2010年10月11日

Coffee Break49 イサクの結婚




 アブラハムは、風の便りに「故郷ハランに弟の孫娘がいて、適齢期らしい」と聞きました。その主人の命を受けて、アブラハムの家の最年長のしもべは、はるばる八百キロの道のりをらくだの編隊を組んで旅に出ることになりました。今なら、新幹線で四時間の道中も、当時は、道も悪く、危険極まりないものだったでしょう。まして、宝物を載せているのですから、同行する者たちは腕っぷしの強い、しかも信頼できる人間でなければなりません。

 いったいどれくらいの時間がかかったのかしら、夜はどこで泊まったのかしらと想像する二十一世紀の読者である私など、ちょっとロマンチックな、うらやましいような旅行を思い浮かべるのです。月の砂漠をはるばると〜♪、子供のころ好きだった歌を思い出します。 


 聖書の物語の要点は、旅の困難やスリルを書くことではないので、創世記24章10節で、出立したしもべとその一行の話は、すぐ、11節で、目的地ナホルの町に到着しています。ナホルの名前が町の名前であることからして、ナホルは有力な族長だったのでしょう。
 夕暮れ時でした。
 日中、炎暑の砂漠地帯では、女たちは朝と夕方の涼しい時間に水を汲みにやってくるのです。

 しもべは町の外の井戸のそばに、らくだを伏させ、もちろん同行してきた者たちを休息させ、神に祈り始めます。


「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。(24章12節)
 ご覧下さい。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。(13節)
 私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」(14節)
 
 こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出てきた。(15節)

 この娘は非常に美しく、処女で、男に触れたことがなかった。彼女は泉に降りて行き、水がめに水を満たし、そして上がって来た。(16節)

 しもべは彼女に会いに走って行き、そして言った。
「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」(17節)
 すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。だんな様」と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。(18節)
 彼に水を飲ませ終わると、彼女は、「あなたのらくだのためにも、それがのみ終わるまで、水を汲んで差し上げましょう」と言った。(19節)


 最初に井戸にやってきた美しい娘リベカは、しもべの期待通りにふるまうではありませんか。
 しもべは固唾を飲んで、リベカを見つめていました。あまりに祈っていたとおりなので、目を疑ったかもしれません。すぐさま、金の飾り輪と腕輪を二つ取って、リベカに差しだし、彼女の父親の名前と、そこに宿泊できるかどうかを訊ねました。
 彼女の答えは、また、しもべの期待した通りでした。


「私はナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です。」(24節)
 そして、言った。「私たちのところには、わらも飼料もたくさんあります。また、お泊りになる場所もあります。」(25節)


 しもべは、またすぐにひざまずいて神に祈りました。

「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」(27節)


 リベカがすぐに家に戻って、しもべのことを告げたので、リベカの兄ラバンが走ってきて応対し、しもべの一行を家に案内しました。
 家にはリベカの両親もいて、しもべは彼らの親族アブラハムの現在の暮らしぶり、豊かな生活、ひとり息子イサクのこと、その花嫁を親族から迎えたいと願う主人の気持ちを、みんなに語りました。
 そして、何より、この花嫁探しの旅に神が同行してくださって、ここまでくることができたのだから、
「それで今、あなたが私の主人に、恵みとまこととを施してくださるのなら、私にそう言ってください。そうでなければ、そうでないと私に言ってください。それによって、私は右か左に向かうことになるでしょう。」(49節)

 ラバンとベトエルは答えて言った。「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。(50章)
 ご覧下さい。リベカはあなたの前にいます。どうぞ、連れて行ってください。主が仰せられたとおり、あなたの主人のご子息の妻となりますように。」(51章)



☆ ☆ ☆

 あらかじめ縁談を打診していたわけでもなく、見合い写真の交換もない時代ですから、このプロポーズと、その結果は、あまりに唐突に感じられるかもしれません。今の時代から見ると、当のリベカを差し置いて兄と父だけで決めて、答えているのも腑に落ちない気がします。


 しかし、これが、神が「主の選びの民の一族」をお造りになる、決定的瞬間でした。

 このリベカとイサクの間の子どもが、エサウとヤコブ、そして、ヤコブが神様からイスラエルと言う名前を賜り、彼の十二人の息子たちが、イスラエル十二氏族の始祖となって、イスラエル民族を形作っていくのです。
 それゆえ、アブラハムを選び出された天地万物を創造された聖書の神は、アブラハム・イサク・ヤコブの神と言われるようになります。その子孫の家庭に、イエス・キリストが降誕されるのです。



 
posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月12日

Coffee Break50 対面



 イサクとリベカの結婚は、今の時代から見ると夢のような物語です。
 まだ、会ったことも見たこともない二人の男女を結び付けようと、たくさんの宝物をもって、はるばる旅する話は、ずいぶん不確かな行動です。花嫁候補ははるか遠いところにいる親類の娘、その娘との縁談をまとめてくるようにと主人に命じられるしもべは、もちろん、それが先方の都合でまとまらない場合は、その任を解かれるとの約束ですが、大任にプレッシャーは感じていたでしょう。
 主人とその息子のために、最高の花嫁を連れて帰りたいと願い、祈りながら旅を続けたのです。
 リベカという名の娘はいたけれど、親が遠くに嫁にやるのに反対だとか、器量がひどく悪いとか、すでに婚約者がいるなんてことがありませんように・・・、仲人をするものは、縁談がまとまればいいのではなく、最高の縁談をまとめたいのです。

 たとえば、コンピュータで、希望にかなった、相性の合う相手を見つけるといった現代風お見合い機関に頼る人でも、最終的な目的は、ただ相手を見つけることではなく、「最良の相手」であることでしょう。

 リベカは、「とても美しく」「機転が利き」「背景になる家族は、アブラハムの親類(テラの一族)で信用が置ける」のですから、今で言えば、容姿、性格、家系のよい信用の出来る娘と言うことになります。
 一方、リベカ側から見ると、やはり、イサクは、親類で、大金持ちで、父親に縁談を委ねるようなまじめな──当時はとくに、親の権威を尊ぶのはとても大切なモラルでした──むこです。


