2010年09月07日

Coffee BreakN 因果応報とサタンと



 人は生まれながら罪を負っている。


 子どもの時、私はこのような考え方を、周辺の大人からしばしば聞かされました。人が人生でいろんな苦難に遭うのは罪のためだ。
 しかし、当時、私の周りに、クリスチャンはひとりもいませんでした。日常的に聖書を読んでいる人も知りません。
 
 私の育った宗教的環境は、いわゆる日本の伝統宗教です。寺の檀家であり、同時に神社の祭礼があればそれにも参加するような宗教的混合社会でした。実際の生活では、葬式と死者の弔い・祀りを行なう寺を中心とする絆が極めて強い地域でした。
 仏教の「教え」がしっかり語られていたのでもなさそうでしたが、生活の苦労や病気の人を慰める精神的な支えは、やはり「お寺さん」にあったようです。

 檀家寺のお坊さんは、毎月決まった日にきちんと訪問してくださって、仏壇にお経を上げて下さるのです。それはとても大切な日で、その日は新しい花や果物、菓子を仏壇に供え、特別の座布団を仏壇の前に用意して、お坊さんをお迎えしました。子どもたちは親とともに、お経を上げるお坊さんのうしろに並んで正座し、神妙な顔でお経を聞いていたものです。お経が終わると茶菓でおもてなしをし、子どもはお茶や菓子を運び、ふたたび座ります。子どもが誕生日だとか、ちょっと良いことをしたときなど、母がそれをお坊さんに報告し、するとお坊さんは手を私たちの頭に置いて、時には短い経文を唱えてくださるのです。
 親が何か相談事をお坊さんにするときは、あらかじめ言い聞かされているので、子どもは座を外しています。でも、そのつもりなら、襖越しに聞こえます。そんなに難しい話をしているわけではありません。近所づきあいや親戚づきあい、主婦としてのちょっとした愚痴。お坊さんも大体予定している時間がありますから、最後には、「いや、生きるのは苦です。人は生まれながら苦を負っているんですな。生まれながら罪があるんです」というあたりで、打ち切られます。

 「生まれながら苦を負っていて、罪がある」というのが、どういう意味かは、じつは、大人の世間話のうちに含まれていて、しぜんに得心していったことでした。
 それは、いわゆる生老病死という人間の四つの苦から始まっています。生きること自体が罪を犯しているのです。私たちの命は、ほかの命の犠牲のもとに支えられている。毎日の食事、着る物、家屋、土地を耕すこと、すべては、ほかの生き物の命と引き換えに得ているものだというのです。これは、ある意味とてもわかりやすい理屈です。食べる物で生きていなかったものなどひとつもないのですから(たとえ、米や野菜であっても生命のあるものです)、生きることは本源的に罪を作る事なのかと子どもながら納得します。挙句に、人の一生は老いに向かっており、必ず病を得て最後は死ぬのです。

 罪のもう一つの由来は、「因果応報」として語られていたように思います。いわゆる、前世の因縁、先祖からの因縁、本人の過去の行動からの因縁。
 不幸が続くのは、前世で悪いことをしたからだ。先祖が悪いことをしたからだ。知らない間に罪作りなことをしているのだ。挙句に、先祖の供養が足りないから、ご先祖が怒っていらっしゃるのだ。

 お断りしておかなければならないのですが、私はこれらが、仏教の正しい解釈から来た教えであるかどうかは、今もって知りません。
 たぶんに俗耳に入り、巷間、人々にわかりやすく解釈されていった「仏教的罪の由来」かもしれません。
 しかし、いまでも、これらの考えは、結構生きていないでしょうか。先祖の供養が足りないから、水子供養をしないから、親の行いが悪かったからというのは、まだしも。若い女の子が、「あたしね。前世では、クレオパトラだったんだって」などと電車の中で大真面目にしゃべっているのを聞くと、ただ、びっくりしてしまいます。
 
 なんといっても、上の二つの罪の原因と、創世記3章が意味する罪の由来は、まるで違うものだとわかります。

 聖書では、罪は「神に対して」犯されたものです。神を敬わないのはもちろん罪です。アダムとエバのように神の命令に背くのは罪です。しかし、同時に、人と人の関係に過ぎないと思えるようなこと、盗みや殺人、親への反抗や嫉妬や姦淫(不倫)、困っている人を助けないことも罪なのです。なぜなら、そのようなことはすべて、神がいとわしく思われるからです。神は人に、隣人を愛するようにと命じておられるのです。その命令に背くのは、罪なのです。

 では、もろもろの苦難や不幸はどのように考えればいいのでしょう。まだ、何の罪もないはずの赤ちゃんが、戦争発生地帯に生まれたばかりにひどい怪我をする、生まれてすぐ親を失ったなどという場合、原因は何なのでしょう。

 それは、私たちの生きているこの世それ自体が、罪の世界である、サタンが支配する世界であるからというのが、聖書の教えです。

 エデンの園から追い出されたというのは、神の祝福と守りの中から追い出されたことなのです。人は、神の保護のない、悪魔が支配する世界に入れられてしまったのです。

 ただ、それでも、神は、私たちを心にかけておられ、なんとか元のように私たちをみもとで愛したいと思っておられ、そのご計画を、実行しておられると言うのが、私たちクリスチャンの希望です。

posted by さとうまさこ at 04:00| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。