2010年10月21日

Coffee Break59 鍛錬




 ヤコブはけっきょく四人の妻をもちました。子どもは十二人。のちにラケルがベニヤミンを産みますので、十三人です。
 女性たちの受身の人生、姉妹で否応なく一人の男に嫁がされたレアとラケルの煉獄状態。それに対して、男が複数の妻をもてたこの時代を、ちょっとうらやましく思う男性がいらっしゃるかもしれません。
 あのまじめなアブラハムでも、妻の奴隷ハガルを側女とし、サラが死んだあとに、ケトラという女性と再婚して、そばめももっています。ヤコブの兄エサウは、ヘテ人の妻二人がいたのですが、それが父親イサクと母リベカの気に入らなかったらしいと判断すると、イシュマイルの娘もめとるのです。

 けれども、男性には男性の制約がありました。なんと言っても、「体を張って」働き、敵と戦うのが男の生活でした。創世記で、神は、罪を犯したアダムに、「あなたは顔に汗を流して糧を得」(創世記3章19節)とおっしゃっています。
 当時は、今のように「個人主義」では生きていけません。生活の基盤は強い家父長制の大家族制度です。家族の中で父親に服従し、団結することで、家族を守り、自分を守ったのです。
 
 ヤコブがラバンに従い続けたのは、ヤコブが無一物だと言う弱みだけでなく、ラバンが伯父であり、しゅうとであって、服従する気持ちがあったからでしょう。それに妻や子供を守ると言った男としての義務感も強かったからでしょう。


 そのような制約と拘束の中で、したたかなラバンにこき使われ、欺かれつづけて、ヤコブは鍛錬されて行きました。
 
 それが神のご計画であると、ヤコブは、今私たちがこの物語を見るように、納得していたかどうかわかりません。(何しろ、私たちは完結した聖書を、読むことが出来るのです)。
 しかし、彼を支えていたものは、彼が信仰するアブラハム・イサクの神ではなかったでしょうか。
 あの、荒野の夜、ベテルと彼が名づけた場所で、天に上るはしごの夢の中に現れてくださった神のお姿と言葉を、彼は何度も思い出したでしょう。



「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。(創世記28章13節)

 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。(14節)

 見よ。わたしはあなたと共にあり、あなたがどこへ行ってもあなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしはあなたに約束したことを成し遂げるまで、けっしてあなたを捨てない。」(15節)


 神はたしかにヤコブをお捨てになりませんでした。

 ヤコブにとって、レアとの結婚は、「望みもしなかった不当な」出来事でした。しかし、ヤコブは与えられた運命を甘受しました。好きでないレアとも床をともにしました。はしためとの間にも子どもをもうけました。そして、その結果、イスラエル民族を構成する十二部族の名祖が生まれるのです。

 なかでも、レアの息子ユダの家系のダビデが、イスラエル王国の二代目の王になり、その家系に、やがて、イエス様が降誕されるのです。
  
 そのような重要なポジションにいたヤコブへの、神からの鍛錬は、延々と続くのですが。




 
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2010年10月22日

Coffee Break60  ラバンからの逃走(創世記31章) 





 ヤコブは母リベカの助けで、兄の祝福を奪いました。母リベカの差し金で家から逃げ出し、伯父ラバンの下へ逃れました。そんなマザコンのヤコブが、腹黒い伯父のもとで苦労するなかで、だんだんたくましく、伯父と張り合えるほどしたたかな男になっていくのです。

 神様は、すでに、ヤコブが母の胎内にいるとき、「二つの国が胎内にある。兄が弟に仕える」(創世記25章23節)と、仰せになりました。
 リベカが手もとにヤコブを置いて可愛がり、彼をマザコン状態にしたのは、このときのお告げのためかもしれません。
 けれども、ヤコブが、後年、逆境の中でどんどん姿を変え、一皮も二皮も剥けて、大きな人間になっていく萌芽は、天与のものつまり、神がお与えになった資質と見るべきでしょう。鍛錬されてより強くなる人間としての素質です。
 彼の粘っこい気質、抜け目のなさ、知恵、心の奥行きは、土くれ(私たち人間は土のちりから造られたということになっているのですが)というより、鋼の原石のようです。