 話は、たちまち、まとまったのですが、リベカの両親と兄は出発まで十日ほど、リベカを手元に置いておきたいと言い出しました。一度別れたら、二度と会えるかわからない距離です。無理もありません。
 一方しもべは、この慶事を一日でも早く主人に報告したいと、気がはやります。
 そこで、一晩歓待を受けると、翌朝、そのことをリベカの両親に告げました。


 しもべは彼らに、「私が遅れないようにしてください。主が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人のところに行けるように私を帰らせてください」と言った。(創世記24章56節)
 彼らは答えた。「娘を呼び寄せて、娘の言うことを聞いてみましょう。」(57節)
 それで彼らはリベカを呼び寄せて、「この人といっしょに行くか」と尋ねた。すると、彼女は、「はい。参ります」と答えた。(58節)
 


 この時、リベカの父親たちが確認したのは、「別れる前に、しばらく親や兄と名残の時間を持つか、それとも、今すぐ出発してもよいか」だったでしょう。

 リベカは、「はい、参ります」と即答しました。この箇所は、クリスチャンには高く評価されています。リベカが親兄弟への心残りと言った個人的な情より、新しい運命を受け容れ、それをすぐに行動に移そうとしたからです。この新しい運命は、「神がお決めになったもの」との前提です。
 リベカは神の意思を悟り、それに従おうとしたのです。

 
 そんなわけで、リベカは乳母と召使を連れ、らくだを仕立て、実家をあとにして、アブラハムのしもべと、ベエル・シェバに向かいます。
 見送るリベカの家族は、祝福します。



   「われらの妹よ。
   あなたは幾千万にもふえるように。
   そして、あなたの子孫は
   敵の門を勝ち取るように。」(60節)



☆ ☆ ☆


 こうして、リベカはアブラハムのしもべといっしょに、ベエル・シェバにやってきました。イサクは、当時、ベエル・シェバの南の方、ネゲブのベエル・ラハイ・ロイで自分の羊を飼っていましたが、そのとき、父親のもとに戻っていました。

 夕方、野に散歩に出かけたイサクがふと目を上げ、見ると、らくだが近づいてくるのが見えました。
 そのとき、リベカの目にもイサクの姿が映ったのです。


 リベカはすぐ、らくだから降り、しもべに尋ねた。
「野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人は誰ですか。」 しもべは答えた。
「あの方が私の主人です。」
 そこでリベカはベールを取って身をおおった。(65節)


 ここも、とても想像力をかき立てる美しい場面ではないでしょうか。
 夕暮れ時です。長い旅を終えたしもべとリベカの一行が、残照の残る野原に姿を現したのです。父から、結婚相手がまもなく戻ってくるはずだと聞かされていたイサクは、待ちきれなくて野原を見に行っていたのかもしれません。 

 一方、はるばると砂漠や荒野を越えて、まだ見ぬ人と暮らすために見知らぬ土地にやってきた若い娘──今と違って、十代半ばが結婚適齢期だった時代です──、リベカも、野原に男の姿を見て、それが結婚相手のイサクだと知り、息を飲むほど緊張したでしょう。。
 イサクを見て、ベールで顔も体もおおうその仕草から、彼女の恥じらいと期待と決意が見て取れます。


 しもべは自分がしてきたことを残らずイサクに告げた。(66節)
 イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは母のなきあと、慰めを得た。(67節)


 リベカとイサクの対面、イサクがリベカを母サラのテントにいざなう様子までが、この聖書箇所で浮かび上がってきて、これ以上、解説の入る余地がありません。どこかおとぎ話の中の王子様とお姫様のラブストーリーのエンデングのようでいて、じっさいに、深い安堵と祝福の気持ちを覚えるのは、私だけでしょうか。

 もっとも、この清純なリベカが、じっさいに結婚生活を始め母となったとき、思いがけないどろどろした一面を見せるのですが。




 
 
posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月13日

Coffee Break51 選びの民の家族史




 アブラハムは多少の危険を冒しても、徒労になっても、自分の父親テラにつながる親類の娘を、息子と結婚させようと思いました。彼が、しもべをはるばるハランに送り出して、一族の娘を迎えに行かせたのはなぜでしょう。
 アブラハムが住むカナン地方にも、捜せば美しい娘がいたはずです。金持の家の娘も性格の良い娘もいたでしょう。
 
  アブラハムがこだわったのは、彼に現れ、導き続けてくださった主(神)の言葉が、心に焼きついていたからではないでしょうか。

 神は、初めてアブラハムに現れて、ハランから召し出されたとき、仰せられました。


 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
 わたしが示す地へ行きなさい。(創世記12章1節)
 
 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
 あなたを祝福し、
 あなたの名を大いなるものとしよう。
 あなたの名は祝福となる。(2章)


 最初、カナンに入り、そこに先住民がいるのを見て戸惑うアブラハムに、また主は顕現され、仰せになったのです。

あなたの子孫に、わたしは、この地を与える。」(7節)

 そして、ロトに良い地を取らせ、別れて住むようになった後は、次のような言葉を下さいました。

「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。(13章14節)
わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫に、与えよう。(15節)
わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし、人が地のちりを数えることが出来れば、あなたの子孫をも数えることができよう。(16節)」



 四度目の神の祝福のことばも、同じ意味で、有名な箇所です。

 主は、彼(アブラハム)を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」(15章5節)


☆ ☆ ☆


 エジプト脱出以前のイスラエルの歴史は、聖書に描かれているとおり、ひとつの家族史である。

 P・カイル・マッカーター(聖書およびオリエント研究の学者)は、「最新・古代イスラエル史、族長時代──アブラハム、イサク、ヤコブ」(株式会社ミルトス発行、池田裕、有島七郎訳)の項の冒頭に書いています。
 学者であるマッカーターは、「聖書の中のアブラハム・ヤコブ・イサクの歴史の記述は、聖書外資料の裏づけがない。記述に対応する文書、考古学的・歴史資料はほとんどない」から、これは、アブラハムを始祖とする、ひとつの家族史であると論旨を展開しています。


