2010年10月01日

Coffee Break39 アブラハムの信仰

 


    病あり そんな気がする真夜中に 正座して想う大きなかたを


 十年ほどの間、宣教師さんの英語聖書教室に出席していました。「聖書に興味二分」「英語に興味八分」くらいの気持ちでした。
 学びは、ヨハネの福音書、マルコの福音書でした。イギリス人の宣教師さんは日本語がお上手でしたが、微妙なことを議論するのは無理でした。こちらが、微妙なことを議論する英語力もありませんでした。そんなわけで、学びはしましたがどこまで理解したかあやしいものです。その上、最初に入ったヨハネの福音書は、四つの福音書の中では、一番難しいと、あとで知りました。


 前にも書きましたが、ミステリーが好きでした。ミステリーそのものは日本のミステリーのレベルが低いと言うことはありません。しかし、こと、心理サスペンスのジャンルでは、格が違いました。日本人は悪を書けないとは、昔から言われていることです。悪を書く場合にもセンチメンタルな感情に流されるところがあるのです。
 それに比べると、カトリーヌ・アルレーやパトリシア・ハイスミスの描く悪は「容赦がない」のです。悪に対する認識のレベルが違うと、思わされました。
 まったく、キリスト教を知らないながら、これはなにか背後のキリスト教の文化と関係があるのではないだろうかと思ったものです。それが、「英語聖書教室」にひかれた理由でもありました。


 よこしまな理由で学んでいるのですから、自分は、クリスチャンにはならないと思っていました。神を信じるなんて、とんでもない! ところが、十年たった頃、突然、神さまを信じたのです。


 信仰に入ったとき、「どうして? あなたが?」とたくさんの人から訊かれたものです。訊かない人は、内心納得しているようでした。
 そうよねえ。なんだか、大変そうだもの。生活が大変、夫婦仲が大変・・・。
 きっといろいろな憶測や噂が、流れていたことでしょう。

 どうしてか、自分でも説明できません。自己紹介で書いたように、谷底に落ちそうなとき、誰かが襟首をつかんで、ひょいと持ち上げてくださったのです。
 ああ、神さまっているんだと、やっと、気がついたのです。

 そして、冒頭の歌のように、ごくしぜんにお祈りをするようになったのです。


 創世記で神さまが私たちを作ってくださったとき、神さまの愛の対象として造られた。神様とお話しができるように、特別に神さまの息を吹き込んで下さったということが、身を持って信じられるようになりました。神様と語り合うために作られた部屋──心、精神、たましいが、私にもあるのが「わかる」のです。本来備えられていたものを使うのですから、それはよろこびです。

 アブラハム(アブラム)のように、従順とは行きません。従順といった言葉自体を何十年もバカにしてきたのですから。でも、「アブラムの従順」が理解できるようになりました。
    


   ☆☆☆☆☆


「アブラムよ。恐れるな。
 わたしはあなたの盾である。
 あなたの受ける報いは非常に大きい」(創世記15章1節)


 もっとも、従順なアブラムも、神が四度目に、祝福を約束して下さったときには、畏れながらも、申し上げました。

「神。主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。」

 そうして、自分の財産はしもべが継ぐのでしょうかとお伺いしたのです。

 神は、「あなた自身から生まれ出て来るものが。あなたの跡を継がなければならない。」と、アブラムを外に連れ出して、仰せられた。のです。
「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」
                          (2節〜5節)


 アブラムは星空を見上げました。神様はあなたの子孫はこのようになるとおっしゃったのです。
 
 アブラムは、主を信じました。それが彼の義と認められた。(6節)のです。


 この時のアブラムは、神さまのことや、自分の将来について、わからないことがたくさんあったかもしれません。でも、彼は素直に、従順に、神さまを信頼しました。

 わたしたちも、アブラムのように信じるだけでいいのです。信じるだけで「救われる」のです。



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2010年10月02日

Coffee Break40 神、主よ。




    空腹の 子猫 野原に啼き迷い 連れて帰りし はなすに はなせず


 数日前、友人から、猫をもらってほしいと、電話がありました。虐待されていた猫を引き取った人から頼まれたそうです。
「うちは集合住宅だから飼えないのよ。お宅こそ飼えそうじゃないの」
「うちは、主人が猫嫌いで」

 結局、断ったのですが、これまで飼ってきたたくさんの犬猫を思い出しました。子どもの時は、捨て猫を見るとつい放っておけず拾って帰り、動物好きの両親でしたが、犬3匹、猫四匹が家にいるときには、さすがに、「もとの所に置いていらっしゃい」と、言われ、途方にくれたものです。

 犬や猫を飼ってみると、彼らがなかなか知恵もあり、人の気持ちもわかり、彼らにも感情があることがわかります。まさに「情が通じ合う」感じで、家族同然にもなるのです。
 動物好きの人間には、動物にも人間と同じように心があると思えるのです。


 俗に言う「輪廻転生」などは、動物と人間が対等な、互換性のある「いのち」だと思っていると、受け容れやすいのです。「つぎは、猫に生まれ変わる。それもいいか」というわけです。
 すし屋の生簀の魚を見て、「前世は、こんなふうに泳いでいたのかな。でも、目の前で仲間が料理されるのを見るのはあまりいい気分ではないわね」

