2010年09月11日

Coffee BreakR ひれ伏す心(創世記4章、ルカの福音書12章7節)


 秋口になると、シャンプーするたびに、髪の毛が大量に抜け落ちます。まめに掃除機を掛けていても、部屋の中には、髪の毛が落ちています。毎日どれほどの髪の毛が抜け落ちているにせよ、抜けるばかりでなく、きっと新しいのが生えているのです。
 いったい、その増減はどのようになっているのでしょう。日ごとに会計簿で、お金の出入りを細かくチェックする人でも、血圧や脈拍、体重などをチェックする人でも、髪の毛ばかりはチェックの対象になりません。

 聖書には、
あなた方の頭の毛さえも、みな数えられています。(新約聖書・ルカ12章7節)とあります。
 聖書の神は、「天地万物を創造された神」であると同時に、「全知全能の神」です。地球上に約69億人(2010年度・国連による推計)の人がいても、そのすべての人の、刻々と変わる髪の毛の数までご存知の方です。神を畏れるとは、このような神のご性質を思うとき、しぜんに人間の心に湧き上がってくる畏敬の念ではないでしょうか。

 弟を殺しておいて、神からその所在を尋ねられると、「知りません。わたしは、自分の弟の番人でしょうか。」と答えたカインは、あまりにもナイーブに見えます。
 神を畏れることは、知識の始めである。のだとしたら、彼はまだ、始めにも、立っていなかったのです。神が、カインの弟殺しをご存じないはずがない、と思い至らないのですから。

 神はすかさず、仰せられます。
「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。」(創世記4章10節)
 そして、宣告されるのです。
「今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。(4章11節)
 それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じはしない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」(4章12節)

 これを聞いたカインは、一転、弱気になって、神さまに泣きつきます。

「わたしの咎は、大きすぎて担いきれません。(4章13節)
 ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔(みかお)から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで。私に出会うものはだれでも、私を殺すでしょう。」(4章14節) 


 カインは、神がすべてをお見通しであることに驚き、刑罰の重さに驚き、身も世もないほどうろたえているのです。この、幼児並みの弱気な反応に、神は言われます。

「それだから、だれでもカインを殺すものは、七倍の復讐を受ける。」 そこで主は、彼に出会うものが、だれも彼を殺すことがないように、カインに一つのしるしを下さった。(4章15節)
 

 エッと、思うところです。何の罪もない弟を問答無用で殺したカインが、命乞いをすると、神は即座に減刑された? カインは、新しい土地で生きることを許されるのです。

 たとえ、大きな過ちを犯したあとでも、罪を認め、神の前にひれ伏すなら、神は憐れんでくださる──!! 
 間違いばかりを繰り返す人間にとって、このような、神さまの愛は、なんとなぐさめでしょう。大切なのは、神さまの前に、ひれ伏す心であると、この箇所は教えてくれます。

 クリスチャンはいつも祈ります。教会で礼拝しますが、自分ひとりでも祈ります。
 あんなに熱心に、何をお祈りしているの。ノンクリスチャンの友人に聞かれたことがあります。何のお願いをしているの。
 もちろん、クリスチャンもいろいろ願いがあり、その願いを叶えてくださるようにと祈ることもあります。
 でも、まず、神様の前でひれ伏すのです。神さまを畏れ、悔い改め、神さまの大きさ、高さ、深さ、広さ、全能さ、聖さ、愛を賛美するのです。そうすることが、けっきょく、神さまの愛に触れることだと、だんだんわかってくるのです。聖書の、その初めから記されているように。




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2010年09月12日

Coffee BreakS カトリーヌ・アルレーの世界(創世記3章4章)


 カインの殺人事件は、Coffee BreakOで書いたように、「裁判になっていたら、裁判官は首を傾げた」ことでしょう。
 動機を明らかにするのは、とても難しいからです。
 客観的にだれかが見たら、カインがアベルを殺すほど嫉妬する理由は見当たらなかったのではないでしょうか。今とは、比べようもない自然条件の中で、二人はそれぞれの仕事と格闘しなければなりませんでした。けれども、どちらも、同じ時期に、一定の成果を上げ、その収穫を神さまに感謝し、ささげ物を神様の御前(みまえ)に持ってくることができるようになったのです。それまでに、二人の間に利害の対立などあったでしょうか。二人は、まったく違う仕事をしていたのです。


