2010年09月21日

Coffee Break29 ぶどう



 箱舟から出てきたノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。(創世記9章18節)
 この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。(19節)

 

 箱舟から出たノアに与えられた契約はすばらしいものでした。
 この時点で、神さまはエデンの園の門を開けて、もう一度人間を園に戻してくださるようなことはありませんでした。しかし、毛ごろもを着せられただけのすがたで荒地に出てきたアダムと、箱舟から出てきたノアの状況は違っていました。
  
 神さまに造られた最初の人間アダムが、ある意味ナイーブな子どもの心をもったままであったのに比べ、ノアは、たしかに救っていただいたと言う自覚があったのでしょう。ノアは、すでに神を畏れ敬うことを知っていました。祭壇を築いていけにえの動物をささげたのです。
 そのようなノアを、神さまは祝福されました。

 
 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。
「生めよふえよ。地に満ちよ。」(9章1節)

 生きて動いているものはみな、あなた方の食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。(3節)



 これはなんというお恵みでしょう。神はアダムにも、「園のどの木から取って食べても良い」(創世記2章16節)と言われましたが、ここで、肉食が許可されたのです。
 もちろん、「肉は、そのいのちである血のままで食べてはならない」(4節)という戒めがついていましたが。

 さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。(9章20節)


 ノアには、すでに、農業の経験もあったのでしょう。その経験とぶどうの栽培が結びついたのです。

 ぶどうは祝福された農産物です。聖書の中には、「ぶどう」が何度出てくるか数え切れないほどですが、ぶどう、ぶどう酒、ぶどうの木、ぶどう園、干しぶどうなどの言葉をひっくるめて、ぶどうが聖書に出てくる植物のトップです。


 このサイトに発表している私の小説、「聖書物語・つむじ風の谷」でも、ダビデに贈り物を届けるナバルの妻アビガイルが選んだ食料の中に、干しぶどう百ふさ、ぶどう酒を入れた皮袋2袋が出てきます。(Tサムエル記・25章18節より取材)

 イエスさまがカナの婚礼で、水をぶどう酒に変えられた奇蹟。(ヨハネ2章1〜12節)
 また、ぶどう園に雇われる労働者のたとえ話。(マタイ20章13〜16節)
 ぶどう酒と皮袋の関係。(マルコ2章22節)(ルカ5章37〜39節)
 神さまがぶどうの木で、人はぶどうの枝だと言うたとえ。(ヨハネ15章1〜27節)

 まだまだありますが、

 なにより、大切なのは、「最後の晩餐」で、イエスご自身がパンをそのお体。ぶどう酒をイエスの血と宣言なさって、弟子たちに分け与えたことです。(マタイ26章26〜29節、ルカ22章31〜34節、54〜62節)


 この晩餐が、今日も教会で、聖餐式としてパンとぶどう液をいただく理由です。もちろん、ほとんどの教会はぶどう酒ではなく、ぶどう液です。
 

 ぶどうの栽培を始めたノアは、ぶどう酒も作り始めました。この箇所には書かれていませんが、たぶん、干しぶどうも、ぶどう菓子も作ったことでしょう。

 肉とぶどう酒、この現代の、レストランでも最高とされている組み合わせが生まれたのです。

 なんというぜいたく、なんという悦びの晩餐だったでしょう。それがほとんど、人間の歴史とともに始まっていたのです。

 けれども、ぜいたくや悦びに、すぐ気が緩むのが人間です。ノアほどの正しい人でもぶどう酒で失敗をするのです。




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2010年09月22日

Coffee Break30 ゴシップ好き



 ノアがぶどうの栽培を始めて以来、何千年が経ったのでしょう。

 ちなみに、ノアが箱舟に入った年は、「ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日」となっています。
 
 いずれにしても、昨日ご紹介したように、聖書とぶどうはとても関係が深いのです。


 ある日、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。(21節)
 カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいる二人の兄弟に告げた。(22節)
 それでセムとヤペテは着物を取って、自分たち二人の肩に掛け、うしろ向きに歩いていって、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。(23節)
 ノアが酔いから醒め、末の息子が自分にしたことを知って、(24節)
 言った。
「のろわれよ。カナン。
 兄弟たちのしもべとなれ。」(25節)