 このような物の見方は、頭の遊びとして考えれば、なかなか楽しいのです。
 ですが、聖書を読んで、本当の神様というものを、考えるようになると、たしかに猫と自分が対等というのは、間違っているのです。


 猫も物思いにふけっているように見えることはあります。土砂降りのときなど、不思議そうに窓から空を見上げていたりします。けれども、それは、また別の本能のせいだと説明ができます。
 猫にも、犬にも、(ほかの動物もぜんぶ)神様は、それぞれに能力をお与えになったのでしょう。猫や犬は、嗅覚は人間の二千倍と聞いたことがあります。それがどれくらいのものか、想像もつきません。すごい能力です。人間には聞こえない小さな音、高い音、低い音も聞こえるそうです。

 以前、飼っていた猫は、家人が帰ってきたら、必ず自分で縁側の戸を明けて迎えに出るのですが、その五分も前からもう立ち上がっています。外はしょっちゅう自転車や車が通るのですが、たくさんの自転車の音を、それも、まだ遠くから走ってくる「ご主人」の自転車の音を聞き分けているのです。
 もともと、猫や犬にとって、これらは生きていくのに必要な能力だったので、神様が与えてくださったのでしょう。その能力を、今の猫や犬は、自由に発揮できないのですから、ある意味かわいそうともいえます。

 人間は彼らのような鋭い嗅覚や聴覚や、速い足や、ばねのような筋肉を持たなかった代わり、神様が、神様と語り合えるこころを与えて下さったのではないでしょうか。

 
 今は、一匹の動物もいない暮らしですが、もし、もう一度猫を飼えたら、試してみようと思います。
 朝、起きると、猫なで声で、彼(彼女)を呼んで座布団を指差します。
「いっしょに祈ろ。ここに座っていなさい」

 すると、神様はおっしゃってくださるでしょう。
「その者ではない。わたしは、あなたを愛している」

 ごめんなさい。アブラハムの話の途中で、別の話題になってしまいました。



 明日の聖書箇所です。お読みください。


 主はそれを彼の義と認められた。(創世記15章6節)
「わたしはこの地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを連れ出した主である。」(7節)
 彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」(8節)
 すると、彼に仰せられた。「私のところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持ってきなさい。」(9節)
 彼はそれらを全部を持ってきて、それらを真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。(10節)
 猛禽が死体の上に降りてきたので、アブラムはそれらを追い払った。(11節)
 日が沈みかかった頃、深い眠りがアブラムを襲った。そして、見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。(12節)



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2010年10月03日

Coffee Break41 契約 




 神様は四度目、アブラムを祝福されたとき、さすがのアブラムも神さまに質問をしました。すると、神様はカナンの土地を下さる。子孫を空の星のように増やしてその地を与えてくださると、約束してくださいます。
 それを信じたアブラムは、それを彼の義と認められた。のです。
 加えて、
主は仰せられた。
「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたと連れ出した主である。」


 アブラムは、また、主にお尋ねするのです。

「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」


 神様は、三歳の雌牛、三歳の雌ヤギ、三歳の雄羊を、犠牲として捧げるように言われました。

 このあとの場面は、ちょっと怪奇な雰囲気です。
 アブラムは主の命じられたとおり、三頭の動物と山鳩の親子を捧げます。大きな動物を縦に真っ二つに切って向かい合わせに置きました。
 血の臭いを嗅ぎつけて、猛禽が舞い降りてきます。もちろん、当時のことですから、一羽や二羽ではないでしょう。それを追い払うアブラム。太陽は西に落ちて、地は刻一刻と闇が降ってくるのです。
 
 神様への犠牲(のささげ物)を、猛禽に取られまいとするアブラムは、突然睡魔に捉えられ、同時に、「暗黒の恐怖が彼をおそった。」のです。

 この場面、ここまで主を信じてきたアブラムが、しつこく聞きただすことに、主はお怒りになったのかもしれない、とわたしは思います。これまで、主は祭壇を築いたアブラムを喜ばれましたが、ご自分から犠牲を捧げるよう要求されたことはないのですから。


 ここで初めて、神は彼の子孫が増えるということが、具体的にどういうことか明かされるのです。
 それは、アブラムの子孫が四百年にわたって異国で寄留者となり、奴隷となって苦しむ。しかし、神が、そこから多くの財産とともに連れ出してくださる。出エジプトの予告でした。(もちろん、アブラムには「出エジプト」の名前はわかっていません。)
 アブラム自身は、長寿をまっとうして平安の内に死に、先祖のもとに帰っていく。
 


 神が告げておられる間に、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。(創世記15章17節) 


 神の現れのクライマックスです。

 神はアブラムと契約を結んで、仰せられるのです。


「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。
 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エプス人を。」(18節〜21節)
 


 神様から、これほど具体的に、自分と自分の子孫の将来像を告げられたアブラムの心境に大きな変化が起こったのは、事実でしょう。
 アブラムは、それでも、自分の一番聞きたかったことに、答えていただけませんでした。深い眠りと恐怖の中では、神様の声を恐れを持って聞くばかりだったのです。
 アブラムの一番の疑問、「私には子がありません。」という反問に、神様はまだ、お答えにならなかったのです。


