2010年09月03日

Coffee BreakJ 楽園追放(創世記3章)


 創世記3章は、すでにご存知のように、人間が神に対して罪を犯して、楽園を追放される話です。罪は神に対して犯されたのです。食べてはいけないという神の命令に背いた罪です。
 ここで、夫が自分の行為を妻の差し金であったと、妻のせいにしたことは、少なくてもなんの情状酌量の余地にもなっていません。妻も同じです。蛇のせいにしたところで、罪一等減じられるわけでもなかったのです。さらに、エバは夫に対して、思ったに違いありません。

 どうしてあたしのせいにするのよ。悪いと思うなら、初めに木の実に手を伸ばしたとき、あなたは止めてくれるべきよ。少なくとも、最初神さまから、「食べてはいけない」と言い聞かされたのは、あなたよ。
 エバは神さまにも、楯突きたかったことでしょう。
 神さま。蛇がそそのかしたのです。神さま、神さまはこの蛇もお造りになったんでしょう。
 第一、こんな魅力的な実のある木を、いつでも目立つ園の中央に植えたのは
 神さま、あなたでしょう。どうして、そんな危ないものをおいて置かれたのですか。


 これは、私の読みすぎかもしれません。じっさい初めて聖書を読んだ方からこういう声を聞くのです。読者の方はどう思われるでしょう。

 エバやアダムのために、私は、私たちは、弁護したくなるのです。罪が人に入って、それが今も、自分のこの人生にも影を落としていると言われては、黙っていられないのです。

 もっとも、ここで、人が神さまに謝罪していたとしたら、神は赦してくださったでしょうか。「ごめんなさい。二度としません」
 残念ながら、赦していただくのは無理だったでしょう。神の判決の理由は明確です。
 

 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。(3章21節)
 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」(3章22節)
 そこで、神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。(3章23節)


  人の目が開けて、神の一員であるかのように、善悪を知るようになった。この上、永遠に生きるかもしれない。そうならないように、追放。
この判決理由は、すんなりと承服できません。神のようになることができるなら、それは、神様にも喜んでいただけることかもしれないのにと、最初、凡庸な私は思いました。
 じっさい、「あの人は神さまみたいだ」と言った褒めことばが、俗に通用しています。

 私が納得したのは、また、聖書の原則に帰ったときです。聖書では、神が主役です。人は神に並び立つことができないのです。神と肩を並べた、対等になったと、頭で思っても、神にはなれないのです。じっさい、「神さまのような人」に失望させられるのが人間の世です。

 人の目が開け、知恵がつき、善悪を知って、神さま気分でいられるのは、楽園にいてこそです。
 神の保護のない世界に出て行った人間は、すぐさま自分の限界を思い知ることになります。それが、4章からの物語です。
 失敗続きの人間の物語です。
 神さまは、人間を見捨ててしまわれたのでしょうか。

posted by さとうまさこ at 04:00| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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