2010年09月08日

Coffee BreakO 目が開かれるということ(創世記3章)


「主(神)を恐れることは知識の初めである。」(箴言1章7節)


 箴言は、39巻ある旧約聖書の20番目にある文書です。格言とも言うべき、諭しのことばです。「知恵文学」と呼ばれています。「神の救いの歴史」とはまた別のカテゴリで書かれているので、「創世記」を読みながらでも、興味を持って読むことができます。

 子どもの頃の宗教的環境を思い出したのは、因果、因縁で不幸が巡っているような考え方が正しいのかどうかを、問題にするためではありません。
 その考え方が、間違っているにせよ、世俗の人々が考える中途半端な思弁にせよ、あの頃は、もう少し人が「霊的事実」に向き合っていた時代でした。
 男は、家族を養うため、文字通り顔に汗して働くもの。女はそのような夫に従い、家族を一所懸命支える──そういう伝統的な生き方の名残が、まだまだ人に枠を嵌めていました。
 何か、わからないけれど、目に見えない力が自分たちの目に見える人生に働いている、そのような自分の力が及ばないものへの恐れは、今とは比べ物にならないほど強かったのではないでしょうか。
 
 いまは、どうでしょう。人は目に見えないものと、目に見える自分の力とを区別できているでしょうか。
 幸せで当たり前、ほしいものを手に入れて当たり前、欲求は満たされて当たり前。それも、すべての人がそうあって当たり前。隣の人が持っているものは、自分の手にも入るもの。力ずくでも手に入れるもの。手に入らないのは、誰かが悪いのだ!
 
 誰かが悪いと数え上げ始めると、いくらでも出てきます。道を歩いていて、わき道から自転車が飛び出してきても、バスが急ブレーキで止まっても、小さな段差で自分がつまずいても、「自分以外のもの」に腹を立てることができます。親、兄弟、家庭、国。社会や行政や学校制度。学校の先生、福祉、町内会、隣人。机を並べて仕事をしている同僚、上役。友人、仲間。ショッピングセンターの店員の応対。楽しそうに歩いている見知らぬカップル。

 自分を取り巻くものは、自分を支えてくれるだけではありません。自分の幸せや平穏を乱す原因にもなります。
 
「人差し指で人を指差せば、ほかの3本の指は自分を指しているんだよ」
 ある時、指を指された子どもがいいました。小学生でも、知っている事ですから、大人が知らないはずはないでしょうが、指差し合戦はけっこう蔓延しています。

 悪いものを正す必要があるのは事実でしょう。それができるのも、また、神に造られた人間です。 しかし、指差した後、もう3本の指に自分を指されて、落ち込むことはないでしょうか。落ち込んで、「うつ」の診断を受けて、薬を処方してもらえば解決でしょうか。お酒で気晴らしすれば解決でしょうか。気分が良くなれば、解決でしょうか。

 
「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3章5節)と、蛇はエバにささやきました。
 それまでも、善悪の知識の木は、おいしそうな実をつけて、そこにありました。また、食べるものは園の中にいくらでもありました。それなのに、エバは禁じられている実に手を伸ばして、取って食べたのです。
 サタンは、人の思いあがりの心に付け込みます。何一つ、申し分なく平穏な者にさえ、ささやくのです。
「ほら、あれに指を差してご覧。あなたは、彼らより上になるのだ」

 神の祝福の中から追い出されて、人間がどのような運命を辿るのか。創世記4章ではアダムとエバの二人の息子が、いきなり人類最初の殺人事件を起こすのです。家庭内殺人です。裁判になっていたら、裁判官は首を傾げたことでしょう。動機を、明らかにするのは、とてもむずかしいからです。


posted by さとうまさこ at 04:00| Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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