 この本は、古代イスラエルの社会と歴史を、できるかぎり学術的、客観的、考古学的にも納得できる「事実」を検証し、述べようとしています。アブラハムの時代から、第二神殿崩壊までの、古代イスラエルの歴史を八項目に分け、それぞれの専門家が論説しています。旧約聖書を読む場合、古代イスラエルの様子や歴史的事実のアウトラインを知ることは、聖書の世界をよりリアルなものにしてくれます。この本は、聖書を読む私には、なかなか参考になりました。

 マッカーターの論旨は、聖書の記述と齟齬をもたらすものでもありません。この時代のこの物語で、聖書記者が伝えたかったのは、最初から、当時のカナン地方の歴史、またイスラエル国家の歴史的社会的萌芽などではなかったでしょう。のちに、民族と呼ばれるほどに数を増やし、エジプトから脱出して、カナンに移住し、やがてイスラエル王国となる「神の選びの民」、その創成を記録することだったからです。
 しかも、その創成は、人間側の営みとしてではなく、神が選んで造って行かれるという「視点」に意味があったのです。

 何度にもわたる、神の顕現から、アブラハムは自分を選ばれた神のご計画を知り、自分の信仰をより高めていったのです。彼は、自分がたくさんの子や孫に囲まれて「めでたい」と思う世俗的な家長ではありませんでした。容赦なくイシュマエルを退け、サラの死んだあとにめとった妻、妾とのあいだに生まれた子どもたちも、財産をもたせて遠くへ行かせました。
 
 アブラハムの家を、まっすぐ太い枝にするために、神は脇に伸びようとする野放図な「成長」を、刈り込む必要があったのです。
 イスラエル民族がそのようにして造られことは、のちにイスラエル民族が偶像礼拝に陥り、国家存亡の危機にあったときの、預言者たちの預言にも現れています。



 わたしは、あなたをことごとく
 順良種の良いぶどうとして植えたのに、
 どうしてあなたは、わたしにとって、
 質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。(エレミヤ2章21節)


 そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ。
 さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。
 なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、
 酸いぶどうができたのか。(イザヤ5章3節)



 神にとっては、アブラハムの家系と関係なく生まれてくる人々も愛の対象であるはずです。しかし、この時点では、神は、真の神を忘れてしまった当時の大多数の人の中にあって、ご自分への真の信仰のある家族を造り、いずれは全人類をご自分のもとに連れ帰ることのできる「救いの器となる民」の形成を、実行しておられました。アブラハムは選ばれた自分の責任として、自分の息子の嫁も同じ根から出たものでなければいけないと、神の御心をくみ取ったのでしょう。



☆ ☆ ☆


 結婚したとき、イサクは四十歳でした。
 さいわい、父親の選んだ妻は、彼を幸せにしました。祝福され、愛し合い、順調に滑り出した結婚生活。しかし、いくつかの陰がありました。リベカもまた不妊の女でした。イサクが祈願して、やっと子どもが授かったとき、イサクは六十歳でした。

 二十年めに授かった子どもは、双子の男の子、エサウとヤコブでした。ここで、神はふたりのうち、どちらかを刈り込まれることになるのです。

 マッカーターは、この物語を、アブラハム・イサク・ヤコブから、その子ヨセフとイスラエル十二部族にいたる「家族史」と位置づけました。けれども、聖書の主役・神からの霊感を受けてこれを書いた聖書記者は、「神の選びの民の家族史」とタイトルを付けたかったのではないでしょうか。





     ここでは、聖書のことばは、すべて新改訳聖書から引用しています。
     
     聖書を通読をしてみようと思われる方は、このブログのリンク
     「佐々木先生のサイト、聖書を読むぞー」をご覧下さい。
     分厚く難解な聖書をわかりやすく解説してくださっています。
     また、キリスト教の学びに関心のある方は、「ペンテコステ宣教学・
     やさしい神の国講座」を開いてください。
     自分の学びを確認できるやさしいテストもついた、学びのテキスト
     です。







posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月14日

Coffee Break52 長子の権利



 アブラハムの一生は百七十五年であった。(創世記25章7節)
 アブラハムは平安な老後を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。(八節)
 彼の子らイサクとイシュマエルは、彼をマクベラのほら穴に葬った。このほら穴は、マムレに面するヘテ人ツォハルの子エフロンの畑地の中にあった。(9節)
 この畑地はアブラハムがヘテ人たちから買ったもので、そこにアブラハムとサラが葬られたのである。(10節)
 アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。イサクはベエル・ラハイ・ロイの近くに住みついた。(11節)


 アブラハムは長寿を全うして、(たぶん老衰で)息を引き取りました。日本の一昔前の言葉を借りるなら、「大往生」を果たしたのです。それから、先に妻サラが葬られた墓に入りました。長生きして夫婦が同じ墓に入るのが幸せな夫婦の理想であるのは、どの国、どの時代にあっても同じようです。

 イサクはアブラハムの百歳のときの子どもですから、父親が亡くなったとき、すでに七十五歳だったことになります。
 イサク六十歳でもうけた双子の息子、エサウとヤコブは、十五歳でした。もう充分に、アブラハムの家が、「神の選びの民の一族」であることは理解できる年でした。


 しかし、エサウはそれをあまり気にかけていませんでした。一方、ヤコブは、兄の「長子の権利」が欲しくて欲しくてたまりません。
 それは、ふたりの資質の違い、仕事の違い、それに、彼らの両親の子どもたちへの接し方の違いからきたものでした。




 この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。(27章)
 イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。(28章)


 天幕で母の仕事の手伝いをすることが多かったヤコブを、母リベカは可愛がりました。ヤコブのほうも、兄が父のお気に入りなので、母親に依存するようになったのでしょうか。
 「長子の権利」(家の伝統や家長としての采配もふくめて、家督を相続する権利)は、長男が引き継ぐものとの考え方からすれば、それはエサウのものでした。けれども、リベカは、自分が愛する「可愛いヤコブ」に継がせたいと思っていたのでしょう。すると、母のその気持ちは、当然、ヤコブに伝わります。

 そのチャンスが来たとき、ヤコブは抜け目なく、兄からその権利を買取ったのです。



 さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。(29節)
 エサウはヤコブに言った。「どうかその赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。(30節)
 するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい」と言った。(31節)
 エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう」と言った。(32節)
 それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼は長子の権利をヤコブに売った。(33節)



