2010年09月12日

Coffee BreakS カトリーヌ・アルレーの世界(創世記3章4章)


 カインの殺人事件は、Coffee BreakOで書いたように、「裁判になっていたら、裁判官は首を傾げた」ことでしょう。
 動機を明らかにするのは、とても難しいからです。
 客観的にだれかが見たら、カインがアベルを殺すほど嫉妬する理由は見当たらなかったのではないでしょうか。今とは、比べようもない自然条件の中で、二人はそれぞれの仕事と格闘しなければなりませんでした。けれども、どちらも、同じ時期に、一定の成果を上げ、その収穫を神さまに感謝し、ささげ物を神様の御前(みまえ)に持ってくることができるようになったのです。それまでに、二人の間に利害の対立などあったでしょうか。二人は、まったく違う仕事をしていたのです。


 カインの言い分──「神さまは、弟の方のささげ物に目を留められて、自分のささげ物には目を留められなかった。それで、カッとなって・・・」は、はたして、法廷で認められるでしょうか。
 神さまが、兄弟を依怙贔屓したと証明することは難しいでしょう。もちろん、神さまを法廷にお呼びすることはできません。
「なぜ、弟を殺したんだね」と、裁判官。
「腹が立ったんです。やつがおれを侮辱したから」。
 また、
「やつはなにもかもうまく行ったんだ。羊は順調に育って、子羊を何匹も産んだ。やつは、毎日おいしい乳を飲んで、肉を食べていた(聖書的にはノアの時代以後ですが)。それにひきかえ、おれは一所懸命働いたのに、小麦が全部イナゴでやられちまって・・・。大変だったんだ。やっとそれでもいくらか獲れたものを、神さまに持ってきたんだ。やつは、それを軽蔑の目で見たんです」

 そんな証拠もたぶん、出すのは難しかったでしょう。


 わたしはかつて、ミステリーのファンでした。自分でも書いてみました。本として出版されたようなものはありませんでしたが、犯罪事件を物語に組み立ててみるのは、人間や人生について考えさせられることでした。
 ます、事件を起こす必然性、いわゆる、動機です。人間の目で納得できるためには、いくつかの、非常に類型化されたパターンがありました。犯罪事件の原因は、お金、男女関係、怨恨、家族防衛、社会的地位や名誉の獲得競争、保持などでした。
「でした」と、過去形なのは、古典的なミステリーではそのようになっている、ということです。アガサ・クリスティ(名探偵ポアロ)やコナン・ドイル(シャーロック・ホームズ)などの探偵小説を思い出してください。物語を語る手際がいいので、複雑な事件を探偵が知恵を絞って解決しているように見えますが、ナゾ自体はきわめて単純なものです。

 犯罪事件、または広い意味でミステリーな出来事が、類型化できるようなものなので、やがては飽きられるわけです。それで、魅力的な探偵を登場させたり、特殊な世界を舞台にしたり、謎解きそのものに工夫を凝らしたり──密室物など──、実話を絡ませたり、どんどんバリエーションが増えていきました。それでも、小説に書くような話は単純なのです。動機や犯罪の起こり方に、読者が納得できるものがなければなりません。

 意外性を狙い、読者のウラをかいて、最後に「アッ」と言わせるのが作家の喜びなのですが、だからと言って、最後の最後に、とつぜん、それまで、登場していなかった人物が出てきて、「じつは私が犯人だ」では、話になりません。
 同時に、犯人らしくない人物が犯人だったという意外性にも、あちこちにヒントが埋め込まれていて(伏線)、ああ、そうだったのか。あそこを読み落としていたと、読者がほぞを噛むように、また、横着な読者が飛ばし読みしないように、しっかり作るのが作家の腕です。

 ミステリーと言うジャンルのために弁護しますが、ミステリーはその後、進化発展して、じっさいには、小説のジャンルとしても幅を広げ、取材する世界、人間性の掘り下げ方、手法など、とても多様になっています。

 とりわけ、私が好きだった心理サスペンスの世界は、もう古典的な謎解きとは無縁の世界です。そこでは、動機、それも類型化された動機でなく、理由のつかない「人間の心の闇」とも言うべき世界を扱った優れた小説が、数多く生まれています。


 たとえば、──これも今では古典ですが──カトリーヌ・アルレーの「わらの女」。平凡で貧しい孤独な女が、まだ見ぬ富に憧れ、生活の変化を求めて、新聞の小さな求婚広告に応募するところから、幕が開きます。
 彼女・ヒルデガルデは、予想通り、思いがけないほどの巨億の富の世界に入っていきます。そこにいるのは、悪魔ばかりなのですが、ヒルデガルデは多少の悪には負けないと自分も悪魔の仲間入りをしたつもりでいるのです。しかし・・・。
 そのようなナイーブな悪を、本物の悪魔がひねるのは簡単なのです。膨大な長編ですので、ここでは「さわり」をお伝えするのもむずかしいのです。



 最近、私たちの身の回りに、カインのような事件がたくさん起こっていないでしょうか。他人が見たら動機がわからない、あとになると本人も説明ができないような殺人やいたずら。

 創世記の、気の遠くなるような昔の話が、かえって今の時代の事件に似ているのは、どうしてでしょう。あまりにナイーブで、神を畏れることを知らなかったカインのような人が増えているのでしょうか。
 それとも、神などいるものかと、そっぽを向いているために、カインと同じように、サタンにそそのかされるのでしょうか。



 「わらの女」の主人公は、第二次世界大戦中、ハンブルグの大空襲で親兄弟、友人をすべて失い、生活の基盤も失い、深い虚無の中にいました。そこでは、サタンの声はとても真実味がありました。金持の男と結婚するしかない、お金がすべてだとヒルデガルデは信じるようになっていました。その手段は、毎日、新聞の求婚広告を見るといったあてにならないものでしたが、悪魔がささやき続けていたのです。
 彼女はドイツ人ですから、子どものころは教会にも行ったはずです。神さまを知らなかったわけではなかったでしょう。しかし、祈るような気持ちになれないところに立っていたのです。
 悪魔の声に振り回されていくヒルデガルデは、破滅のどん底で初めて、「神さま」と叫ぶのです。残念ながら、神さまがお答えになる時間はありませんでした。彼女は同時に、意識を失くしていたからです。自殺したのです。


 それにひきかえ、まだ、生まれたばかりの人の、最初の息子、ろくに神さまのことも、祈りも知らなかったカインには、神さまが憐れみをかけてくださったのでしょう。


 
posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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