 カインの言い分──「神さまは、弟の方のささげ物に目を留められて、自分のささげ物には目を留められなかった。それで、カッとなって・・・」は、はたして、法廷で認められるでしょうか。
 神さまが、兄弟を依怙贔屓したと証明することは難しいでしょう。もちろん、神さまを法廷にお呼びすることはできません。
「なぜ、弟を殺したんだね」と、裁判官。
「腹が立ったんです。やつがおれを侮辱したから」。
 また、
「やつはなにもかもうまく行ったんだ。羊は順調に育って、子羊を何匹も産んだ。やつは、毎日おいしい乳を飲んで、肉を食べていた(聖書的にはノアの時代以後ですが)。それにひきかえ、おれは一所懸命働いたのに、小麦が全部イナゴでやられちまって・・・。大変だったんだ。やっとそれでもいくらか獲れたものを、神さまに持ってきたんだ。やつは、それを軽蔑の目で見たんです」

 そんな証拠もたぶん、出すのは難しかったでしょう。


 わたしはかつて、ミステリーのファンでした。自分でも書いてみました。本として出版されたようなものはありませんでしたが、犯罪事件を物語に組み立ててみるのは、人間や人生について考えさせられることでした。
 ます、事件を起こす必然性、いわゆる、動機です。人間の目で納得できるためには、いくつかの、非常に類型化されたパターンがありました。犯罪事件の原因は、お金、男女関係、怨恨、家族防衛、社会的地位や名誉の獲得競争、保持などでした。
「でした」と、過去形なのは、古典的なミステリーではそのようになっている、ということです。アガサ・クリスティ(名探偵ポアロ)やコナン・ドイル(シャーロック・ホームズ)などの探偵小説を思い出してください。物語を語る手際がいいので、複雑な事件を探偵が知恵を絞って解決しているように見えますが、ナゾ自体はきわめて単純なものです。

 犯罪事件、または広い意味でミステリーな出来事が、類型化できるようなものなので、やがては飽きられるわけです。それで、魅力的な探偵を登場させたり、特殊な世界を舞台にしたり、謎解きそのものに工夫を凝らしたり──密室物など──、実話を絡ませたり、どんどんバリエーションが増えていきました。それでも、小説に書くような話は単純なのです。動機や犯罪の起こり方に、読者が納得できるものがなければなりません。

 意外性を狙い、読者のウラをかいて、最後に「アッ」と言わせるのが作家の喜びなのですが、だからと言って、最後の最後に、とつぜん、それまで、登場していなかった人物が出てきて、「じつは私が犯人だ」では、話になりません。
 同時に、犯人らしくない人物が犯人だったという意外性にも、あちこちにヒントが埋め込まれていて(伏線)、ああ、そうだったのか。あそこを読み落としていたと、読者がほぞを噛むように、また、横着な読者が飛ばし読みしないように、しっかり作るのが作家の腕です。

 ミステリーと言うジャンルのために弁護しますが、ミステリーはその後、進化発展して、じっさいには、小説のジャンルとしても幅を広げ、取材する世界、人間性の掘り下げ方、手法など、とても多様になっています。

 とりわけ、私が好きだった心理サスペンスの世界は、もう古典的な謎解きとは無縁の世界です。そこでは、動機、それも類型化された動機でなく、理由のつかない「人間の心の闇」とも言うべき世界を扱った優れた小説が、数多く生まれています。


 たとえば、──これも今では古典ですが──カトリーヌ・アルレーの「わらの女」。平凡で貧しい孤独な女が、まだ見ぬ富に憧れ、生活の変化を求めて、新聞の小さな求婚広告に応募するところから、幕が開きます。
 彼女・ヒルデガルデは、予想通り、思いがけないほどの巨億の富の世界に入っていきます。そこにいるのは、悪魔ばかりなのですが、ヒルデガルデは多少の悪には負けないと自分も悪魔の仲間入りをしたつもりでいるのです。しかし・・・。
 そのようなナイーブな悪を、本物の悪魔がひねるのは簡単なのです。膨大な長編ですので、ここでは「さわり」をお伝えするのもむずかしいのです。



 最近、私たちの身の回りに、カインのような事件がたくさん起こっていないでしょうか。他人が見たら動機がわからない、あとになると本人も説明ができないような殺人やいたずら。

 創世記の、気の遠くなるような昔の話が、かえって今の時代の事件に似ているのは、どうしてでしょう。あまりにナイーブで、神を畏れることを知らなかったカインのような人が増えているのでしょうか。
 それとも、神などいるものかと、そっぽを向いているために、カインと同じように、サタンにそそのかされるのでしょうか。



 「わらの女」の主人公は、第二次世界大戦中、ハンブルグの大空襲で親兄弟、友人をすべて失い、生活の基盤も失い、深い虚無の中にいました。そこでは、サタンの声はとても真実味がありました。金持の男と結婚するしかない、お金がすべてだとヒルデガルデは信じるようになっていました。その手段は、毎日、新聞の求婚広告を見るといったあてにならないものでしたが、悪魔がささやき続けていたのです。
 彼女はドイツ人ですから、子どものころは教会にも行ったはずです。神さまを知らなかったわけではなかったでしょう。しかし、祈るような気持ちになれないところに立っていたのです。
 悪魔の声に振り回されていくヒルデガルデは、破滅のどん底で初めて、「神さま」と叫ぶのです。残念ながら、神さまがお答えになる時間はありませんでした。彼女は同時に、意識を失くしていたからです。自殺したのです。