 ヤコブは、こうして兄の弱さにつけ込んで、兄から長子の権利を手に入れました。

 これは、ヤコブが、神に対して罪を犯したことになるのでしょうか。

 相手の弱みに付け込んで、強引に自分に有利な取引をする、それは──人間の社会ではよくあることですが──あまりフェアだとは思われません。
 でも、神様の見方は少し違うようです。



 ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。(34節)


 長子の権利など、だれが引き継いでも同じ、とはならないのです。
34節の言葉(みことば)から、私たちは、神様から与えられたものを重く見ないことこそ、罪なのだと、改めて教えられるのです。





posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月15日

Coffee Break53 リベカのたくらみ




 アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。イサクはベエル・ラハイ・ロイの近くに住み着いた。(創世記25章11節)



 イサクの生涯は、おおむね平穏でした。リベカが不妊の妻だったので、子どもの誕生を祈願し、二十年間待つことになりましたが、六十歳でふたごの兄弟エサウとヤコブを与えられました。リベカはまだ、妊娠の可能性がある年齢でした。父アブラハムが百歳、母サラが九十才で子供が授かったのに比べれば、忍耐の質も長さもけた違いです。

 しかし、イサクの生涯の大きな「かげ」は、このふたり息子の確執にあったと言っても過言ではありません。
 リベカのお腹にいるときから、ふたりはぶつかり合っていたと、聖書は記しています。
 リベカはそれを心配し、神にみこころを求めに行きました。


 すると、主が仰せられた。
  「二つの国があなたの胎内にあり、
   二つの国民があなたから分かれ出る。
   一つの国民は他の国民より強く、
   兄が弟に仕える。」       (23節)
 出産の時が満ちると、見よ。ふたごが胎内にいた。(24節)
 最初に出てきた子は赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。(25節)
 そのあとで弟が出てきたが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで、その子をヤコブと名づけた。(26節)



 二卵性双生児でしょうか。まるで外見の違うこのふたりは、長ずるにつれ水と油のようにますます性質が違ってきて、対立していきました。

 前回述べたように、それには、イサクとリベカの息子たちに対する態度も影響しています。イサクは猟師になったエサウを愛し、リベカは天幕で、いつも母のそばにいるヤコブをかわいがりました。
 

 さて、兄エサウの弱みに付け込んで、長子の権利を売らせたヤコブでしたが、長子の権利は、ふたりの間のただ一回の口約束で決まるほど、軽いものではありませんでした。

 
 イサクは年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったとき、長男のエサウを呼び寄せて彼に「息子よ」と言った。すると、彼は、「はい。ここにいます」と答えた。(27章1節)
 イサクは言った。「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬかわからない。(2節)
 だから今、お前の道具の矢筒と弓を取って、野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。(3節)
 そして、私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に、私自身が、お前を祝福できるために。」(4節)




 長子の権利を現実のものとするためには、父親から、直接、確約の祝福をしてもらわなければなりません。

 イサクはとうぜんそれを長男のエサウに与えるつもりで、彼を呼んだのです。
 ところが、これを聞いていたリベカがヤコブをそそのかしました。


 ヤコブを呼ぶと、「群れ(飼育している羊ややぎの群れ)のところに行き、最上の子山羊二頭を採って来なさい。それで、私が父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。」(9節)

 それを、ヤコブが父のところに運んで、食べてもらい、同時に死ぬ前に祝福をしてもらいなさい。と言うわけです。

 母のこのたくらみに、いくら父の祝福が欲しいヤコブでもためらいました。

「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。(11節)
 もしや、父上が私にさわるなら、私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう。」(12節)


 リベカは答えます。

「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ、私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」(13節)
 それでヤコブは行って、取って、母のところに来た。母は父の好むおいしい料理をこしらえた。(14節)
 それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった兄エサウの晴れ着を取って来て、それを弟ヤコブに着せてやり、(15節)
 また、子やぎの毛皮を、彼の手と首のなめらかなところにかぶせてやった。(16節)
 そうして、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブに渡した。(17節)




 ヤコブは、母の差し金どおり、エサウのふりをして父親の枕元に行くのです。
 リベカは、自分が愛している弟息子になんとしてもアブラハム・イサクの家を継がせたいと思っていました。先にヤコブは、口約束ですが、兄から長子の権利を買取っていました。ですから、残りの半分の手続きである「父親からの祝福」も、取りさえすれば、ヤコブは跡継ぎになるのです。
 けれども、これをヤコブに与えるのは、当たり前の方法では無理でした。イサクはエサウに祝福を与えるつもりだからです。

 父の権威を恐れて弱気のヤコブに対し、リベカは夫をだますたくらみを編み出し、息子の尻を叩きます。獣の料理と見まがうようなおいしい肉料理を作り、エサウの臭いのついた晴れ着をヤコブに着せ、その上、肌の滑らかなヤコブを偽るために子やぎの毛皮で手や首を覆ってやるのです。
 「さあ、何が何でも祝福をいただいてくるのよ。のろいがあるなら、私が受けるから」と、言うわけです。

 それにしても、なんと言う母親なのでしょう。エサウもまた、自分の子どもなのです。
 そのような母親の言いなりに行動するヤコブに、正義は、あるのでしょうか。
 
 ヤコブは、とにかく、成功するのです。
 こうして、四千年の後までも、ヤコブはマザコンだと言われることになるのですが。






posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月16日

Coffee Break54 サスペンス




 人間はだれでもナマの自分をいつわります。感じるまま、思いつくまま態度に表し、言葉に出して、行動していては、半日も生きてはいけないでしょう。幼児はそのように行動し、意思表示するので、親や保育者は目が放せないのです。
 だんだん、自分の衝動や欲求をコントロールすることを学んでいくのが、大人になるということかもしれません。相手が、単に信号機のついた「横断歩道」であっても、家族や友達であっても、不要に衝突をしない。それが大人の態度です。
 ところが、衝動や欲求自体は消えるわけではありません。手なずけ飼い馴らし、ふだんは檻にでも閉じ込めているのですが、じつは、宿主(本人)の成長と同じように成長しているのです。