 アブラムは、自分の体験を妻サライに話したことでしょう。
 サライは夫の苦悩を理解しました。子どもが生めない自分を責めたでしょうか。当時の習慣では、妻に子どもが生めない場合、妻は自分の召使を側女として夫に差しだしたようです。妻に子どもがあってさえ、男が妾を持つ一夫多妻の社会でした。

 サライは、自分の召使の女ハガルを夫に差し出しました。ハガルは男の子イシュマエルを産みました。
 
 これが、アブラハム(アブラム)の大きな過ちだったと言う解釈を、本で読んだことがあります。イシュマエルの子孫がアラブ人で、アラブ人は現在イスラム教徒でクリスチャンと対立しているからと言うのが、その理由です。

 しかし、わたしはそうとばかり言えないと思います。
 聖書の神は、全知全能の神様です。アブラムやサライが、どのように振舞うか、すべては織り込み済みだったのではないでしょうか。
 
 神様はハガルから生まれたイシュマエルも祝福されたと、聖書に書かれています。

 イシュマエルは父アブラハムの埋葬にも立ち会いましたし(創世記25章9節)、アブラハムの息子イサク(サラから生まれた息子)の長男エサウは、イシュマイルの娘と結婚しています。(創世記28章9節) 血縁の親戚としての付き合いもあったのです。



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2010年10月04日

Coffee Break42 サライとハガル




 ノンクリスチャンの友人が、「サムソンとデリラってどんな話なの」と訊きます。
 久しぶりに会っておしゃべりをしていたときです。先方はクリスチャンの私に、たまには聖書についての質問もしないと悪いと思ってくれたのかもしれません。それで、どこか記憶に残っていた聖書の話を持ち出したのでしょう。

「サムソンはね。神様から与えられた怪力の持ち主で、その力で、弱いイスラエルの人たちのために敵をやっつけて働くんだけれど・・・」と、わたしは茶飲み話っぽく語ります。
「彼は女性に弱かったのね。女の人を好きになると、ぞっこんになるの。敵をやっつけに行ったのに、女の人に騙されて逆にとらえられてしまうの」
「なあんだ」
 友人は言いました。
「聖書にも、そんな女たらしみたいな人が、出てくるの」
「そうよ。聖書だからって、聖人列伝ではないのよ」

 
 この友人は、自ら「好奇心が強い」「物知り」を自認している人です。キリスト教にも理解のあるほうです。ときには、どこかの教会の催しに出かけたり、私の所属している教会へ来てくれたこともあります。それでも、聖書は、ぜんぜん知らないようです。
 そうだとしても、笑えないでしょう。わたしも、まったくキリスト教を知らないときは、同じだったのです。

 聖書と言うと、聖人君子のような人(もしかして、イエス・キリストのイメージ)がでてきて、論語のように倫理の規範が延々と述べているか、荒唐無稽な昔話の羅列か、神様と悪魔がどこか遠い宇宙で闘っているか、神秘的な意味不明のご託宣が書いてあるか。と思っている人が多いのです。


 「女性に弱い」英雄が出てきて、しかも、その人が、その弱さにも関わらす、神さまに用いられているという矛盾を抱えた物語だと聞いて、びっくりしてしまうのです。
 ダビデが人妻と不倫をして、その女性の夫を殺してしまうとか、ダビデの宮廷の中で兄の王子が妹の王女を犯したとか、ロトの二人の娘が父に酒を飲ませて眠らせておいて、交わるとか。
 正視しがたい事件が次々起こる、それを、いったいどのように観たものか、どのように解釈したものかと惑っている人たちが、現に教会の中にも、聖書の学びのときにもいます。

 まして、聖書は、聖なる書物だから、聖いことしか書いていない、だから、わたしはとても近寄れないし、近寄る気がしないと言うノンクリスチャンの人が、突如聖書を読むと驚くのです。



 アブラハムの物語でも、アブラハムを聖人などと思っていると、たちまちつまづいてしまいます。アブラムは、神様が何度も、「あなたを祝福する」と言ってくださった選びの民の始祖となった人です。ところが、とても、弱いところがあります。旅の途中で、自分の命惜しさに妻を妹と偽る事件が二回ありました。
 妻が女奴隷ハガルを勧めてくれたら受け容れるのは、仕方がないのですが、妊娠したハガルと妻の関係が悪くなり、サライから責められると「彼女はお前の奴隷だ。お前の好きなようにしなさい」と、ハガルのことはまったくかばってあげません。もめごとから逃げています。

 この、弱い人、ある意味卑怯ともいえるアブラハム。彼が、それでも、救いの器として選ばれたのは、神様に対する確かな信仰でした。

 ハガルを夫に勧めたのは、もともとサライです。嫌ったのもサライです。ちょっと、サライもひどい女性だと思えなくもありません。
 しかし、この物語は人間の醜さだけを語るものではないようです。

