2010年09月25日

Coffee Break33 神への挑戦(創世記11章)




 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」(創世記11章4節)

 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りてこられた。(5節)

 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。(6節)

 さあ、降りていって、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」(7節)

 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。(8節)



 人は一人では生きていけません。人間は社会的存在です。集まって社会を作って生きるような性質が与えられているのです。ところが、その社会性にも、サタンは抜け目なく入り込んでくるのです。

 シヌアルの地に集まった人々は、町を作りました。せっかく大きな町が出来たのだから、世界のシンボルとなるような、もっとすごいものを作ろう。団結して天まで届くような塔を作って「名を上げよう」というのです。

 神さまが聞き捨てならないとお思いになったのは、人間の「名を上げたい」という高慢な心です。その動機です。
 一見もっともらしい動機があるのです。
「われわれが全地に散らされるといけないから」
 散らすのは、神しかいません。しかし、じっさいに散らされると決まっているのでも、わかっているのでもないのです。神が何かをされるとき、自分より強い神には敵わないから、その前に、先手を打って阻もうというのです。

 だれでも、ひと個人は弱く、その力も小さいとわかっています。ですから、人間は、集団で、大きなスローガンを掲げて、大きなことをしようとします。このとき、このような高慢、間違った動機が、忍び込んできます。
 
 でも、これは、聖書の中の「お話」でしょうか。
 今も、私たちはこのようなスローガンと、計画を目にしませんか。
「天にも届く塔を建てて名を上げよう。」
「われわれが散らされるといけないから」

 この二つの言葉は、時代に合わせて、いろいろの言葉に言い換えることができます.
危機感をあおって、「神に挑戦せよ」とささやくものの声には、いまも、警戒しなければならないのです。



   主(神)を恐れることは知識の始めである。(箴言1章7節)






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posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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