 小さな子どもの、ケーキ一切れ余分に欲しいと言った欲求とは違い、おとなの心の中の怪物は「困ったさん」なのです。自分でその怪物を絞め殺してしまえればいいのですがそうも行きません。それは自分自身でもあるからです。
 その「困ったさん」をたしなめる人がいると、まだ、良いかもしれません。「困ったさん」をほかの姿に変えてしまうのも方法です。別の欲求に昇華する、別の方向に転進することです。

 たとえば、クリスチャンは、イエス様にすべてを委ねて自分を変えていただこうと思っているわけです。──なかなか、一直線にできることではありませんが、自分の力ではできないのはわかっていますので、神さまであるイエス様にお願いしようとするのです。



 あるとき、「困ったさん」の同調者が現れます。
 「『困ったさん』は別に、『困った』じゃないわよ。正当な要求よ。さあ、要求を実現しましょう!」
 そんなふうに励まされたら、この誘惑を退けるのはよほどの意志でも無理です。
 
 自分が、おもしろくないと思っている人の悪口を誰かから聞いたら、心の中で手を打つ衝動をおさえるのはむずかしいでしょう。なんとなく、心に屈託があり、今夜、まっすぐ帰りたくないなと思っているところを誘われれば、じつは、帰宅してやらなければならないことがあっても、ショッピングや食事、お酒になる人もいるでしょう。

 
 リベカは、ヤコブの「同調者」でした。ヤコブがリベカの「同調者だった」のでしょうか。アブラハムのしもべが初めて、泉のそばで会ったときの清純な処女、美しく、機転が聞き、アブラハムの家につながる娘リベカ。リベカが砂漠をはるばると横切って、イサクに嫁いできたときのイメージはどこへ行ってしまったのでしょう。

 リベカがヤコブをエサウより可愛く思ってことは仕方がないかもしれません。「どの子も可愛い」と、親は言うのですが、現実は、「親に可愛がられなかった」「お姉ちゃんの方が可愛がられていた」などという思いが、多くの人の心に残っているのです。
 可愛いヤコブに祝福をもらってやりたい、そう思うのも許容範囲でしょうか。夫をせっついて、実現するよう心を砕くのも、まあリーズナブルです。
 しかし、そのために、たくらみ、それを実行すれば、ただ事ではすまなくなります。


 創世記27章17節です。母の作ってくれた肉料理をもち、兄エサウの服を身につけ、毛皮で首や腕を毛深く偽装して、ヤコブは父の枕元に行きます。 ヤコブは父のところに行き、「お父さん」と言った。イサクは、「おお、わが子よ。だれだね。おまえは」と尋ねた。

 ヤコブはこの父の言葉に、心臓がドキンとしたことでしょう。イサクは、息子の声だとわかったけれど、「はて?」、と思ったのでしょう。ご馳走の臭いもするし、獣を仕留めて料理を持ってくるのはエサウのはずですが、声はヤコブでした。
 もう、ここまで来ては、ヤコブも引き返せません。
 そこで、


「私は長男のエサウです。私はあなたが言われたとおりにしました。さあ、起きて座り、私の獲物を召し上がってください。ご自身で私を祝福してくださるために」と答えた。(19節)
 イサクはその子に言った。「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」 すると、彼は答えた。「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」(20節)
 そこでイサクはヤコブに言った。「近くに寄ってくれ。わが子よ。私は、おまえがほんとうにわが子エサウであるかどうか、おまえに触ってみたい。」(21節)
 ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」(22節)
 ヤコブの手が兄エサウの手のように毛深かったので、イサクには見分けがつかなかった。それで、イサクは彼を祝福しようとしたが、(23節)
「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね」と尋ねた。すると答えた。「私です。」(24節)


 すっかり老いて目も見えなくなったイサクですが、簡単には騙されません。生まれたときから見てきたわが子ふたりの違いは本能的にわかります。獲物を仕留めて戻ってきて料理したにしては早すぎると時間の感覚もあります。
 戸惑う父を見て、ヤコブはどんな思いだったでしょう。良心が咎めなかったのでしょうか。父を騙してすまない、兄に悪いことをしているとは、思わなかったのでしょうか。
 早鐘のように高鳴る心臓の鼓動が、父に聞こえませんように、ただ、一分でも早く、この場を首尾よくやり遂げられますようにと、それだけで頭がいっぱいだったのでしょうか。
 
 兄のエサウがそろそろ帰ってくる時間だし、もし、ここでしくじったら、せっかくの母さんの苦心も水の泡になる。



 そこでイサクは言った。「私のところにもってきなさい。私自身がおまえを祝福するために、わが子の獲物を食べたいものだ。」 そこでヤコブが持ってくると、イサクはそれを食べた。また、ぶどう酒を持ってくると、それも飲んだ。(25節)
 父イサクはヤコブに、「わが子よ。近寄って私に口づけしてくれ」と言ったので、(26節)
 ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクはヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った。
   「ああ、わが子のかおり。
   主が祝福された野のかおりのようだ。  (27節)
   神がおまえに
   天の露と地の肥沃、
   豊かな穀物と新しいぶどう酒を
   お与えになるように。         (28節)
   国々の民はおまえに仕え、
   国民はおまえを伏し拝み、
   おまえは兄弟たちの主となり、
   おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。
   おまえをのろう者はのろわれ、
   おまえを祝福するものは祝福されるように。」(29節)

   
 イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くか行かないうちに、兄のエサウが猟から帰って来た。        (30節)




 この27章は、すごいサスペンスです。読み応えのある分厚いサスペンスストーリ一冊より重いものを、ずっしりと読む者に残します。余計な心理描写も場面描写もいっさい省いて、この短い字数に、「困ったさん」が、「彼(彼女)の同調者」の命じるまま悪を行なう緊張と恐怖が描ききれているのに、ただ、感心します。
  