 それにひきかえ、まだ、生まれたばかりの人の、最初の息子、ろくに神さまのことも、祈りも知らなかったカインには、神さまが憐れみをかけてくださったのでしょう。


 
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2010年09月13日

Coffee Break21 もう一度天地創造



 Coffee BreakCには、読者の方からのいくつかの質問をご紹介しました。

 ここで、その2番めにあったご質問、「天地はほんとうに六日間で出来たと信じている?」に対してお答えします。
 大変、重要なことがらですので、今一度、このブログのおすすめサイト・ペンテコステ宣教学・やさしい神の国講座2章から、佐々木先生の文章をお借りしたいと思います。サイトをご覧になればプロフィールがありますが、佐々木先生は、長く宣教師をされ、今は日本で教会を牧会しておられる経験豊かなベテラン牧師です。難しいことをやさしく解説するテキストをいくつも書いておられます。
 

 天地創造のでき事は、聖書の一番初めに置かれている、創世記という書物の最初の部分に、物語風に記録されています。初めてこの部分を読む現代人は、つい、自分たちの合理主義的な考え方、つまり、自分の理論を大切にするものの見方を持ち込み、理科の教科書でも読むような、自然科学的な感覚で読んで、荒唐無稽な神話だと思い違いをしてしまいます。

 それに対して、これは文字通り事実であると考えるクリスチャンたちは、これもまた、現代的な合理主義に立つ自然科学の知識を駆使して、これが単なる神話ではなく、科学的な事実であると証明しようとしています。しかしどちらも、自分たちがとんでもない誤りをおかしていることに、気づいていません。

 それは、この書物が今から3500年ほども昔、まず、その当時生きていた人々に分かり易く、書かれているという事実です。21世紀の人間が、物理学の知識、生物学の知識、天文学の知識、その他、関係するあらゆる科学的知識をもってこれを調べ、納得できるように書かれているのではありません。合理主義や自然科学が発生する、3000年以上も前に生きていた人々に、最も分かり易く、最も記憶し易く、最も要点をつかみ易く書かれているのです。ですから、そこに記されていることは、現代の科学知識から判断して、正しい記述であるかどうかと議論するのは、まったく的外れの愚かなことです。あらゆる科学的知識に満ち溢れ、その知識の上に世界を創造なさった神が、3500年前に生きていた人々に、最も理解され易く、受け入れられ易い書き方をしてくださったのです。そのことを理解して読むと、逆にこの部分が、豊富な科学的知識を背景に書かれていることに、驚かされます。自然科学とは、結局、神が天地創造のときにお定めになった、自然の法則を学び、利用するものなのです。

 創世記のこの部分で、神が人間にお伝えになろうとした基本的な事柄は、多分、以下のようにまとめられることでしょう。

 @神が天地の創造者であり、すべてのものは神によって発生し、神によって存在しているという  事実。
 A創造者である神は、またすべてのものの支配者であるという事実。
 Bすべての被造物は、神がお定めになった秩序(法則)によって正しく保たれているという事実。  
 C人間も神の被造物のひとつに過ぎず、神の絶対の権威のもとに生きるように定められているという事実。
 D人間だけが神に似せて造られ、神との特別な関係を持つように造られている事実。



 私たちは子供のころ、一度は、「どうしてお空があるの」とか、「どうしてお日さまが出来たの」「お星さまはどれくらい遠くにいるの」と、大人に訊いたことがあるのではないでしょうか。
 
 もう少し、大きくなれば、自分たちが親から生まれ、その親はおじいさん、おばあさんから生まれ、そのおじいさん、おばあさんは、ひいおじいさん、ひいおばあさんから生まれと、さかのぼり、で、結局、最初の人間はどうして生まれたんだろうと、思ったことはないでしょうか。
 私たちが鳥類なら、まだ、親たちも、答えやすかったでしょう。ニワトリはたまごから生まれるんだ。たまごはニワトリから生まれるんだ、と、例の、ニワトリ・たまごのたとえで、冗談にしてしまうこともできるからです。