 追放されることで、アブラハムの神への信仰が、エジプト女のハガルにも及んでいくのです。

 明日は、砂漠を放浪するハガルに、神様が現れてくださる場面を、見たいと思います。



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2010年10月05日

Coffee Break43 ハガル


        

 ハガルをアブラハムに勧めたのは、妻のサライ(サラ)でした。ハガルは、エジプト出身の女奴隷でサライに仕えていました。たぶん、エジプトのパロから贈られた男女の奴隷(創世記12章16節)の一人だったのでしょう。

 サラがアブラハムにハガルを勧めた理由は、夫が子どもを欲しがっているのが、痛いほどわかったからでしょう。神様が何度もアブラムに、「あなたの子孫を地のちりのように、空の星のように増やし、祝福しよう。あなたの子孫にこの地を与える」と約束されたのです。ところが、二人の間に子供が与えられる様子はありませんでした。アブラムもサラもだんだん年をとっていきました。サラが子どものできない体であるのは、確実であるように思われました。

 そんな時、当時は、妻は自分の女奴隷を夫に与えて、子どもを生ませたのです。サラはそのような社会のモラルに従ったのでしょう。
 けれども、建前と本音の感情は別です。夫がほかの女を迎えて、その女に子供ができて喜ぶ妻はいないでしょう。
 また、ハガルにしても、アブラハム・サラ夫婦は主人でしたが、ひとたび、アブラムに迎えられ子どもができると、それまでの気持ちが変わるでしょう。主人の子どもを生むのです。奥さんと対等な気分になってきます。奥さんに出来なかった子どもをあたしが生むと思ったときに、しぜん、傲慢になったのでしょう。
 
 二人の女は、たちまち対立状態になります。



 そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が私とあなたの間をお裁きになりますように。」(創世記16章5節)
 アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷はあなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」 それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。(16章6節)


 女として、サライの身になってみると、サライの嫉妬はわかる気がします。けれども、ハガルの身になってみると、主人の望みどおりみごもって、どうしていじめられなければならないのと、たまらない気持ちになったことでしょう。衝動的に、夫婦から離れて、荒野へ飛び出したのかもしれません。とはいえ、荒野は着の身着のままの女が、ひとりで旅をするには危険な場所です。行き倒れても、猛獣や盗賊に殺されてもふしぎではありません。
 
 アブラムがハガルの家出を、いつ知ったかわかりません。この危なっかしいハガルの逃避行を、すぐに気にかけて下さったのは、神様でした。



 主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、
「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」(8節)
 そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」(9節)
 また、主の使いは言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数え切れないほどになる。」(10節)



 それから、主の使いは、ハガルが男の子を産むこと、その子をイシュマエルと名づけるること、イシュマエルは野生のロバのようなたくましい人になること、などを告げます。
 
 主の使いの顕現は、ハガルにはどれほどの衝撃だったでしょう。ハガルがもともと住んでいたエジプトの神ではないのです。
 

 彼女は、自分に語りかけられた主の名を、「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは」と彼女が言ったからである。(13節) 

 エジプトの神は太陽だったり、蛙だったり、牛だったりと、名前も形もある偶像です。主の使いとの出会いは、彼女にとって驚くべきことだったでしょう。
 ハガルは主の使いが去っていかれるその後姿を見ました。
そして、「これほどはっきり、神様が自分を気にかけて現れてくださった。それなら、こんなところにいてはいけない!」と、気がついたのです。

 アブラハムに現れて祝福してくださった神、天地万物を創造されたアブラハムの神は、こうして、異教徒であるハガルにも憐れみをかけてくださり、祝福を下さったのです。

 ハガルはアブラハムのところに戻って男の子を産み、神の使いがお示しになったように、その子をイシュマエルと名づけました。






      Coffee Breakも43回になりました。
      いつも読んでくださって、ありがとうございます。
      数が増えたので、ふりかえって読み直すためにも
      小見出しがあったほうがよいとの、
      ご提案がありましたので、
      ナンバーとともに、小見出しをつけました。
      これからも、よろしくお願いします。

      なお、ここで使っているのは、新改訳聖書です。
      ほかにも、新共同訳、リビングバイブル、現代語訳
      口語訳聖書などがあります。





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2010年10月06日

Coffee Break44 「サラ・ハガル」関係


 
 神はアダムに対し、一人の女性しかお与えになりませんでした。アダムもそれを喜んだのです。神がエバをアダムに引き合わせたときの、アダムのよろこびの声──これこそ、私の骨の骨、肉の肉。(創世記2章23節)を思い出してください。


 ずいぶん前ですが、ある生物学者が新聞に書いておられたことに、なるほどと思ったものです。その方は、聖書を引用していたのではありませんが、男女の始りを、「もともと一つの生命体であったものが、大昔に離れ離れになったので、その相手を求めて男女は引き合うのだ」と書いていたのです。むしろ、「科学的」な、その説明に、当時、クリスチャンでなかったわたしは、妙に得心したのです。そうか。男と女はもともと一つだったのだ。
 この説明は、人間以外の雌雄の存在にも適用されていたので、聖書とは意図が違うかもしれません。人間の男女が交わるのは、生殖だけが目的ではないからです。