 しかも、この話は、まだ、途中です。




 
 

posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月17日

Coffee Break55 逃亡




 ヤコブが兄エサウになりすまして、父イサクから祝福を受け終わるや、兄のエサウが父のもとにやってきます。
 母と弟の悪たくらみなど何も知らないエサウは、自分の仕留めた野生の獣の肉を料理してもってきたのです。彼はどんなに誇らしく張り切っていたでしょう。野山に入って猟をするのは、今の私たちには想像もできない激しい仕事だったでしょう。当時は、山々はほとんど原生林のままで、道らしい道もなかったでしょう。人間より優れたとくべつな聴覚や嗅覚や俊足の動物を追うために、エサウはまた、素晴らしいアスリートだったにちがいありません。

 かつて、猟でくたくたになり、弟に一杯のスープをねだって長子の権利を売り渡してしまったエサウでしたが、この日は期するものがあったでしょう。
 父親から祝福を受けるのが、アブラハム・イサクの家を継ぐ者にとってどれほど重要な行事であるかの自覚はありました。いつも以上に野山を駆け回って、最上の獲物を仕留め料理して父に差し出したのです。


 彼もまたおいしい料理をこしらえて、父のところに持ってきた。そして父に言った。「お父さんは起きて子どもの獲物を召し上がることができます。あなたご自身が私を祝福してくださるために。」(創世記27勝31節)


 たった今、あとつぎのエサウを祝福し終えたと思っていたイサクはどんなに驚いたことでしょう。
「おまえはだれだ。」と尋ねます。
 エサウが「あなたの長男エサウです」と答えると、激しく身震いして言うのです。


「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、わたしはみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」(33節)
エサウは父の言葉を聞くと、大声で泣き叫び、ひどく痛み悲しんで父に言った。「私を、お父さん、私をも祝福してください。」(34節)
父は言った。「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえの祝福を横取りしてしまったのだ。」(35節)
エサウは言った。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって、私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」 また言った。「あなたは私のために祝福を残しておかれなかったのですか。」(36節)
イサクは答えて言った。「ああ、私は彼をおまえの主とし、彼のすべての兄弟を、しもべとして彼に与えた。また穀物と新しいぶどう酒で彼を養うようにした。それで、わが子よ。おまえのために、私はいったい何ができようか。」(37節)
エサウは父に言った。「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」エサウは声を上げて泣いた。



 エサウはもう半狂乱だったでしょう。無理もありません。あまりに思いがけないことだったからです。祝福は一つしかないことはわかっていたでしょうから、自分をも祝福してくれとすがりつくのは、取り乱していた証拠とも言えます。
 父イサクも何とかしてやりたいと思ったかもしれません。しかし、長子の権利そのものは神様からゆだねられたものです。神様の代わりに親として祝福したのですから、間違いを認めて簡単に訂正するというわけにはいかないのです。
 イサクは、息子を諭しにかかります。


 見よ。おまえの住む所では、
 地は肥えることなく、
 上から天の露もない。        (39節)
 おまえはおのれの剣によって生き、  
 おまえの弟に仕えることになる。
 おまえが奮い立つならば、
 おまえは彼のくびきを
 自分の首から解き捨てるであろう。」 (40節)


 エサウよ。お前の人生はきびしいものとなる。人生を剣で闘いとるように、闘って生きて行かなければならない。弟に従うことになるが、奮い立って自由を得るようにせよ。 
 
 エサウはとうぜん弟を恨みました。身近にいたものに、「父が死んだら、ヤコブを殺してやる」と洩らしました。
 これが、母リベカの耳に入りました。リベカはあくまでヤコブの味方です。さっそくヤコブを呼び寄せて、自分の実家、ハランにいる兄ラバンのところに逃げるように言います。
 その上で、夫のイサクに泣きつきます。


「わたしはヘテ人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブが、この地の娘たちで、このようなヘテ人の娘たちのうちから妻を娶ったら、私は何のために生きることになるのでしょう。」(46節)

 ヘテ人とは、カナンに住んでいた部族のひとつでヒッタイト人のことです。エサウはこの時ヘテ人の娘と結婚していたのです。その嫁が気に入らない。ヤコブまで地元のヘテ人と結婚するようなことがあったら、私は生きていないほうがましです、と言うわけです。

 イサクは妻の愚痴を、素直に言葉どおり受け取りました。
 ヤコブを呼び寄せ、命じました。


「カナンの娘たちの中から妻をめとってはならない。
 さあ、立って。バダン・アラムのお前の母の父ベトエルの家に行き、そこで母の兄ラバンの娘たちの中から妻をめとりなさい」(28章1節)


 そののち、イサクはヤコブの旅立ちを祝福し、送り出したのです。

 こうして、父と母とに別れをつげ、家をあとにしたヤコブですが、その実、兄エサウを恐れての、逃亡でした。
 
 兄エサウのかかとをつかんで生まれてきたヤコブは、「押しのけるもの」という意味のヤコブという名前がついていました。その名のとおり、あくの強い性格でした。こうして、兄を押しのけたヤコブが「神の選びの家族」を引き継ぐのです。全人類を救いに入れるための民族の形成は、単純な道ではなかったのです。



posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月18日

Coffee Break56 ベテル




 ヤコブは父から祝福を受け、母に見送られて家を出発しました。行き先は母の実家、伯父ラバンのいるハランです。ちなみに、父イサクは、この旅を、ヤコブが伯父の娘たちと結婚するためだと思っているのです。
 これは、昔、祖父アブラハムのしもべが、イサクの妻、ヤコブの母になるリベカを迎えに行くため通ったコースだと思われます。ただ、旅の内容はまるで違うものだったでしょう。しもべは、アブラハムからたくさんのらくだ、使用人、それに貴重な品々を託されていました。必要を賄う金や銀も充分持っていたでしょう。砂漠や荒野の旅は、困難が多いとはいえ、お金と人手が十分にあれば、買える物もあります。先触れに召使を走らせて土地の有力者や、天幕を持って放牧をしている族長にあいさつできれば、宿泊や安全で、便宜を計ってもらえたでしょう。

 ヤコブの旅は違います。彼は兄から逃げなければなりませんでした。大勢で堂々とキャラバンを組んで行ける旅ではなかったのです。うっかり、知り合いの所に立ち寄ったりしたら、エサウの手がまわっているかもしれません。
 彼は独力で、荒野から荒野を歩くような旅をしたことでしょう。うしろ暗いことをすれば、堂々と振舞えないのはとうぜんです。