 それでは、納得できなくなる頃に、学校で、「正式」な答えを用意しているのです。
 おおざっぱに「進化論」と呼ばれるものですが、それでも、高校生になると、もう、先生に食い下がる生徒がいました。
「それでは、最初の単細胞生物はどこからきたのですか」
 私たちの生物の先生は正直な方でした。
「最初の、単細胞生物がどうしてできたか、まだ、わからないんです。作ってみようという試みは、いろいろあるようだけど。まあ、原始の地球と同じ環境を作るのは、実験室では無理だから、無理だというあたりかな」


 星がまたたき始めた草原で、大家族が集まって夕食を食べています。
 麦粉だの、木の実、干し肉など、食べ物は粗末なものです。汚れた手で食べている子どもに、おじいさんが話しています。
 
 神さまはね。最初に光をお造りになった。神さまが「ひかりがあれ」と命じられると、光が現れたんだよ。神さまはひかりをご覧になって、「良し」と言われた。それから、ひかりと闇を分けられた。それで、夜と、朝が区別されるようになったんだ。一日目のことだ。

 子どもたちは目を輝かせて、おじいさんの話を聞いています。
 そんな光景が浮かぶ、創世記の天地創造物語です。


 創造が六日間で終わっているのは、実際的な意味もあったようです。
 奴隷状態が長かったイスラエル民族に、リズミカルな生活、六日間働いたら、七日目には休むよう教える必要があったのです。

 イエス様もおっしゃっています。

「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。
人の子(イエス様)は安息日にも主です。」(新約聖書マルコ2章27節28節)


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2010年09月14日

Coffee Break22 箱舟(創世記6章7章8章)



 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、私の前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。(創世記6章13節)
 あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。(6章14節)
 それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュピト。その幅は五十キュピト。その高さは三十キュピト。(6章15節)

 聖書を読んだことがない方でも、ノアの箱舟(方舟)の話をご存知の方は多いのではないでしょうか。「ノアの箱舟」または「箱舟」だけで、慣用句のように使われることもあることばです。
 この箱舟の物語は、創世記6章、7章、8章と、三つの章を費やして語られています。これは、聖書のテーマ「神の人類救済史」の中で、とても、大きな意味を持つ話なのです。
 
 
 アダムとエバの背きに、「追放」という罰を下された神は、彼らの長男カインの殺人に対しても、「追放」にされました。
 同じ追放でも、もちろん、その意味は格段に違います。アダムとエバは楽園「エデンの園」から追い出されたのです。カインは、すでに楽園の外にいて、住み慣れたはずの場所から追放されただけでした。
 カインが泣きついたので、神さまはカインに「しるし」を下さって、ほかの者が彼に害を加えることがないようにして下さいました。いのちの保障はあったわけです。
 
 神さまはけっきょく、最初に背いたアダムとエバの夫婦も、その子どもも、命まで奪われるような罰は下さなかったのです。ご自分が直接、愛をこめてお造りになったアダムやエバ、その最初のこどもを、やはり、愛しく思われたのでしょう。
 聖い神からご覧になったら、その聖さで本来は、一瞬にして焼き滅ばされても仕方のない人間たちのいのちを、神さまの愛が、救われたのでした。

 しかし、そのような、「出来事」は、その後に生まれる人間に伝えられたのでしょうか。聖書によると、アダムとエバの夫婦も、カインも、たくさんの子どもを残しました。何代も代を重ねるうちに、人間は増え広がりました。

 アダムから10代目の子孫が、ノアです。彼は直系のまたその直系の子孫ですから、傍系の子孫を含めると、相当人口が増えていたことでしょう。
 「産めよ、増えよ。地に満ちよ。」と、神さまが願われた人間でしたが、増え広がった人間は、神さまの目にどのように映ったのでしょう。

 主は、地上に人の悪が増大し、その心の計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。(6章5節)
 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。(6章6節)

 
 そして、ついに、

 主は仰せられた。「私が創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはう物、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」(6章7節)


 神は大洪水を地上に起こして、地上のすべてを消し去ろうと決心されたのです。
 そして、ノアには箱舟を作り、家族とともに、その中に避難するよう命じられたのです。
 どうしてノアだったのでしょう。




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2010年09月15日

Coffee Break23 ノア(創世記6章7章)


 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、私の前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。(創世記6章13節)



 絵本が好きな方は多いでしょう。わたしも好きです。図書館の児童書コーナーには、絵本がたくさん展示されています。絵本が一冊一冊、表紙を見せて展示されている前にはベンチがあって、手に取ったものを、その場で腰を下ろして読むことが出来るのです。
 創作絵本は別として、絵本になる物語は案外良く知られているものです。物語にひかれて読むのではなく、やはり、絵を楽しむものかなあと、自分の嗜好を考えています。
 古典的な良く知られたお話、たとえば、赤頭巾とか、白雪姫、かぐや姫などの絵が、自分の子供のころとずいぶん変わってきました。みんなとても上手で、個性があります。