 私たち人間は、同時に、この本来あるべき男女の姿を、逸脱して来たのだということも知らなければなりません。
 
 聖書物語を読んだ方の反応のひとつに、「性」の問題がありました。
 たとえば、「清く正しく、信仰深い」ユダヤ娘エステルが、後宮の複数の妃の一人であったと言う設定に、抵抗を感じる方がいました。
 アビガイルにプロポーズするとき、ダビデにはすでに二人の妻がいたと、わざわざ書いてあるのも、気に障る・・?
 ルツの姑ナオミが、嫁にレビラート婚を勧めることは、「麗しい」嫁思いの行為であるという意見もあります。でも、男性が一人で寝ているところに忍び入っていく場面を「麗しい」と、今の私たちは思えるでしょうか。
 私たちが認めるのは、当時はそのような行動を取っても、亡き夫の家を継ぐ息子を設けようとすることが美談だったということです。それが社会的習慣で、それに従うのはよいことだった。
 神様は、そのような間違った習慣のなかにいる不完全な人間をも用いて、人類を救おうとされたということではないでしょうか。



 神様の創造の意図に従って、一夫一婦制を守ってきた時代や国は、たぶん世界中捜しても、どの時代を切り取っても、ないでしょう。
 個人的には、一人の妻、一人の夫を生涯守った人はたくさんいると思いますが、社会全体としてみれば逸脱していました。


 アブラハムの時代、妻に子どもが生まれなければ、妻は自分の召使を夫に差し出すのは当たり前の風習だったようです。妻に子どもがいてさえ、妾や側女を持つ人はたくさんいたのです。
 ダビデもソロモンもたくさんの奥さんと側女がいました。小説にも書きましたが、これは、王さまが好色だからだとばかり言えないのです。政治的な駆け引きから、互いの娘や姉妹を相手の王様に贈るのは、当たり前だったのです。日本でも、戦国大名などそのようにして、複数の妻、多数の子どもを持ちました。江戸時代の大名などは、跡継ぎがいないと、将軍家から家を取り潰されたのですから、あと継ぎを生むのは、至上命令でした。

 政治的な必要以外に、好色な男性のために、生活力のない女が身を売る売春も歴史とともに始まったのでしょう。もちろん、みずから、身を売るような淫らな女性もいたかもしれません。
 

 問題は、このような「男女関係」がもたらしたものです。もともと、一夫一婦であるように造られているのですから、二人、三人の妻の間に、葛藤や相克があるのは当たり前です。それに、子どもの問題が絡みます。どの妻の子供も対等な権利というのでは秩序が乱れます。歴史的には、多くの場合、母親の血統、正式な結婚ほどその子供の地位が高かったのです。けれども、生まれてくる子どもにしたら、そんなことは「不公平」です。


 たとえば、日本では、戦前の法律では、嫡出子、庶子、私生児と、戸籍にも区別がありました。嫡出子とは、正式な結婚関係で生まれた子ども、庶子は妾の子ども、私生児は父親の認知のない子どもです。
 これは、戸籍に記され、その差別は、単に家庭内に留まらず、就職、進学、結婚など、人生の重大な岐路で影響したのです。どんなに父親が名門の出でも、本人が優秀でも、庶子や私生児の人生は差別された厳しいものでした。

 
 「サラ・ハガル」関係は、主人である男が、正妻の子どもを跡継ぎと決めることで、社会的に容認され、成立していたとも言えます。


 聖書では、むしろ、ハガルのほうが被害者なのですが、それでも、私たちの中に、ハガルを排斥する気分があるのは、結局、正妻サラ、その子どもイサクに肩入れする思想があるのかもしれません。
 アブラハムの信仰が試される最高の山場、神のご命令に一言も逆らわず、アブラハムが、モリヤの山で、イサクを全焼のいけにえとして神に捧げようとする場面(創世記22章1節〜14節)は、とても感動的でもあります。

 しかし、神様が、ハガルとイシュマエルの二度目の危機的な場面で(創世記21章9節〜19節)、また、ハガルに現れてくださったのは、何を意味するのでしょう。

 ハガルに対する神様のお取り扱いは、とても、意味深い箇所です。


 神様の心は、人の思いよりはるかに高く広いと知らされます。


 
 
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2010年10月07日

Coffee Break45 サラの出産(創世記21章1節〜3節)



 
 聖書を読んでいると、どうしても「ついていけない」と思わされる箇所に出会います。
 クリスチャン用語では、「つまづく」のです。たとえば、創世記に出てくる人たちの並外れた寿命の長さとか(すでにご存知だと思います)。私たちの常識では、承服しがたいことを述べている箇所とか。

 さて、創世記16章で、ハガルはアブラムの子を産みました。これが、神の目からご覧になると、間違ったことであっても、人間の常識に従って起こったことでした。イシュマエルが生まれたとき、 アブラムが八十六歳の高齢であったとしても、認められなくはありません。



 ところが、それから十三年後、アブラム九十九歳のとき、主はアブラムに現れて告げられたのです。



 「わたしは全能の神である。
 あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
 わたしは、わたしの契約を、
 わたしとあなたとの間に立てる。
 わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」(創世記17章1節〜2節)