 兄エサウは野生の動物を追い回して仕留める猟師でした。たくましいアスリートだったのです。一方、ヤコブは、天幕にいて母の手伝いをしていました。きびしい荒野の旅に耐えるだけの体力はあったのでしょうか。強い日差しや喉の渇きや、野獣の危険を思う度に、心細く思われ、父をだまし、兄から祝福を奪ったことを後悔したかもしれません。


 あるところに着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はそのところの石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。(創世記28章11節)
 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ。神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。(12節)
 

 そこで、主(神)が彼の枕元に顕現されました。主は、彼を祝福して仰せられたのです。 

「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。(13節)
 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。(14節)
 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしはあなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(15節)
 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。(16節)
 彼はおそれおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ、神の家にほかならない。ここは天の門だ。」(17節)



 ヤコブは夢を見たのです。神が夢の中に現れてくださったのです。この体験は、アブラハムがしばしば、直接、神の声を聞き、また神にお答えした状況とは違います。
 しかし、心細い旅の道中、ときに後悔のほぞをかむような野宿のときに、神が現れてくださったことに、ヤコブは力づけられました。
 ヤコブの肉体は、兄と比べて華奢だったかもしれませんが、精神はなかなかしたたかな強い人でした。母の愛を独り占めして、その上、長子の権利も手に入れて、結局、兄から逃げ出すことになって、そのような中でも、自分の益になるものは見逃さない人です。
 
 夢を「なあんだ。夢か」と馬鹿にしないで、たとえ、夢の中でも、「天のはしごを見た」「神様が現れてくださった」「祝福の言葉をいただいた」「ここは神の家だ。自分は神の家に寝ていたのだ」 そう思い、励まされ、力を得る人でした。

 翌朝、ヤコブは自分が枕にしていた石を、寝ていた場所に立てました。神の家の目印です。その石に油(オリーブ油)を注いで(油は、当時、旅の必需品でした)、その場所の名をベテル(神様の家)と名づけました。
 それから、彼は祈って誓います。



「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、(20節)
 無事に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、(21節)
 石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。」(22節)
 


 ヤコブのこの祈りが条件つきになっているのを、あまり評価しないという意見を聞いたことがあります。そうかもしれません。しかし、聖書に見るかぎり、ここはヤコブが神に礼拝をする初めての箇所です。(じっさいには、彼は子どものときから、アブラハム・イサクの神への礼拝を、家族とともに行なっていたでしょう)

 アブラハムの家に生まれても、ヤコブは心の欲求の命じるまま、母といっしょになって父をだまし、兄の貰うものを奪うような人間でした。その彼に、夢の中とは言え、神が現れてくださったのです。その夢のできごとを、ヤコブは現実の礼拝に変え、誓願を立てました。一見、神の御心とは程遠いように見えるヤコブですが、神が、どれほど大きな方か、畏れ敬うべき方か、自分たち人間の運命の全権を握っておられる方か、と言うことを知っていたのです。そして、一夜の体験を、自分の人生の、エポックメイキングと感じることのできるその力を、神は評価されたのです。
のちに、ヤコブはイスラエルと言う名前を、神様から頂くことになるのですから。



posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月19日

Coffee Break57 恋・結婚




 主がヤコブを守ってくださったのでしょう。ヤコブは、無事伯父ラバンの暮らすハランに到着するのです。
 アブラハムのしもべが最初、村はずれの井戸のそばに立ったように、ヤコブも井戸のそばに到着しました。まだ日が高い時間でした。まわりには羊の群れが三つほど伏して休息していました。羊に水を飲ませる時間も決まっていました。井戸の口は、いつもな大きな石でふさがれていて、井戸を使うときはそれを取り除くのです。ですから、水を飲ませるのは、羊飼いたちの共同作業だったのでしょう。
 ヤコブは羊飼いたちに、どこから来たのか聞きました。「ハランの者だ」と答えが返ってきます。「ラバンをご存知ですか」「知っています」、そんなやり取りの中で、伯父が元気であることも知ります。
 羊飼いたちは、近づいてくる娘と羊の群れを指して、「ラバンの娘ですよ」とヤコブに教えます。当時、羊飼いのなかには、若い女性もいたのでしょう。少し時代は下りますが、モーセが最初エジプトから逃げてミディアンの地に着いた時、羊を飼っている娘たちが荒くれ男たちから嫌がらせを受けているのを助けて、その結果、その娘たちの一人と結婚することになるのです。(出エジプト2章16節17節)

 ヤコブはラケルに走りより、ラケルのために井戸の石を転がして、ラバンの羊に水を飲ませます。それから、ラケルに口付けし、声を上げて泣く(29章11節)のです。また、自分はリベカの息子であると自己紹介をします。ラケルはすぐに走り帰り、ヤコブのことを父ラバンに知らせます。


 ラバンは妹の子ヤコブのことを聞くとすぐ、彼を迎えに走って行き、彼を抱いて口づけした。そして、彼を自分の家に連れてきた。ヤコブはラバンに、事の次第をすべて話した。(創世記29章13節)
 ラバンは彼に、「あなたはほんとうに私の骨肉です」と言った。こうしてヤコブは彼のところに一ヶ月滞在した。(14節)


 一ヶ月ほど経ったとき、ラバンは言いました。

「あなたが私の親類だからと言って、ただで私に仕えることもなかろう。どういう報酬がほしいか、言ってください。」(13節)


 もともと気働きがあり、意欲的なヤコブですから、いろいろ手伝いをしているうちに伯父の気に入り、責任のある仕事を持たせようと思ってもらえるようになったのでしょう。
 ラバンには、ラケルと彼女の姉レアの二人の娘がいました。ヤコブはラケルを好きになっていました。たぶん、井戸のそばで初めて彼女の姿を見たときに、恋に落ちたのです。
 レアの目は弱々しかったが、ラケルは姿も顔立ちも美しかった。(17節)と書かれています。
 それで、ヤコブは、「あなたの下の娘ラケルのために、七年間働きましょう」と申し出るのです。
 ラバンも、「娘を他人にやるよりは、あなたに上げるほうが良い。私のところにとどまっていなさい」と言います。