 ノアの箱舟の物語は、クリスチャンになるずっと以前から知っていましたから、最初は、このような絵本で読んだのかもしれません。
 大きな大きな箱舟を作って、そこにノアさん一家とたくさんの動物たちが入ったあと、神さまがノアのうしろの戸を閉じられた。雨が降り出し、大洪水になり、水かさがしだいに増して、地上が海のようになります。その上にぷかぷか浮いている箱舟のお話しは、子どもには目を瞠るような刺激的なメルヘンです。

 けれども、もともとの「ノアの箱舟」の話はメルヘンではありません。これはとてもシリアスな物語です。
 神さまが増え広がった人間だけでなく、地上のあらゆる生き物を滅ぼすのです。肉なるものと言われていますから、植物は滅ばされる対象ではなかったのです。また、もともと水の中に暮らす魚も除外されたようです。
 とはいえ、滅びの対象になったものは滅びます。神さまが決心されたら、どんなことでもお出来になるのです。

 
 こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った。それらは、地から消し去られた。ただ、ノアと、彼といっしょに箱舟にいた者たちだけが残った。(創世記7章23章)
 水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。(7章24節)

 
 箱舟がどんなに大きかったとしても、閉ざされた箱の中でした。ガラス窓などはありませんでした。酸素がどうなっていたのかなどという問題は、神さまが解決してくださったのでしょう。けれども、まったく外が見えない空間、揺れる箱舟の中、閉じ込められたノアとノアの妻と子どもたちは、どのような気持ちだったでしょう。夜はちゃんと眠れたのでしょうか。神様のご命令どおり積み込んだ、たくさんの食料は喉を通ったでしょうか。 


 昔、宇宙開発が始まったばかりの頃、地球最後の日に、選ばれた人たちがスペースシャトルに乗って宇宙へ出発すると言う話が、まことしやかに書かれていたことがあります。
 宇宙開発が将来の箱舟として考えられていたかどうか、真相はわかりませんが、宇宙船に乗る宇宙飛行士の資質として、「ただの人」は先ず無理だと、いまでも言われています。宇宙に行くまでいろんな訓練をするのです。長期間宇宙空間で仕事をする飛行士は、肉体が壮健なのはもちろんですが、何より、精神的に強いことが求められていると聞きます。狭い空間で、孤独に耐えて、自分をコントロールしてさまざまな仕事をするのです。彼らは、もちろん、宇宙船を支えて地上で働く人たちを信頼しているのです。しかし、究極の不安を克服させるものはなんでしょう。

 

 ノアの一家は、閉じられた箱舟の中で何をしていたでしょう。たぶん、一日中、神に祈っていたのです。
 神を信頼し、神のご命令なら、必ず、いつか洪水は収まり、箱舟から出られる日か来ると信頼して、その時を待っていたのでしょう。


 ふえ続けたアダムの子孫の中で、ノアとその妻と息子たちだけが滅びを免れた理由は、
「正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。(6章9節)」からでした。




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2010年09月16日

Coffee Break24 さいわい(創世記6章)




 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。(創世記6章11節)
 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でそれを乱していたからである。(6章12節)

 創世記6章には、神さまがご覧になって、地上の人の悪がどれほど目に余るものであったか、繰り返し語られています。その中で、ノアは、正しい人であって、その時代にあっても全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。と、強調されているのです。

 大洪水を起こして、地上のすべての人間を滅ぼそうと決心された神が、ノアを助けられたのは理由のあることだったのです。

 わたしたちは、このような状況、大部分の人たちが滅ぼされるときでも、自分と自分の家族だけは助かりたいと思います。99.99999%の人が滅びても、0.00001%でありたいのです。
 
 しかし、よくよく読むと、ノアの基準で助かるのは自分には不可能だと、わたしには思えます。正しく、神とともに生きるだけでも大変ですが、人とまったく違う道を行くのは並みの意志ではできません。すべての人が悪に傾き、暴虐を行なうときに、自分だけを聖く、正しく保てるのか、確信がもてません。
 
 誰かが苛められているときに、「君たちは間違っているよ」と弱い一人ぼっちのクラスメートをかばってやるのが、どんなに大変かわかるでしょう。
 みんなで噂話をしているときには、つい、その話題の中に引きずり込まれるのは、だれもが経験しているでしょう。自分が噂話の対象になっていたとわかると、自分も言い返したりします。
 クリスチャンのなかには、仏式の葬式には出ない人もいると聞きます。けれども、これも、信仰を守ると言う意味があっても、それで、遺族との間に誤解が生じたら、「良いこと」だとばかり言えるでしょうか。神さまはわたしたちに「隣人を愛しなさい」と命じておられるのです。

