2010年09月16日

Coffee Break24 さいわい(創世記6章)




 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。(創世記6章11節)
 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でそれを乱していたからである。(6章12節)

 創世記6章には、神さまがご覧になって、地上の人の悪がどれほど目に余るものであったか、繰り返し語られています。その中で、ノアは、正しい人であって、その時代にあっても全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。と、強調されているのです。

 大洪水を起こして、地上のすべての人間を滅ぼそうと決心された神が、ノアを助けられたのは理由のあることだったのです。

 わたしたちは、このような状況、大部分の人たちが滅ぼされるときでも、自分と自分の家族だけは助かりたいと思います。99.99999%の人が滅びても、0.00001%でありたいのです。
 
 しかし、よくよく読むと、ノアの基準で助かるのは自分には不可能だと、わたしには思えます。正しく、神とともに生きるだけでも大変ですが、人とまったく違う道を行くのは並みの意志ではできません。すべての人が悪に傾き、暴虐を行なうときに、自分だけを聖く、正しく保てるのか、確信がもてません。
 
 誰かが苛められているときに、「君たちは間違っているよ」と弱い一人ぼっちのクラスメートをかばってやるのが、どんなに大変かわかるでしょう。
 みんなで噂話をしているときには、つい、その話題の中に引きずり込まれるのは、だれもが経験しているでしょう。自分が噂話の対象になっていたとわかると、自分も言い返したりします。
 クリスチャンのなかには、仏式の葬式には出ない人もいると聞きます。けれども、これも、信仰を守ると言う意味があっても、それで、遺族との間に誤解が生じたら、「良いこと」だとばかり言えるでしょうか。神さまはわたしたちに「隣人を愛しなさい」と命じておられるのです。

 現代の複雑な社会では、慈善的活動でさえ、「正しいことをした」と言い切れないことがあります。街頭募金の箱にお金を入れたら、それが、反社会的な活動をしている団体の資金になったと言うこともありえます。
 開発途上国に支援物資や支援金を送るのは良いことですが、その途上国から、強い円で、資源や生産物を買い叩き、結果的に搾取になっているのです。買い叩いた食べ物や衣類のお陰で飽食ぜいたくをしながら、少しばかり支援している事実は変わりません。

 いったい、「正しい」とはどういうことなのでしょう。
 わたしたちもノアのように、「神とともに歩む」ことなど、できるのでしょうか。

 聖書の神さまは、聖であると同時に、愛の方だと書きました。
 聖くないものを忌み嫌われるのです。同時に、間違いを犯したものを赦して下さろうとする方です。
 アダムとエバ、カイン。そして、ここでは、全人類を滅ぼしたいと思われたにもかかわらず、ノア一家に目を留めて救い出されたのです。

 さて、

 さいわいなことに、わたしたちは全員、そのノアの末裔なのですが・・・。


posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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