人が持っているものは、自分の手にも入るもの。力ずくでも手に入れるもの。手に入らないのは、誰かが悪いのだ!
 
 誰かが悪いと数え上げ始めると、いくらでも出てきます。道を歩いていて、わき道から自転車が飛び出してきても、バスが急ブレーキで止まっても、小さな段差で自分がつまずいても、「自分以外のもの」に腹を立てることができます。親、兄弟、家庭、国。社会や行政や学校制度。学校の先生、福祉、町内会、隣人。机を並べて仕事をしている同僚、上役。友人、仲間。ショッピングセンターの店員の応対。楽しそうに歩いている見知らぬカップル。

 自分を取り巻くものは、自分を支えてくれるだけではありません。自分の幸せや平穏を乱す原因にもなります。
 
「人差し指で人を指差せば、ほかの3本の指は自分を指しているんだよ」
 ある時、指を指された子どもがいいました。小学生でも、知っている事ですから、大人が知らないはずはないでしょうが、指差し合戦はけっこう蔓延しています。

 悪いものを正す必要があるのは事実でしょう。それができるのも、また、神に造られた人間です。 しかし、指差した後、もう3本の指に自分を指されて、落ち込むことはないでしょうか。落ち込んで、「うつ」の診断を受けて、薬を処方してもらえば解決でしょうか。お酒で気晴らしすれば解決でしょうか。気分が良くなれば、解決でしょうか。

 
「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3章5節)と、蛇はエバにささやきました。
 それまでも、善悪の知識の木は、おいしそうな実をつけて、そこにありました。また、食べるものは園の中にいくらでもありました。それなのに、エバは禁じられている実に手を伸ばして、取って食べたのです。
 サタンは、人の思いあがりの心に付け込みます。何一つ、申し分なく平穏な者にさえ、ささやくのです。
「ほら、あれに指を差してご覧。あなたは、彼らより上になるのだ」

 神の祝福の中から追い出されて、人間がどのような運命を辿るのか。創世記4章ではアダムとエバの二人の息子が、いきなり人類最初の殺人事件を起こすのです。家庭内殺人です。裁判になっていたら、裁判官は首を傾げたことでしょう。動機を、明らかにするのは、とてもむずかしいからです。


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2010年09月09日

Coffee BreakP 人類最初の家庭内殺人(創世記4章)


 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。(創世記4章1節)
 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕すものとなった。(4章2節)
 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげものを持ってきたが、(4章3節)
 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持ってきた。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。(4章4節)
 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。(4章5節)


 楽園を追放されたアダムとエバですが、神を敬い、慕う気持ちはなくならなかったようです。長男を得たエバは、「私は主(神)によって一人の男子を得た」と、感謝しています。
 楽園の外の生活は厳しいものであったとしても、二人は、神が宣告した刑罰に従っていました。アダムは額に汗を流して働き、エバはお産の苦しみを経験して、それでも、生き抜いていきます。


 彼らの子どもたちは両親を見て、人は生まれたときから働いて糧を得るものと学んだのでしょう。カインは土地を耕し、アベルは羊を飼うものとなったのです。
 収穫があったときに、それを「神にささげる」と、だれが教えたのでしょう。神を礼拝しないではいられないという本能が、しぜんにそのような行動を取らせたのでしょうか。じっさい、厳しい自然環境の中で、収穫があった喜びは格別だったでしょう。

 二人は仲良く、同じ時、同じ場所で、自分の得たものを献げたのです。
 ところが、神は、アベルの捧げ物──初子の羊を──喜ばれて目に留められ、カインの、──たぶん、これも収穫物の中では一番良いものであったのでしょうが──収穫物には目を留められなかったと言うのです。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

 今風に言えば、「深く傷ついた」わけです。今風に、彼の立場を理解してあげると、「傷つくのはもっともだ」となるでしょう。
 神様に献げる行為も、その動機も褒めてもらえるようなことです。神は、肉がお好きで、植物はお好きではなかったなどと解説する向きもあるようですが、そんなことはカインにとって、「知ったこと」ではありません。彼は農耕者なのですから、農産物をささげる以外なかったのです。アベルは牧畜業なので、子羊を捧げたのです。この比べようもない二つのものの一方を、神は目を留められた、つまり、評価されたように、カインには思えたのです。
 
 この場面は、人の怒りと嫉妬について、いろいろなことを教えてくれます。
 
 先ず、審判者が自分の信頼している方である場合、その怒りは信頼に比例して強くなります。親や教師は公平に扱ってくれるものと思っているので、親や教師が不公平だと思うとき、その失望と怒りは強いのです。神は彼らにとって、親よりもっともっと高い存在でした。
 自分の行動の動機が良いと思えるとき、人はそれを無視されたり、評価されないと、怒りが湧きます。
 さらに、精一杯のことをしているのに、評価されないとがっかりします。
 比べられる相手が、自分と近い人間である場合、関係の遠い他人と比べられるより怒りも嫉妬も強くなります。
 つまらない例ですが、ミスコンに出て、ひな壇に並び、ルックスやスタイルや歩き方を露骨に採点され、たとえ入賞しなかったとしても、あまり怒りは湧かないかもしれません。それが、同じ姉妹同士、並んでいるときに比較評価されたら、頭にくるのではないでしょうか。だから、意地の悪い人間は、親友同士のつながりを切るのに、一方だけを褒めたりします。
 