 現代の複雑な社会では、慈善的活動でさえ、「正しいことをした」と言い切れないことがあります。街頭募金の箱にお金を入れたら、それが、反社会的な活動をしている団体の資金になったと言うこともありえます。
 開発途上国に支援物資や支援金を送るのは良いことですが、その途上国から、強い円で、資源や生産物を買い叩き、結果的に搾取になっているのです。買い叩いた食べ物や衣類のお陰で飽食ぜいたくをしながら、少しばかり支援している事実は変わりません。

 いったい、「正しい」とはどういうことなのでしょう。
 わたしたちもノアのように、「神とともに歩む」ことなど、できるのでしょうか。

 聖書の神さまは、聖であると同時に、愛の方だと書きました。
 聖くないものを忌み嫌われるのです。同時に、間違いを犯したものを赦して下さろうとする方です。
 アダムとエバ、カイン。そして、ここでは、全人類を滅ぼしたいと思われたにもかかわらず、ノア一家に目を留めて救い出されたのです。

 さて、

 さいわいなことに、わたしたちは全員、そのノアの末裔なのですが・・・。


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2010年09月17日

Coffee Break25 ノアの末裔(創世記6章7章8章)


 水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。(創世記7章24節)
 神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。(8章1節)


 大分前のことです。ある雑誌が、結婚生活についての問題点の特集をしていました。その中で、お名前は忘れたのですが、ある評論家の方が、「もつれてどうにもならなくなった夫婦関係を、もう一度リセットしてやり直すことはできないものだろうか」と、書いていました。そのことばが出てきた状況がどのようなものかはわかりません。「どこの夫婦も」と一般化した書き方でした。長く結婚生活をしている人には、ははあと思い当たるこの「結婚生活のもつれ」を、「リセット」という言葉と結びつけているのが、印象に残りました。

 長い結婚生活では、お互いの重荷や欲求を担い合うなかで、いろんなきしみが生まれてきます。「こんなやつだと思わなかった」「こんなヘンなところがあったんだ」
 貸し借りが積み重なってもつれにもつれた夫婦関係をリセットできないだろうか。
 この評論家は、リセットを結婚の初期状態に戻す意味で使っているのであって、離婚を意味しているのではなさそうです。
 なるほど、ですが、パソコンをクリアするみたいにリセットできるかしらと、その時、思ったものでした。お互いに悪い思い出を水に流し、許しあって、一からやり直すのは、ある意味、人間関係の理想だけれど、それがなかなか出来ないのが人間でしょうと。
 それよりは、裁ちばさみでばっさりと切り分けて、右と左に分けてしまうほうがずっと手っ取り早い?
  

 神さまが、地上の人間の悪をご覧になって、「人間を造ったことを悔やむ、これらを滅ぼす」と言われたとき、神さまは、人間の絶滅を考えておられたのでしょうか。でも、そのなかで、ノアとその家族を選び出し、もう一度人間との関係をやり直そうとされたのです。

 洪水で徹底的に洗い直された地上を思い浮かべるとき、私は、先の評論家の「リセット」という言葉を思い出しました。神さまは、人間との関係をばっさり切ることもできたのですが、悪いものを消し去って、やり直そうとしてくださったわけです。0.00001パーセントの「正しい人」に目を止めて、洪水の後ノアとその家族が暮らしていけるように、あらゆる動物をペアで、また食料やささげ物になる動物は7つがいずつ、箱舟に避難させるよう細かい指示もされて、ともかく、もう一度、ご自分が造った人間と語り合いたいと思ってくださったのです。



 また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。(8章2節)
 そして、水は、しだいに地から引いていった。水は150日の終わりに減り始め、(3節)
 箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。(4節)
 水は第十の月まで、ますます減り続け、第十の月の一日に、山々の頂が現れた。(5節)
 四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、(6節)
 カラスを放った。すると、それは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。(7節)
 また、彼は水が地の面から引いたかどうか見るために、鳩を彼のもとから放った。(8節)
 鳩は、その足を休める場所が見当たらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入れた。(9節)
 それから、なお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。(10節)
 鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると、見よ。むしりとったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知ったのである。(11節)
 

 創世記8章のこの場面は、たくさんの絵にも描かれています。とても、迫力のある場面で、ビジュアルであるだけではなくて、感動的です。
 鳩がオリーブのもぎ取ったばかりの若葉を口に戻ってくるところでは、誰しも、深い安堵感を覚えるのではないでしょうか。
 新しい大地と新しい世界。神が、地上をリセットしてくださったことが、はっきりした最初のシーンです。
 
 もちろん、地上のリセットは、神ご自身のためではなく、わたしたち人間のためでした。なぜなら、神は、万物の創造主、神さまにとって、もう一度、宇宙や地球、人間を初めから造りなおすなんてことは、簡単なことだからです。