 伯父ラバン(母の兄)の家での生活で、ヤコブは怒涛になぶられる小船のように、もまれ続けたのです。ひっくり返り難破しなかったのは、まさに彼の天性の資質をくださった神のお守りによるものでしょう。
 彼はたんなる労働者ではなく、大きな収益を伯父にもたらすような仕事をしました。だからこそ、ヤコブが十四年の年季が明けて、「妻子とハランに帰りたい」と申し出たとき、ラバンは執拗に慰留しました。


「あなたの望む報酬を言ってくれ。」(30章28節)
「何をあなたに上げようか。」(31節)


 しかし、ここでのヤコブは、もう、十四年前の若者ではありません。すでにラバンの人間性を見抜いて、その上を行く腹積もりがありました。
 ヤコブは伯父に、ブチ毛とまだら毛の羊・山羊全部と、黒毛の羊とを下さいと言ったのです。もし、ヤコブの羊の中にブチ毛やまだら毛でないもの、黒毛でないものがあったら、それはラバンのものだというわけです。

 ラバンはすぐに息子たちに命じて、ブチやまだらのある羊と山羊、黒毛の羊を取り分けて遠くの山に隔離しました。ヤコブはブチやまだらのない羊、山羊、黒くない羊ばかりを伯父の物として預かって世話をすることになりました。さいわい、動物は毎年のように子どもを産みます。ヤコブはすでに、心に計画していたとおり、動物たちを交尾させ、繁殖させます。
 ヤコブのやり方は、今の私たちにはちょっと理解できません。木の皮を剥いて、さかりがついた動物に向けておくと、それを見ながら交尾した動物から、まだらやぶちのある仔が生まれるというのです。これは、当時はそう信じられていた(実効のある)迷信みたいなものだったのでしょうか。しかし、彼の一所懸命の執念に神様が答えてくださったのでしょう。予想通りたくさんの、ブチやまだら毛の羊や山羊が生まれました。

 
 六年も経つと、ヤコブの家畜はラバンのものより圧倒的に多くなりました。ヤコブは金持になり、召使をたくさんもつほどになりました。

 このことに、ラバンの息子たちが文句を言いだしました。
 ヤコブは父親のものを盗んでいるというわけです。もともと計算高いラバンも、甥のこの「豊かさ」に脅威を覚えるようになりました。
 
 その頃、夢の中にふたたび主(神)が現れて仰せになりました。


「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」(創世記31章3節)

 そこでヤコブは使いをやって、ラケルとレアを自分のいる野に呼び寄せ、(4節)
 彼女たちに言った。「私はあなたがたの父の態度が以前のようではないのに気がついている。しかし、私の父の神は私とともにおられるのだ。」(5節)


 それに対し、ラケルとレア・・・日頃は激しいライバル意識を燃やしていた二人の妻は、揃って言うのです。

「私たちは父に、よそ者と見なされているのではないでしょうか。彼は私たちを売り、私たちの代金を食いつぶしたのですから。(15節)
 また神が私たちの父から取り上げた富は、すべて私たちのもの、また子どもたちのものですから。さあ、神があなたにお告げになったすべてのことをしてください。」(16節)
 

 ヤコブは男として責任を持って家族を養い、慈しんできたのでしょう。でなければ、まだ実父とともにいる妻たちが、このように言うはずがありません。

 ヤコブは、ラバンが野に出て羊の毛を刈る留守中に、家族と召使、家畜を率いて、ラバンのもとから逃げました。


 彼は自分の持ち物を全部持って逃げた。彼は旅立って、ユーフラテス川を渡り、ギルアデの山地へ向かった。(21節)