 
 外では、役職や地位があるりっぱなお父さんでも、家ではくつろいでソファでうたた寝したり、テレビを見ながらこっくりこっくり居眠りを始めることもあるでしょう。髪が乱れ、眼鏡がずれ、衣服は乱れて、外では見せない姿を見せてしまう。つい飲みすぎて帰宅して、玄関を上がるなり倒れて、奥さんの手に合わないので、ネクタイだけ外してあげて毛布を掛けてあげたなんて話も、ときどき聞きます。
 どんなりっぱな人でも、いつもいつも自分を繕っていることなど、たしかに不可能です。

 この時、ノアはわざわざ「裸になっていた」と聖書に記されるくらいですから、見苦しい格好だった? 全裸だったのかもしれません。
 たまたま父親の天幕に入っていったハムは、酔って裸で寝ている父の姿を見てしまいました。
 

 父親としてあまりにだらしのない格好なので、つい、ハムはそれをほかの兄弟に知らせに行ったのです。それが、父親を怒らせたばかりでなく、息子をのろうほど怒らせたのです。神さまもノアの怒りをお認めになったのでしょう。ですから、ハムの子どもカナンは「兄弟のしもべとなれ」と言われ、そうなったのです。


 聖書を最初の一行から、ここまで読んできた私たちは、人間が、その創造の最初から、ほんとうに「どうしようもない」性質をもっていたのだと気づかされます。


 まず、神さまの命令に背きました。
 悪魔の誘惑に負けました。
 神さまと対等になろうとしました。
 咎められると、ほかのもののせいにして謝りませんでした。(アダムとエバ)

 神さまに対して膨れ面をしました。
 罪のない弟に嫉妬して殺しました。
 ここでも、すぐに罪を認めないで、しらばっくれました。(カイン)



 ノアの息子ハムは父親のはだかを見て、兄弟たちに告げ口しました。
 これは、「親を敬いなさい」という律法(当時は、まだ、十戒や律法は与えられていませんでしたが)に反することです。その上、人の醜態をほかのものに告げ口して笑いものにしたのです。

 ノアの着物を、自分たちの背中に掛けて後ろ向きに近づいて、父親の裸を覆ったセムとヤペテに、私たちは教えられます。人のミスや罪を知ったら、覆ってあげなければいけない・・・。

 自分はそのようにできているだろうかと思うとき、私も、うなだれてしまいますが。




 
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2010年09月23日

Coffee Break31 希望



      草原(くさはら)に そこだけ炎える 彼岸花


 早いもので、もう秋分の日です。日本の暦では彼岸の中日です。
 たしかに、日が落ちるのが急に早くなりました。蝉の声が途絶えがちになり、夜は、虫がにぎやかにすだいています。

 道を歩いていて、ふと振り返ると、まだ青々と残る草の中に、両手で包めるほどの真っ赤な彼岸花が見えました。この句も三年前のものですが、夏から秋の区切りに、この花を見ると、暑さになかば熔けていた心がハッと引き締まり、訪れる秋の気配に胸が騒ぎます。


 
 なぜ着物のことで心配するのですか。野の百合がどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。(新約聖書・マタイ6章28節)

 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾っていませんでした。(29節)

 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、まして、あなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。(30節)



 イエス様が有名な山上の説教で語られた言葉(みことば)です。

 ソロモンはダビデ王のあとを継いだイスラエル全盛時代の王で、その富と栄華は今に至るまで、世界中に伝説を残しています。遠く離れた日本でも、四国のどこかにソロモンの財宝が隠されていると、言い伝えられているほどです。


 野の百合の美しさが、栄華のかぎりを尽くした王の華麗な装いをはるかにしのいでいると言うのです。
 地上の富や栄華をもってしても、神さまのワザには遠く及ばないとイエス様はおっしゃるのです。

 彼岸花は、なぜか縁起の悪い花だとされています。でも、見れば見るほど、不思議な美しさです。人には思いもつかない造形です。しかも、大切に扱われてもいないのに、毎年同じ時期に伸びてきて、花を咲かせます。


 この言葉(みことば)は、初めて聖書に接した頃、そして、いまも、私の希望です。


 
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2010年09月24日

Coffee Break32 バベルの塔



 バベルの塔の話は、ノアの洪水の話と同様、とてもよく知られています。
 一度も聖書を読んだことがなくても、一度はこの話を聞いた人は多いのではないでしょうか。子どもの絵本などにも描かれ、もとより、ヨーロッパでは絵画にもたくさん描かれています。宗教画のモチーフのひとつだったのでしょう。

 バベルの塔の話は、膨大な聖書の中でも、以下の部分だけです。



 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。(創世記11章1節)
 その頃、人々は東の方から移動してきて、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。(2節)
 彼らは互いに言った。「さあ、レンガを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにレンガを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。(3節)
 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」(4節)
 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りてこられた。(5節)
 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。(6節)
 さあ、降りていって、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」(7節)
 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。(8節)
 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。(9節)
 