 神さまは、わたしたちを愛しく思われ、憐れんで下さったのです。


 それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもうかれのところに戻って来なかった。(8章12節)

 わたしたちは、このノアの末裔なのだと、改めて思うのです。




☆☆☆ 佐々木正明先生のブログをリンクしました。☆☆☆
     文化のはざまで (エッセイ集/文化論)
     聖書を読むぞー (聖書通読のための手引きです。分厚い聖書をどのように読むか、
                  やさしく解説してくださっています。)
     クリスチャンとして日本で生きる
     ペンテコステ宣教学
                    


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2010年09月18日

Coffee Break26 洪水のあと(創世記8章)


    
      雨きれて プールの水に 秋の空


 今年はとりわけ猛暑でした。東京でも日中34度を超える日が続くと、もう秋はこないのかしらと、自然の法則を疑いそうになりました。ところが、ここ数日、夜半に雨が降り、あっという間に秋の気配です。
 冒頭の句は、三年ほど前の今ごろのものです。自慢できるような出来栄えではありませんが、三年前のある日、朝のうち激しく雨が降り、午後から雲が切れて晴れ渡った空が広がったときの、すがすがしさを思い出すのです。
 当時、ある小学校の施設で働いていたのですが、ふと、窓から外を見ると、眼下のプールに青空が映っていたのです。

 梅雨の晴れ間。
 台風一過の後の青空。
 まだ、遠くには少し残っている入道雲の中から、空を横切ってかかる虹。

 
 気持ちのいい情景ばかりです。
 雨上がりに、「虹が出てるよ」と言われて外に飛び出すのは、子どもだけでしょうか。


 ノアの物語のクライマックスは、です。

 天の水門が開かれ、大雨が四十日四十夜降り続き、水はその後も百五十日間地上にふえ続けたというのです。第二の月の十七日に降り始めた雨がやみ、それから洪水の水が引き始め、やっと山々の頂が現れたのは、第十の月の一日だったというのですから、想像を絶する大雨です。翌年の
第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた(8章13節)のです。翌月の第二の月の二十七日、地はかわききった。(8章14節)
 そこで、神はノアに告げて仰せられた。(15節)
「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい」(16節)



 なんと、ノアたちは、一年と十日のあいだ箱舟に入っていたのです。


 ノアは箱舟から出て最初に、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちからいくつかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。(20章)のです。


 箱舟から解放され、晴れた空とかわいた土の世界に出てきた喜びは、どれほどのものだったでしょう。


 主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、はじめから悪であるからだ。わたしは決して、再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。(21章)
   地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、
   寒さと暑さ、夏と冬、
   昼と夜とは、やむことはない。」(22章)


 それから、神はノアたち人間に対して、さらにたくさんの約束をしてくださるのです。
 
 その約束のしるしとして、を立てられたのです。

 そのクライマックスの美しい光景については・・・明日。



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2010年09月19日

Coffee Break27 虹・ノア契約(創世記9章)



 それで、神はノアとその息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。
「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。(創世記9章1節)
 野の獣、空の鳥、──地の上を動くすべてのもの──それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。(2節)
 生きて動いているものはみな、あなた方の食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。(3節)


 箱舟から出てくることができたノアは、神に、祭壇の上で全焼のいけにえをささげました。
 神はそのなだめのかおりを喜ばれ、心の中で、わたしは、決して再び人のゆえにこの地をのろうことはすまい。決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。と思われ、冒頭の言葉を仰せになったのです。


「あなたには希望がありますか」と訊ねられたら、私はもちろん「あります」と答えます。自慢でもなんでもありません。このブログを読んでくださっているあなたも、「あります」とお答えになるでしょう。
 将来の希望、良い仕事を持つ希望、好きな人との結婚の希望、子どもへの期待、車がほしいとかコンサートに行くとか、海外旅行とか留学とか、誰かと食事に行く、大小さまざまな希望があるでしょう。

 人間の歴史を見ると、けっこう悲惨に見えます。戦争、災害、飢餓、伝染病、国々の盛衰、抑圧。
 今この日本では、人々は平等で当たり前、人格を尊重されて当たり前、子どもが大切にされて当たり前、男女は平等で当たり前、貧富の差は埋められて当たり前。お腹いっぱい食べて当たり前。でも、このような当たり前は、わずか50年前までは、日本でも存在しなかったものです。

 このように泰平繁栄の世の中に生きて、最高の医術と最高の栄養と良好な生活環境で生き延びているように見えるわたしたちも、個人的にはきつい坂道を上るときもあるのです。頑張って、這いつくばって、耐え忍んで生きて、いつかは死ぬのです。それを、直視しないまでも、「知らない」人はいないのです。