 七年間の無償の労働、それは、ラケルの花嫁料でしたから、ヤコブは懸命に働きました。
 彼女を愛していたので、それもほんの数日のように(20節)思われたのです。


 七年目が終わったとき、
 ヤコブはラバンに申し出た。私の妻を下さい。期間も満了したのですから。私は彼女のところに入りたいのです。」(21節)
 そこでラバンは、そのところの人々をみな集めて祝宴を催した。(22節)



 伯父の娘、美しい従姉妹ラケルといよいよ結婚することになりました。ヤコブの労働は報われ、はじめは逃亡者であった生活にも根が張り、芽が出て順調に伸びるかと思われました。

 ところが、婚礼の夜、伯父ラバンは姉娘レアをヤコブのところに送りました。朝になって見ると、相手はラケルではなくレアだったのです。この箇所は現代の私たちにはふしぎに思えます。ふたりが一夜を明かす天幕は、ほとんど真っ暗だったのでしょうか。その上、レアは父ラバンから口を聞かないよう言い含められていたのかもしれません。
 ヤコブは伯父に抗議しました。
 伯父は、「われわれのところでは、長女より先に妹を嫁がせるようなことはしないのです。」(26節)と言いました。
 この婚礼の週をレアと過ごせば、一週間後にはラケルをも与えようと言うのです。
 それで、ヤコブはラケルのためにもう七年間、働く約束をしました。
 ほとんど、同時に二人の妻を得たのですが、ヤコブはこうして伯父に縛り付けられることになりました。




posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月20日

Coffee Break58 賛歌と罪




  山あかね じゃれつくように 空気切る
  山あかね 草抜く手もと 笑うごと
  山あかね 目をこらしては 数かぞえ
  山あかね 羽きらめかせ 秋の午後
  山あかね どの子とどの子 カップルか

  ひらひらと 紋黄蝶は 恋ざかり
  恋歌え 秋の山路に 紋黄蝶
 
               (山路を散歩しているときに)


 しぜんの生き物の性は、命の賛歌です。本能の命じる行動と、神様が彼らにお与えになった規範が一致しているので、カップリングする虫や鳥の姿を見ているとじつに楽しそうです。彼らにとって障害は、むしろ彼らの住処である自然が破壊されていくことでしょうか。それさえ、知らぬげに飛び回る彼らの恋はさわやかです。
 
☆☆☆☆
 

 ヤコブは伯父のふたりの娘レアとラケルを妻にもちました。これで、たんなる伯父の客ではなく、娘婿としてラバンの家の一員になったわけです。
 ふたりは対等な妻でした。サラとハガルのような関係ではありません。順序がレアの方が先になったのは、レアが姉娘だったからです。ヤコブ自身は、ラケルとの結婚を望んでいたので、いわば、伯父に「だまされた」結果です。
 けっきょく、ヤコブは十四年間、働くことになりました。実際には十四年後に「年季明け」とはならなかったのですが、とにかく、愛するラケルといっしょになりたいばかりに、そのような約束をしたのです。

 すでにサラとハガルの例で見たように、一人の男と二人の女の組み合わせでは、争いが起きます。一人が正妻で一人が側女と格の違いをつけても同じです。神様は、男女は一対で安定するようにお造りになったのです。
 あなたが別の女性(男性)と一人の男性(女性)を張り合っている場合、やきもきして、落ち着かす、苦しくて、傷つくのは当然なのです。安定する以前の状態なのですから。
 
 まして、レアとラケルは姉妹でした。対等な妻で対等な姉妹なのですから、一人の男をめぐって、熾烈なライバル意識が芽生えました。
 このような中では、夫となる男が二人を平等に愛せばことは収まるのでしょうか。それもまた、頭の遊びに過ぎません。そのように決めてみても、人の感情は理屈どおりいきません。事実、ヤコブはラケルを愛していました。
 
 ☆☆☆☆

 神様はレアを憐れに思われたのでしょう。レアはみごもって男の子を産みます。最初の子はルベン。つぎの子はシメオン、三番目はレビ、四番目はユダと名づけられました。すべて男の子です。
 一方ラケルは不妊の女でした。
 これは、ラケルにとって屈辱でした。当時、妻となる女性の最大の務めは、夫のために子どもを産むことでした。どんなに愛されていても、美しくても、子どもが産めなければ価値はないと言えるほどでした。


 ラケルは姉にはげしく嫉妬し、夫のヤコブに、「私に子供を下さい。でなければ、死んでしまいます。」(創世記30章1節)と、詰め寄りました。

 ヤコブは当然怒りました。

「私が神に代わることができようか。おまえの胎内に子を宿らせないのは神なのだ。」(2節)
 ラケルは言いました。「では、私のはしためのビルハのところに入って、彼女が私のひざの上で子を産むようにしてください。そうすれば私が彼女によって子どもの母となれましょう。」(3節)


 こうして、ビルハがヤコブの子どもを産むのです。ビルハは続けてもう一人の男の子を産み、すると、ラケルは、「わたしは姉と死に物狂いの競争をして勝った。」と凱歌を上げるのです。
 レアは、四人産んで、もう自分が子を産まないと思い、今度は自分のはしためジルバをヤコブに与えます。そして、ジルバもまた二人の男の子を産みます。
 レアは、「なんと幸せなこと。女たちは私を幸せものと呼ぶでしょう」と、喜ぶのです。
 自分の召使に夫の子供を産ませても、ライバルの姉や妹に勝ったというこの感覚は、今では、とうてい理解しがたいことですが、二人はそれほど、嫉妬と競争の中にいたのです。

 このあと、レアがまた子どもを産み、やがて、ラケルもみごもって子どもを産みます。24節まで、延々と姉妹の競争が繰り広げられています。
 本来、人間の賛歌である性、その結果としての愛でるべき子どもの誕生が、愛を獲得する競争の道具になっているのです。これが罪でなくてなんでしょう。

 妻に子どもが生めない場合、召使を夫に差し出す。あるいは、一夫多妻が日常的だった社会では、このような煉獄が、あちこちで繰り広げられていたのかもしれません。

 ともあれ、こうして生まれてきた男の子たちが、イスラエル12部族の名祖となるのです。



posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。