 「わたしは、この、わたしの契約を
 あなたと結ぶ。
 あなたは多くの国民の父となる。
 あなたの名は、
 もう、アブラムと読んではならない。
 あなたの名はアブラハムとなる。
 わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。」(4節〜5節)


 この時から、アブラムは、アブラハムと呼ばれるようになるのです。

 さらに、主(神)はこのあと、アブラハムとアブラハムの子孫との間に、永遠の契約を立てること。また、カナンの全土を、アブラハムとアブラハムの子孫に永遠の所有地として与えること。だから、アブラハムとアブラハムの子孫は、代々、神との契約を守らなければならないこと。
 そのしるしとして、アブラハムとその子孫、一族の男たちは、しもべに至るまで、割礼を受けなければならないと、仰せられた。(7節〜14節)

 主は、サライの名前も変えてくださるのです。


 また、主はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。(15節)
 わたしは彼女を祝福しよう。たしかに彼女によって、あなたに一人の男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出てくる。」(16節)
 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」
そして、申し上げた。「どうか、イシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」(17節)


 アブラハムが、心の中で神のお言葉に反論したのは、信仰的には良くないことだったでしょうが、人間の常識としては当たり前のことです。

 そして、何より、驚くのは、じっさい、サラは九十歳で男の子を産むのです。
 (神に不可能はないと思っていて全知全能の神の存在をお認めして読み進めている私の、この「不信仰」を神様にお詫びしつつ書いているのですが)、イシュマエルが生まれて、14年目に、アブラハムにもう一人の息子イサクが、正妻サラとの間に生まれるのです。

 待ちに待った子どもでした。

 アブラハムとサラも驚いたでしょうが、だれよりも驚いたのは、ハガルだったかもしれません。
 神の奇跡は、ハガルの運命を変えてしまったのです。



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2010年10月08日

Coffee Break46 井戸を見つけたハガル



 16章でハガルがイシュマエルを生んだとき、アブラムは八十六歳でした。次の17章で、アブラムが九十九歳のとき、主はアブラムに、「サラが男の子を産む」と仰せになって、翌年、イサクがうまれるのです。この十三年間のアブラハム、サラ、ハガルについては、聖書に記録がありません。
 サラにいじめられて、一時的に家出をしたハガルですが、アブラムのもとに帰り、子どもを産みました。その後は、サライとの確執があったとしても、アブラムの一人息子の母親として、アブラハムの家で確固とした地位があったのではないでしょうか。

 サラもある程度、その立場を認めなければいけなかったでしょう。



 ある日の午後、主の使いがマムレの木のそばのアブラハムの天幕を訪れて、
「サラには来年男の子ができている。」と予言したのです。
 うしろの天幕の中で、それを聞いたサラは、笑ったのです。


「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」(18章10節)

 主が、サラの心を見られて、「なぜ、笑うのか。」と咎められたとき、サラは怖しくなって、「私は笑いませんでした。」と打ち消しました。サラ自身が、子どもをもつ可能性など、まったく信じていなかったという描写です。

 ところが、21章でサラは、主の約束どおり、みごもり男の子を産んだのです。イサクの誕生です。
 サラがどんなに誇らしく、喜んだかは、21章の6節7節に書かれています。
 
 自分に子供がいれば、正妻サラにとって、ハガルとイシュマエルは目障りな存在です。なぜ、奴隷女とその息子に我慢しなければならない! そんな気になったのでしょう。

 イサクが乳離れの日の祝宴で、イシュマエルが弟をからかっているのを見たサラは、夫に言ったのです。


「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」(10節)

 サラがイシュマエルとハガルを14年間、いやいやながら受け容れていたのがわかります。我慢できない存在だけれど、自分が子どもを生めないのだから仕方がない! そんなところでしょうか。

 イサクを産み、無事乳離れするまでわが子が育ったのを見たとき、そのような我慢に限界がきたのでしょう。
 イシュマエルがどのようなからかいをしたのかは、書かれていませんが、アブラムは、自分の子のことなので、非常に悩んだ。ところを見ると、何が何でも追放しなければいけないほどの、悪質なものではなかったでしょう。

 ハガルとイシュマエルは、翌朝早く、追い出されるのです。アブラハムが彼らに持たせたのは、パンと水の皮袋だけでした。
 ハガルと子どもは、ペエル・シェバの荒野をさまよい歩くことになります。やがて、パンも水も尽きました。二人は、荒野で、餓死するしかないところまで追い詰められていました。


 皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の潅木の下に投げ出し、(15節)
 自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは、彼女が「私は自分の子どもの死ぬのを見たくない」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして、彼女は声を上げて泣いた。(16節)


 子どもイシュマエルも泣いていたのでしょう。

 神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。(17節)
 行って、あの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」(18節)

 神が、ハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。(19節)