 ひょっとして、わたしたちの心には、希望を持つ、楽観的になるDNAがあるのではないでしょうか。
 
 ノアの話は、神が一度、地上を滅ぼされたことをわたしたちに教えてくれます。
 
 ところが、選ばれて箱舟に避難させてもらったノアは、新しい地上に出てきたとき、神さまに祝福していただいています。
 神は、最初の人間アダムをお造りになったときと同様に、ノアとその家族、選ばれて生き残った動物たちに、おっしゃったのです。

「生めよ。ふえよ。地に満ちよ──」

 そして──。

「さあ、わたしはわたしの契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや、大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」(11節)
 さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなた方といっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。(12節)
 わたしは雲の中に、わたしのを立てる。それは、わたしと地との間の契約のしるしとなる。(13節)


 が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべての肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」(16節)

 わたしたちがを見たときに感じるなんともいえない喜び、明るい気持ちは、このとき、私たち人類を再生してくださった神さまの、この約束のことばが、わたしたちの魂に刷り込まれているからではないでしょうか。

 ノアの子孫であるわたしたち全員の心に、あの時、神さまはを刻印してくださったのではないでしょうか。
 わたしたちは、神様に愛されているという記憶を!




ここでは、新改訳聖書を使っています。
聖書については、このブログのリンク「佐々木先生のサイト」→「聖書を読むぞー19」→「聖書の読み方」→「Bどの聖書が良いか」をご覧下さい。さまざまな翻訳の聖書が紹介されています。




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2010年09月20日

Coffee Break28 救い(創世記8章21節詩篇23章)



 ノアの物語は、わたしの心に、二つの相反する感情を呼び起こします。
 神さまは、悪に満ちた地上をリセットしてくださって、人を滅ぼしつくさず、わたしたちを、初めての人アダムを作ったときのように祝福してくださったのです。
 その子孫であるわたしたちは、そのとき神さまが、「二度と滅ぼすまい」と、約束してくださった人間だから、神さまは、愛をもって私たちを再生してくださったのだから、わたしたちは、それを喜び、感謝し、大いに楽天的になって、明るい希望をもって生きていける・・・。

 同時に、釈然としない思いが残るのです。



 わたしは決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることははじめから悪であるからだ。わたしは決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすようなことはすまい。(創世記8章21節)


 神さまはわたしたちを「完全だ」「もう大丈夫」と思って、二度と滅ぼさないと憐れみをかけてくださったのではありません。「人の心の思い計ることははじめから悪である」と知りながら、約束してくださったのです。
 事実、ノアの息子もたちまち、罪を犯してしまうのです。
 ノアの話の次には、有名なバベルの塔建設の話が出てきます。
 天にも届く塔を立てて、自分たちの名を残そうと言い始める人間。
 そのため、主は人間の言葉を混乱させるという非常手段を取って、塔の建設を断念させられました。
 
 それから、どれくらいの歳月が経ったのか・・・。
 人は、あまりの地上の混乱と苦しみに、自家中毒を起こしたような状態に陥りました。悪に満ちた人間世界で、人自身が、「神さま、何とかしてください」と、祈らないではおれない状態になりました。




    主はわたしの羊飼い。
    わたしは、乏しいことがありません。
 
    主は私を緑の牧場に伏させ、
    いこいの水のほとりに伴われます。
 
    主は私のたましいを生き返らせ、
    御名のために、私を義の道に導かれます。
 
    たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
    私はわざわいを恐れません。
    あなたが私とともにおられますから。
    あなたのむちとあなたの杖、
    それが私の慰めです。

    私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
    私の頭に油を注いでくださいます。
    私の杯は、あふれています。

    まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
    恵みとが、私を追ってくるでしょう。
    私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
                  (旧約聖書・詩篇23章1〜6節)
 




 ほとんど、伝承の雲にさえぎられているようなノアの時代。そこからはるか下った紀元前1千年頃、出来上がったばかりのイスラエル王国の二代目の王ダビデは、このような祈りと賛美の詩を書いています。

 人間の世界は、神が知っておられるとおり悪と苦しみに満ちていました。
 そして、神ご自身がお選びになった王でさえ、苦難の中にいたのです。
 この詩は、以後、いまも、たくさんの人の祈りの言葉となり、たくさんの人の心の叫びとなっています。

 このような、人の真摯で切実な祈りを聞かれるとき、愛の神さまは思ってくださるのではないでしょうか。
 もう、「箱舟方式」では、人は救えない。つぎの「救いの時」には、すべての人を救いに入れよう。
 

 いま、現在、私たちに、ほんとうの希望があるとするなら、その「新しい救い」が訪れているからなのですが。



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