 (注)、瀝青はアスファルトのことです。中東ですから、昔からアスファルトがふんだんにあったのでしょう。バベルはもともとはバビロン語で「神の門」の意味でしたが、バベルの塔のときの混乱のあと、「混乱」という意味にもとられています。 
 

 聖書を読んでいくと、しばしば、人間の常識と反対のことが語られているのに出会います。
 一致団結して、天まで届く高い塔を作るのがなぜ悪いのか、すぐにはわかりません。人が一致団結して大きな仕事を成し遂げるのは、人間の常識では良いことです。というより、大きな仕事はひとりでは出来ません。一人で出来ない仕事は一致団結が大切です。天まで届く・・・、そんなことはもちろん不可能だと、わかっていますが、しかし、自分たちの限界に挑戦することも、一般には良いことだと見なされています。

 だから、こんなに文明が発達したのではないか。
 こんなに便利なのではないか。
 こんなに豊かに暮らせるのではないか。
 寿命が延びたのではないか。


 そのとおりです。でも、ふと、思うのです。この時、神さまは、人のことばを混乱させたり、全地に人を散らしたりする代わりに、もう一度、洪水を起こすこともおできになった。もちろん、その場合は、もう、ノアのような人を選び出さず、だれもお救いにならずに、そうされるのです。つまり、人類をはやばや滅亡させることもおできになった! 
もちろん、神さまは、「二度と肉なるものは、大洪水で断ち切られることはない。もはや大洪水が地を滅ぼすことはない(9章11節)」と言明されたかぎり、ご自分のことばを翻すような方ではないのを、承知で考えてみたのです。


 私たちが忘れてならないことは、人間に対し、今でも、キャスティングボートは、神さまが握っておられる!と、言うことではないでしょうか。


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2010年09月25日

Coffee Break33 神への挑戦(創世記11章)




 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」(創世記11章4節)

 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りてこられた。(5節)

 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。(6節)

 さあ、降りていって、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」(7節)

 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。(8節)



 人は一人では生きていけません。人間は社会的存在です。集まって社会を作って生きるような性質が与えられているのです。ところが、その社会性にも、サタンは抜け目なく入り込んでくるのです。

 シヌアルの地に集まった人々は、町を作りました。せっかく大きな町が出来たのだから、世界のシンボルとなるような、もっとすごいものを作ろう。団結して天まで届くような塔を作って「名を上げよう」というのです。

 神さまが聞き捨てならないとお思いになったのは、人間の「名を上げたい」という高慢な心です。その動機です。
 一見もっともらしい動機があるのです。
「われわれが全地に散らされるといけないから」
 散らすのは、神しかいません。しかし、じっさいに散らされると決まっているのでも、わかっているのでもないのです。神が何かをされるとき、自分より強い神には敵わないから、その前に、先手を打って阻もうというのです。

 だれでも、ひと個人は弱く、その力も小さいとわかっています。ですから、人間は、集団で、大きなスローガンを掲げて、大きなことをしようとします。このとき、このような高慢、間違った動機が、忍び込んできます。
 
 でも、これは、聖書の中の「お話」でしょうか。
 今も、私たちはこのようなスローガンと、計画を目にしませんか。
「天にも届く塔を建てて名を上げよう。」
「われわれが散らされるといけないから」

 この二つの言葉は、時代に合わせて、いろいろの言葉に言い換えることができます.
危機感をあおって、「神に挑戦せよ」とささやくものの声には、いまも、警戒しなければならないのです。



   主(神)を恐れることは知識の始めである。(箴言1章7節)






 聖書の通読をしてみようと思われる方は、このブログのリンク
「佐々 木先生のサイト」、「聖書を読むぞー」をご覧下さい。
 分厚く難解な聖書をどう読むか、わかりやすく解説されています。
 また、キリスト教の学びに興味のある方は、「ペンテコステ宣教学」→
「やさしい神の国講座」をご覧下さい。




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2010年09月26日

Coffee Break34 アブラハム



 主はアブラムに仰せられた。
「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、私が示す地へ行きなさい。(創世記12章1節)
 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、
 あなたの名を大いなるものとしよう。
 あなたの名は祝福となる。(2節)
 あなたを祝福するものをわたしは祝福し、
 あなたをのろう者をわたしはのろう。
 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。(3節)」
 