 
 三日目にこの事を知ったラバンは、烈火のごとく怒って、ヤコブを追いかけます。



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2010年10月23日

Coffee Break61 和解




 ラバンはヤコブが逃げたと知ると、すぐに身内のものを引きつれ、七日の道のりを追いかけギルアデの山地で、ヤコブ一行に追いつきます。
 これは、映画なら、なかなかスペクタクルな場面です。ラバンは族長として息子だけでなく、かなりの手勢を連れていたでしょう。武器も持っていたかもしれません。多数の男がらくだに乗って荒野を駆けて行くのです。三日も先に出たヤコブが追いつかれたのは、妻子や家畜を引き連れていたからでしょう。家畜の群れには必ず仔羊や子山羊がいますし、女子どもがいれば、進むペースも遅くなります。
 ギルアデはヨルダン川の東側一帯です。ヤコブ一行はここで天幕を張って休息をしていました。そこで、追いついたラバンも、自分たちの天幕を張りました。
 この時、ヤコブの神が、夜、ラバンの夢に現れて仰せになりました。

「ヤコブと、ことの善悪を論じないように気をつけよ。」(創世記31章24節) 

 それでも、ラバンはヤコブに抗議しました。
「何ということをしたのか。私にないしょで私の娘たちを剣で捕らえたとりこのように引いていくとは。(創世記31章26節)
 なぜ、あなたは私のところをこっそり抜け出し、私に知らせなかったのか。わたしはタンバリンや竪琴で喜び歌って、あなたを送り出したろうに。(27節)
 あなたは、私の子どもたちや娘たちに口づけもさせなかった。(28節)


 ラバンは、ヤコブに出し抜かれて怒っているのです。一族の家長としてのメンツを潰されて、憤懣やるかたない彼の姿が見えてきます。当時の族長の絶大な統率力、権力を思えば当然かもしれません。Coffee Break59で述べたように、個人主義はありえない時代・社会でした。たとえ、奴隷でも集団に属していれば、食べ物もあり寝る場所もあり、妻子も得て命をつなぐことができます。一人では餓死するか、敵に襲われるか、野獣の餌食になるかですから、社会からはぐれた者でも、結局どこかの群れに入ることになったでしょう。そのような集団の中では、みんなお頭に従うわけです。
 ラバンにしてみたら、ヤコブを利用しているときでも、彼を養って妻子まで与えてやったつもりだったでしょう。出て行くなら、それ相応の手続きを経、敬意を表するのが当然ではないか。自分だって子どもに別れの口づけをし、宴会を開いて快く送り出してやったものを、と思うのです。

 ラバンが怒ったもう一つの理由は、ラケルが家を去る前に盗んだ、彼の家の神テラフィムです。ラバンは家族の神・偶像を持っていたのです。家族の神というのは、とても大きな意味がありました。ヤコブが兄をだましても欲しかった「祝福」は、たんにアブラハム・イサクへの信仰を継ぐこと──祀りごとを意味したのではありません。その家にあるすべての財産や家長の権利なども、ワンセットでした。ラバンは、ヤコブが神を持って出たなら、いつか、ラバンの家の支配権や財産の所有権を主張すると思ったのかもしれません。
 時代も文化も違いますが、日本でも、ほん何十年か前までは、家を継ぐというのは、単に家財産を受け継ぐことではありません。財産がろくになくても、その家の仏壇や墓、神棚など、先祖供養と神道行事を引き受けることでした。

 ヤコブはラケルが実家の神を盗んできたなど、知りませんでした。
 

 ヤコブは、「あなたの娘たちをあなたが私から奪い取りはしないかと思って、恐れたからです。」(31節)と釈明します。

 しかし、身に覚えがないテラフィムについては反論します。
 「あなたの神々を誰かのところで見つけたなら、その者を生かしておきません。私たちの一族の前で、私のところに、あなたのものがあったら、調べて、それを持っていってください。」(32節)

 ヤコブは、好きなように家捜しをしてくれ。もし、盗んだ者がいたら、その者を殺しましょうと、見得を切ったのです。
 テラフィムがどのようなものであったのか、今は正確にはわからないようですが、それがラバンの家の神であると書かれていることから、偶像の一種でしょう。
 アブラハム・イサクの神は、特定の偶像をもたないのですから、ヤコブにとって無用の物、むしろ持っていたくない物です。盗んだなんて、ばかばかしい! そんな気持ちだったでしょう。
 ラバンは、さっそく、ヤコブの天幕、レアの天幕、二人のはしための天幕と捜して回ります。それから、ラケルの天幕に行きます。
 ラケルは、このとき、テラフィムをらくだの鞍の下に隠し、その上にすわっていました。父に、「女の常のものがあるので」と言い訳して、そこから動きません。
 