 ふつうに考えれば、カインが怒る理由は揃っていたのです。
 
 ただ、これはふつうの話ではないのです。彼らがささげ物をした相手は、王でもなければ、高貴なお客様でもありません。神さまだったのです。

 ここで、「神は、目を留められた。」「目を留められなかった。」とあるので、私たちはつい、二人の若者とそれをご覧になっている神さまとを思い浮かべてしまいます。
 しかし、聖書の基本にもどれば、神とは、霊なのです。人間のような目鼻がついた方ではないのです。私たちの中に生まれながら備えられた、神と語る空間──心や魂を通して神は語りかけてくださり、見つめて下さり、必要なら励ましなぐさめてくださるのです。神が喜ばれるすがたも、私たちの心に映るのです。
 
 神がカインのささげ物に目を留めてくださらず、アベルのささげ物に目を留めてくださったと、カインはどうして思ったのでしょう。なぜ、彼の心や魂は、神が自分を無視し、弟を評価されたと、取ったのでしょう。


 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。(4章6節)
 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(4章7節)


 神は至高の方、絶対者ですから、仮に、神がカインのささげ物をお喜びにならなかったとしても、カインは怒ってはいけなかったのです。いかなる場合にも、神に従う、それが被造物としての在り方だからです。
 しかし、カインは、どうしても「自分をおさめる」ことができませんでした。
 

 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」 そして、二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。(4章8節)
 主はカインに、「あなたの弟アベルはどこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。わたしは、自分の弟の番人でしょうか。」(4章9節)


 痛ましい、何か恥ずかしいような話です。これが、人間の姿なのだと、でも、認めているような気もするのです。
 神が人と契約を結ばなければならない、戒めを与えなければならないと、お思いになったのは、この時からかもしれません。



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2010年09月10日

Coffee BreakQ カイン


「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(4章7節)


 カインがひどく怒って顔を伏せたのをごらんになった神は、こう言われました。反抗的な膨れ面は、神への罪なのです。それで、神は、カインに注意を促したのです。悔い改めるようにと。
 悔い改めないなら、
罪は戸口で待ち伏せしているとは、なんとこわい状況でしょう。しかも、罪は罪を犯した人間を、恋い慕っている

 カーッとなって、我を失い、肩怒らせて出て行く人間を、戸口で迎えるサタン。サタンは満面に狡猾な笑みを浮かべて、怒っている人の手を握り、「よくやった」と、彼を連れ出す。そんな光景が目に見えるようです。

 だれでも、一度や二度は思い当たる場面ではないでしょうか。たびたび!という人もいるかもしれません。
それを治めるべきであると、神が言われるまでもなく、こんな時、怒りに駆られている自分を「制御したい」と人は思います。落ち着いて、落ち着いて! クールダウン! 深呼吸して。とりあえず、ここは我慢して・・・。

 でも、心の底から、「自分を治める」ことが、できるでしょうか。

 
 カインはどうだったのでしょう。
 小説なら、ここは作家の想像が羽ばたくところです。


 カインはあえぎながら、こぶしを握り締め、弟を睨みつけていました。弟のささげ物も自分が持ってきたささげ物も蹴散らしたい衝動を、必死で抑えていました。さすがに、主の目の前で、怒りを爆発させることは出来ませんでした。
 何も気づかないアベルは、兄を見て言いました。
「どうしたの。兄さん。顔が真っ赤だよ」
 戸口で待っていた罪が近寄ってきて、カインの肩を叩きました。
「あの余裕を見てみろ。この上、お前は、弟の笑いものになるのか」


 正しく行なう暇も与えません。サタンは抜け目がないのです。

 カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」 そして、二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。(4章8節)
 カインを、私たちは断罪できるでしょうか。私たちも似たような者なのです。ひとたび、罪に囚えられたら、自分の力だけでそこから抜け出すのは、容易ではありません。
 
 やがて、人間は、祭壇を築き、犠牲(自分の罪を身代わりに負う動物のいけにえ)を献げて、神に罪の赦しを乞い、その御心を聞くようになりました。自分で治められない自分を、神に委ねようと気がついたのです。でも、それは、カインからずっとずっと後の時代の話です。

 カインは、その上、過ちを尋ねられて、開き直り、しらを切りました。罪の上塗りをしたのです。
 

 主はカインに、「あなたの弟アベルはどこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。わたしは、自分の弟の番人でしょうか。」(4章9節)

  

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