 アブラムは主がお告げになったとおり出かけた。(4節)


 
 アブラムは、のちに、神さまに名を変えていただいて、アブラハムとなる人物です。
 ノアの息子セムから数えて、十代目の子孫がアブラムでした。アブラムは父親のテラと妻サライ、甥のロト、それからたくさんの親族や使用人とハランという地に住んでいました。
 住み慣れた場所で暮らしているアブラムに、ある日、神さまは声を掛けて、神さまがお示しになる土地に行くよう命じられたのです。

 バベルの塔の建設を、中止させた神さまが、久しく沈黙を破って、人に声を掛けてくださったのです。長らく、沈黙しておられた神さまが、突然、アブラムに声をお掛けになったのは、なぜでしょう。

 バベルの塔建設を断念させられて、散り散りにされた人間は、各地で増え広がり、たぶん、塔建設当時よりさらに悪事を重ねていたでしょう。
 神様の目からご覧になると、とうてい許しがたいことがたくさん行なわれていたに違いありません。それどころか、天地万物を創造され、土のちりから人間を造り、その人間に息を吹き込んでくださった神さまを覚えている人、神さまの声を聞ける人さえいなくなってしまいそうなありさまでした。

 とうとう神さまは、人類を救う遠大な計画を実行に移されたのです。
 その計画に、選ばれたのがアブラムでした。



 アブラムは主がお告げになったとおり出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは七十五歳だった。(12章4節)
 アブラムは妻のサライと、甥のロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして、彼らはカナンの地に入った。(5節)



 アブラムは行き先もわからず、神さまの示される方向に出かけたました。住み慣れた場所を、ただ、神の声にしたがって離れたのです。自分の計画、自分の考えできちんと先を見通して動くのが、「正しいやり方」という人間的な思いを振り切ったのです。

 じっさい、神さまがお示しになった土地には、困難な兆候がありました。


 アブラムはその地を通っていき、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。(6節)


 アブラムがたどり着いた場所、モレの樫の木のところには、先住民がいたのです。



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2010年09月27日

Coffee Break35 召命のとき(創世記12章1節〜8節)



 主はアブラムに仰せられた。
「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、私が示す地へ行きなさい。(創世記12章1節)



 壮大な天地創造の物語から、人間が増え広がって地を満たすまで、どれくらいの歳月が流れていたのか定かではありませんが、ここまで、神が直接声をお掛けになった人間はそれほど多くありません。
 アダムとエバ、カイン、それとノアだけです。神と彼らの関係は、はっきりと神が創造者で主役、人間が被造物で神の創造の対象だとわかる書き方です。

 個人の名前は出てきませんが、バベルの塔も、神が人間の作る塔をご覧になって、それを見咎め、人の言葉を混乱させ、人を散り散りに散らして、人間の思い上がった建設工事を中止させられたものです。

 しかし、12章で、神はこれまでと違ったアプローチで人に接して来られました。一人の人に声をお掛けになりましたが、これが、何故なのかわからないのです。読者もわからないのですが、アブラムにはわかったでしょうか。

 アブラムが生活に行き詰まっていたから、他の場所に移してくださるというのではありません。行き先もカナンの方面であって、カナンかどうかわかりません。
 この場面は、アブラハムの神さまからの「召命」と呼ばれていますが、それは、後代の読者である私たちが言うのであって、アブラムはどう思っていたでしょう。ノアが箱舟に入るときのような、はっきりした救いのための避難命令でもなかったのです。

 
 こうして、12章からは、アブラハム(アブラム)の話が展開していくのです。聖書記者の視点が、個人の歴史に移っていくのです。ただ、歴史人物伝ではないのです。
 

 カナンにやってきたアブラムの前には、すでに、先住者カナン人が立ちはだかっていました。
 アブラムはきっと当惑したに違いありません。すでに、水や草、放牧の羊たち、天幕を張る場所について、先住民との間に争いがあったかもしれません。しかし、聖書はどのような問題があったのか、また、アブラムが問題をどう解決したかに、触れていません。

 どんな問題があったにせよ、解決したのです。それは、神が現れてくださったからです。



 アブラムはその地を通っていき、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。(12章6節)
 その頃、主がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。(7節)



 神はすでに先住者がいる地を見ているアブラムに「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられたのです。
 アブラムには、それで、充分だったのです。「あなたの子孫に」というのですから、アブラムに与えられたのではありません。でも、神さまが現れてくださった、それが、アブラムにとっては何より大きなことでした。だから、彼は、その場所に、祭壇を築いたのです。