 とても意味深く、感動的な場面です。ハガルの目が開けたとは、じっさいの視力のことではなくて、心の目でしょう。神が母子を気にかけてくださったのを知った時、ハガルの心の目が開かれたのです。神は、かつて、ハガルが荒野をさまよったときにも現れてくださいました。神に信頼してまわりを見回したとき、ハガルは井戸を見つけることができた・・・。(目が開かれると言うことについて、聖書には他にもとても興味深いお話が載っています。列王記U6章8〜18もお読みください)

 この場面は、そのまま、現代の私たちの生き方にも、適用できそうです。


 荒れ野でパンも水も尽きて、もうだめだと力尽きてしまう。その時、神が声を掛けてくださる。目を開いてくださる。
 神の愛は大きく、あなたがクリスチャンでなくても、この愛は体験できるのです。聖書の主役・天地創造の神様は、もちろん、後にイエス・キリストとして、地上に降誕してくださるのですが、その二千年も前に(今から四千年も前にも)、ハガルやイシュマエル、アブラハムやサラに現れてくださったのです。

 図書館の棚に並んでいる自己啓発の本を、たくさん読むより、聖書のこの箇所は、私たちを力づけてくれないでしょうか


 それにしても、そもそも、どうして、神はハガル母子にこんな困難をお与えになったのかと、疑問に思われるでしょうか。
 サライがアブラハムにハガルを勧める前に、サラに子どもが与えられていたら、こんな問題は起きなかったではないか。

 それについては、明日、考えてみたいと思います。




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2010年10月09日

Coffee Break47 イサクをささげる




 アブラハムの人生は、神の選びの人にふさわしく、祝福されたものでした。
 ハランから召し出された出されたアブラムは、財産を増やし、人助けをし、井戸を掘り、祭司に贈り物をする、名実ともに豊かな族長になっていきました。
 百歳になって、九十歳の老いた妻サラから子どもを得たことは、とりわけ、神の祝福の現われだったでしょう。彼の人生は、最後のピースがぴたりとはまったジグソーパズルのように、完成したかに見えました。

 ところが、神には、その後のご計画があったのです。



 ある日、神はアブラハムを呼び出し、「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの山に行きなさい。そして、わたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(22章2節)

 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若いものと息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所に出かけていった。(3節)

 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで言った。
 イサクは父アブラハムに、はなしかけて言った。
 イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」(7節)
 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。(8節)

 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。(9節)
 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。(10節)
 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」(11節)
 御使いは仰せられた。「あなたの手をその子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(12節)



 あまりにも有名な場面です。聖書のこの言葉少ない説明が、かえって緊迫感をかもしだしています。
 「あなたの一番印象に残る聖書名場面はどこですか」と募集したら、たぶん、一位になるのではないでしょうか。ノアの箱舟(創世記6章〜9章)、バベルの塔(創世記11章1節〜9節)も絵になります。出エジプト記の葦の海が割れる場面(出エジプト記14章)、モーセが神から十戒をいただく場面(出エジプト19章〜20章)も、ダビデがゴリアテを倒す場面(第一サムエル記17章)も、エリヤがたつ巻とともに天に上げられる(第二列王記2章11節)のも、印象的ですが、わたしはイサクがほふられる瞬間、み使いが現れてアブラハムをとめるこの箇所を、推薦です。
 あなたも、好きな場面を思い起こしてみてください。
 なお、これは旧約聖書だけで考えています。新約聖書の印象に残る場面となると、言うまでもないと思うのです。


☆ ☆ ☆

 神から、イサクを全焼のいけにえとしてささげるように命じられたアブラハムは、すぐさま実行に移し、モリヤの山に向かうのです。三日間もの行程でした。その間、彼がどのような様子であったのか、何を思っていたのか、一切書かれていません。
 十人もの息子の一人ではありません──もちろん、たくさんいる息子のひとりだとしても、父親としてはたきぎの上で焼き殺せるものではないでしょう。
 神に召し出された日から、二十五年も経って、老いた夫婦からやっと生まれたひとり息子です。もうひとりの息子イシュマエルを追い出しても、跡取りとして残した子どもです。

 アブラハムの心の奥底に耐え難い痛みがあったとしても、アブラハムは、悲しみや煩悶を神に向けることはしませんでした。「私には子どもがいません。」「子孫が星の数のようになると言う証拠を見せてください。」
 かつて、アブラハムは、神の約束に対し、お訊ねしました。それに対し、神に命じられて用意した三頭の動物と、はとの親子を切り裂いて捧げたその犠牲を、神はかまどの火で焼いてアブラムと契約をして下さいました。
 そのようなことが、脳裏を去来していたかもしれませんが、アブラハムは黙々と旅を続け、モリヤの山に着きました。

 アブラハムは、神の言葉を絶対に信頼する信仰で、すべてを超えたのです。自分の子どもと、神の命令を秤にかけるような気持ちは、毛頭なかったのです。
 神が最初アブラハムを召し出されたときから、なんども、顕現してくださって、その神様との交わりの中で、アブラハムの信仰は高められていたのです。自分が百歳、妻が九十歳になってから、イサクが授かったことは、よろこび以上に、神への畏れを彼に植え付けたのです。神に不可能はない!  神は絶対的な権威をもっておられる。


☆ ☆ ☆ 

 アブラハムの信仰を高め、強めるために神はイサクの誕生を遅らせておられたのでしょう。待ち望み、忍耐強く待ち、試練に耐えさせ、そうして、アブラハムの信仰を、鋼のように鍛え上げられたのでした。

 それでも、アブラハムは、もう一度試みられたのです。



 それから、主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、(22章15節)
仰せられた。「これは主のみ告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、(16節)

 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そして、あなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。(17節)

 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(18節)



 アブラハムは、ついに、合格したのです。

 イサクをたきぎから下ろしたアブラムはもちろん、どんなにホッとして嬉しかったでしょう。
 でも、それ以上に、神様はお喜びになったのではないでしょうか。神はすべてをお見通しとは言え、人間の弱さもよくご存知でした。人間はいつも神様を裏切り続けてきたのです。そして、アブラハムもその人間のひとりだったからです。


 ここで、わたしたちはハガルとイシュマエルに現れて生かしてくださった神様を思うのです。アブラハムというひとりの信仰の人を作り上げることは、全人類の救済のために絶対に必要でした。その長いスパンの計画の中で、犠牲となる人間が出ることを、神はご存知だったのです。

 神がハガルとイシュマエルにも大きな祝福を下さったのは、神がなによりも愛の神様であったからでしょう。

 サラがハガルとイシュマイルを追い出してくださいと言ったとき、悩むアブラハムに神が仰せになったことばを思い出します。

「その少年とはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。
 しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子なのだから」(21章12節13節)







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2010年10月10日

Coffee Break48 アブラハムからイサクへ




 サラの一生は百二十七年でした。
 アブラハムはヘテ人から、マムレに面するマクベラある畑地とそのほら穴を買い、サラをその中に葬りました。

 主が、アブラハムをあらゆる面で祝福しておられたので、アブラハムの財産はますます増え、平安で豊かな老後を迎えていました。気がかりは息子イサクの結婚問題だけでした。
 当時の社会習慣から、アブラハムは息子を同じ氏族の娘と結婚させたいと思っていました。つまり、アブラハムの父テラにつながる一族です。

 アブラハムがベエル・シェバに住み着いた頃、アブラハムは親戚の消息を伝え聞きました。
「ミルカもまた、あなたの兄弟ナホルに子どもを産みました。」(22章20節)
 ミルカとはアブラハムのすぐ下の弟、ナホルの妻です。アブラハムは、もともと父テラ、ふたりの弟ナホルとハラン、その一族といっしょに、メソポタミアのカルデアのウルで暮らしていました。そのとき、すでに、下の弟ハランは死んだのですが、息子ロトと娘ミルカを残しました。

 その後、テラの一家は、カルデアのウルから出て、ハラン(アブラムの兄弟ハランと同じ名前)の地に出てきたのです。

 アブラムの父テラが死んだとき、主がアブラムに現れてつぎのように仰せられたのは、すでにご存知のとおりです。。



「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12章1節)

 アブラハムの召命の箇所ですが(Coffee Break34をご覧下さい)、そこでアブラムは、ロト、妻のサライを連れ、同族の者たちと別れてカナンに向けて旅立ったのです。

 系図を見るとアブラハムの弟ナホルとミルカは伯父、姪の関係です。当時はそのような結婚も許されていたのでしょう。日本でも古代には例がないわけではありません。そのナホルとミルカの間にできた八人の息子の一人ベトエルにリベカという娘が生まれたと、伝わってきたわけです。
 ペエル・シェバは、地図で見ると、死海の南端の西側、地中海との中間くらいの位置になります。一方、当時、アブラハムの弟ナホルの一族の住んでいるハランはユーフラテス川の上流、北西メソポタミアの町ですから、アブラハムのいるペエル・シェバからは八百キロほども北に旅する距離でした。それでも、アブラハムは、イサクのために同族の娘をめとりたいと思いました。



 そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手をわたしの腿の下に入れてくれ。(24章2節)
 私はあなたに、天の神地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。(3節)
 あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」(4節)
 
 しもべは彼に言った。「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子をあなたの出身地に連れ戻さなければなりませんか。」
 
 アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこに連れ帰らないように、気を付けなさい。(6節)
 私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える』と約束して仰せられた天の神、主はみ使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。(7節)
 もし、その女があなたについてこようとしないなら、あなたは、この私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。」(8節)


 郵便や電話といった(もちろんEメールなんて!)通信手段がない時代のことですから、ずいぶん、不確かな嫁探しだと、今の私たちには思えます。アブラムハムとしもべとの誓いでは、目的の娘がリベカであると明確には述べられていないのですが、アブラハムの念頭では、甥ベトエル(イサクのいとこ)の娘に当たるリベカは、イサクの嫁の一番候補だったのでしょう。

 しもべは十頭のらくだと、主人のあらゆる貴重な品々をもって出かけました。花嫁になる娘に贈る品々です。とうぜん、何十人ものキャラバンだったでしょうが、神が先導してくださるとの信仰による旅でした。
 主がイサクに、同族の娘を与えてくださるおつもりなら、少々の困難があってもそれは実現する!

 ここでも、アブラハムとしもべたちは、彼らの神、主を信頼したのです。



posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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