 そして、そこから、ペテルの東にある山の方に移動して、とりあえず、天幕を張りました。そこでまた、彼は、祭壇を築いて、主(神)のお名前によって祈ったのです。

 神さまに祈る、神さまとの語り合い、お交わり、それが、アブラムにとっては何よりの確証だったのです。

 祭壇を築けば、すぐに、問題が解決したという話ではありません。
 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。(9節)のですから。
 
 天地創造の神を崇める対価に、目に見えるご利益を当てにする、そのような思い込みがあると、この話はなかなか飲み込めません。

 キリスト教は最高のご利益宗教です。でも、そのご利益はこの世の報酬に限定されない、永遠のいのちに関わる報酬なのですから。



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2010年09月28日

Coffee Break36 なぜ?(創世記12章)



 アブラム(アブラハム)は遊牧民でした。アブラムと妻サライ、甥のロトは、着の身着のままの乞食のような旅ではなくて、羊を飼いながらの移動でした。
 アブラムが最初祭壇を築いたシェケムの場、モレの樫の木のところまできたとき、当時、その地にカナン人がいた。と聖書は記しています。
 遊牧民は農耕者と違って同じ土地への定着性は薄いかもしれませんが、テリトリーはありますから、アブラムはそこに長居するわけにはいかなかったでしょう。そこから、ベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。のですが、また、すぐ、ネゲブの方へと旅を続けなければならなかったのです。
 
 ただ、アブラムには確信があったはずです。もともと、神に召し出されて、そのご命令に従って、故郷を出てきたのです。その上、主は二度も彼の前に現れてくださったのです。


 じっさい、アブラムは祝福されていました。

 ネゲブのほうへ旅を続けているとき、飢饉があったので彼は、飢饉を避けてエジプトに行って、滞在することに決めました。
 その時、
彼は妻のサライに言いました。
「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということをわたしは知っている。(創世記12章11節)
 エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。(12節)
 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生延びるだろう。」(13節)



 アブラムの危惧したとおり、エジプト人はサライがとても美しいのに目を止めて、パロ(エジプトの王)に推奨し、パロはサライを宮廷に召し入れたのです。
 パロは喜び、アブラムに羊の群れ、牛の群れ、ロバ、男女の奴隷、雌ロバ、らくだなどを与えました。
 アブラムは、いっぺんに豊かになったのですが、神さまが、サライが人の妻だということでパロとエジプトを、災害でひどい目に合わせたのです。
 パロはアブラムを呼びつけて、言いました。

「あなたはいったい何ということをしたのか。なぜ、彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。(18節)
 なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ、今、あなたの妻を連れて行きなさい。(19節)」

 
 こうして、アブラムはエジプトから追放されるのですが、サライを返してもらった上、増えた所有物はそのまま持って出ることが出来ました。

 嘘をついて、妻がパロの宮廷に召し入れられるようなことをしたアブラムの行為は、けっして褒められるものではありません。私など、ひどい目に合わされるのは、パロではなくアブラムの方だと思うのですが、しかし、神はこのアブラムの過ちをも覆ってくださったのです。
 そのため、彼は豊かな遊牧民になってエジプトから出たのです。
 
 アブラムは「信仰の父」といわれていますが、彼の信仰に神さまもまた、答えてくださったのです。
 もっとも、この話は、一寸先が見えない道でも、神への信仰で歩み出すという従順が先にあって、その後、神さまの祝福があったという出来事です。とくに、アブラムは神さまの遠大な「救いの計画」に選ばれた人でしたから、こうした過ちに対しても、神さまはそれを益に変えてくださったのでしょう。
 信仰すれば、ご褒美に祝福があるという因果の物語ではないのです。



 祈りながらも、しばしば、信仰の確信が揺らぎ、とてもアブラムにはなれないと、心底、思う者として自戒をこめて、思うところです。




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2010年09月29日

Coffee Break37 アブラハムの心



 エジプトを出たアブラム一行は、はじめの目的地ネゲブに向かいました。アブラムと妻のサライ(サラ)、甥のロト、それにしもべたち、エジプトで加えられた男女の奴隷、羊やロバや牛やらくだ。その上、たくさんの銀や金もありました。
 豊かな遊牧民の大所帯の移動は、道中の村や道行く人の目を引いたに違いありません。
 銀や金が充分にあれば、ほかの民のテリトリーを通るのもスムーズに行くことが多かったでしょう。必要に応じて、青草と水の代金を払うことが出来ます。自分たちが持っていない食料を買うこともできます。
 
 彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、はじめに天幕を張ったところまで来た。(13章3節)
 そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。(4節)


 行き先もわからない放浪の旅に召し出されて、エジプトまで流れていったアブラムにとって、自分の過ちをも覆って下さって、その上、多くのものを持って、以前、祭壇を築いた場所に戻ってくることが出来たのは、神のお恵み以外なにものでもなかったでしょう。
 犠牲を捧げて、両手を高く上げ、また、地に伏して祈るアブラムの姿が、目に見えるようなシーンです。

 ところが、問題が生じました。アブラムとロトの持ち物が、あまりに多すぎて、一つところで放牧していっしょに暮らしていくことができなくなったのです。
 アブラムの家畜の牧者たちとロトの牧者たちとの間に、争いが起こったのです。
 その上、そこには、もともとの住民カナン人とペリジ人もいたのですから、四つ巴の争いだったかもしれません。
 それで、アブラムはロトに言いました。


「私とあなたの間、あなたの牧者と私の牧者たちとの間に争いがないようにしてくれ。私たちは親類同士なのだから。(8節)
 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、わたしは右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」(9節)
 ロトが目を上げてヨルダン川の低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地ツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。(10節)
 それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東の方に移動した。こうして彼らは互いに別れた。(11節)



 アブラムは、甥に先に選ばせ、甥に良いほうを取らせました。エジプトでは自分の命を惜しんで、妻を妹と偽って王の宮廷に召し上げられるようなことをしたアブラムですが、この場面を読むと、甥に対して愛に満ちた、寛大な族長の風格を感じさせます。
 ロトは良いほうを取ったのですが、同時に、心から伯父を敬い、愛する気持ちが深まったことでしょう。
 
 もっとも、これをアブラムの個人的な美質だと見るべきではないと思います。
 アブラムが、人間的な損得勘定を抜きにして、甥に先に選ばせることができたのは、神さまに信頼していたからだと、私は思うのです。
 行き先もわからず、神の命令に従って故郷を出てきたのです。
 明日の生活が不確かな境遇だったのにたくさんの財産とともに、以前神とお会いした場所に戻ってくることが出来ました。
 ふたたび、その地で「主の御名によって祈った。」とき、アブラムの信仰は、より強められていたのではないでしょうか。


 じっさい、アブラムの行為は、主の御心にかなっていました。


 ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。(14節)
 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。(15節)



 もっとも、アブラムは素直に喜んだでしょうか。アブラムには、あと継ぎになる子どもがいませんでした。




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2010年09月30日

Coffee Break38 アブラハムの従順



 アブラムの妻サライは美しい女性だったようですが、うまずめ(子どもを生めない女)でした。それは、子孫、一族が増えていくことが個人としても幸せというような当時の大家族主義社会にあっては、とりわけ大きな欠落でした。財産や成功は子どもに受け継がれてこそ、意味があったからです。

 甥のロトと別れたあと、アブラムはさびしい気持ちがあったことでしょう。子供がいないアブラムは、それまで心のどこかで、甥に財産をゆずることを考えていたかもしれません。
 
 その時、また、主が現れて、アブラムにおおせられたのです。



 わたしは、あなたが見渡しているこの地を、永久にあなたとあなたの子孫に与えよう。(13章15節)

 
 主は、同じことを12章7節でも、言われています。

 アブラムはこの二度の主の言葉を、どのように聞いたのでしょう。
 彼は、二度とも、自分に現れてくださった主のために祭壇を築いて、神に祈ったのです。

 アブラムの物語は、とても長く、ドラマにも作れそうな起伏があります。一族三百十八人を引き連れて、戦争に巻き込まれて虜になった甥とその家族を取り返す、勇猛な戦闘もあります。甥のロトの運命とともに語られる、ソドムとゴモラの滅亡の話も切迫感があります。しかし、全体のテーマは、アブラムが神の救いの計画に召し出され、いかにその一族が用いられていくかに焦点があるのです。
 
 しかし、この時アブラムは自分がそのような「人類の救いの民」の始祖に選ばれたと、知っていたわけではありません。
 ただ、神さまは、すべてをご存知ですから、この地全部をあなたとあなたの子孫に与えよう。と約束されるのです。

 その上、さらに強調されるのです。



 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。(16章)
 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」


 アブラムは、口答えも質問もしませんでした。神の言われたとおり、彼は立って行って、天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のために祭壇を築いた。(18節)のです。

 アブラムは、なによりもまず、主(神)に従順でした。
 



posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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