 ラバンがテラフィムを見つけることができないと見るや、ヤコブは反撃にかかります。

「あなたは私の物を一つ残らず、さわってみて、何か一つでも、あなたの家の物を見つけましたか。もし、あったなら、それを私の一族の前に置いて、彼らに私たちふたりのあいだをさばかせましょう。──」(37節)


 二十年間、どのような苦労をしてラバンに仕えてきたかを、とうとうと語り、ラバンをなじります。この激しさは、アブラハムやイサクには、少なくとも聖書で見るかぎりありません。ヤコブの姿は、現実のきびしい社会にコミットしている生きている人間のなまなましさを、時代を超えて伝えています。積年の憤りをぶつけるこのヤコブの様子に、思わず共感する人もいるのではないでしょうか。
 ラバンはヤコブの剣幕に圧倒されたのでしょうか。和解することにします。
 
 彼らは、食事を共にし、塚を築いて契約を結びました。



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2010年10月24日

Coffee Break62 つぎの心配 




 ヤコブのラバンへの怒りは、創世記31章38節から42節に述べられています。
  @ ラバンが仕事において、どれほどシビアは人間であったか。病気や事故、野獣に取られた家畜でさえ、ラバンはヤコブの責任にしたこと。ラバンは家畜をヤコブの裁量で殺して食べることも許さなかったこと。
  A 放牧の仕事は厳しく、中東の気候は、昼は暑く、夜は寒くて寒暖の差がとても大きいのです。ヤコブは夜よく眠ることも出来なかったと、伯父に言っています。十分な衣類、良い天幕などが与えられなかったと推測できます。
  B ラバンがヤコブをただ働きさせた手口。姉娘レアを押し付け、ヤコブのけっきょく、ふたりの娘の花嫁料として働き、残りの六年はラバンの家のために働いたが、ラバンはなんども約束を破って報酬を変えたこと。
  C もし、自分が事前にラバンに出て行くと言ったら、ラバンはヤコブを無一物で追い出したであろうこと。
 神、アブラハム・イサクの神がハランを出るように指示してくださり、また助けてくださったので、出てくることができたこと。

 ラバンは答えます。


「娘たちは私の娘、子どもたちは私の子ども、群れは私の群れ、すべてあなたが見るものは私のもの。この娘たちのために、または娘たちが産んだ子どもたちのために、きょう、私に何ができよう。(43節)
 さあ、今、私とあなたと契約を結び、それを私とあなたとの間の証拠としよう。」(44節)
 これに対して、ヤコブは石を取り、これを立てて石の柱とした。(45節)
 さらにヤコブは一族の者に命じて石を集めさせ、石塚を築いた。(46節)


 石塚のそばで、ヤコブの一族とラバンの一族は「和解の食卓」に着いたのです。
 
 ラバンとヤコブとの応酬は、彼らの長年の確執のクライマックスです。面従腹背だったヤコブも、力のぶつかり合いの極地でとうとうラバンと対決をしたのです。
 腹黒いラバンのことですから、力関係が自分に利ありと見れば、まだヤコブをひねりつぶすつもりだったでしょう。しかし、ヤコブは長年の忍耐と体を張った働きで、伯父のためだけでなく、自分のためにも力を蓄えました。もはや、ラバンもヤコブを去らせるしかないと悟ったのです。ここに至ってまだ、一族の長、ヤコブのしゅうととしての体面と立場を標榜するラバンは、ちょっと憐れにさえ見えます。
 
 実のところ、ラバンは、ヤコブの力に圧倒されていたのです。「くちばしの黄色いひよこ」と思っていたのに、いつの間にか自分と対等の力をつけています。たぶん、ラバンの息子たちは、ヤコブに比べるとはるかに見劣りがしたのでしょう。
 彼は石塚を証拠に、ヤコブと契約を結ぼうと提案します。
 今後、自分たちが石塚を越えてヤコブのところに、敵意を持って行くことはない。だから、ヤコブもまた石塚を超えて来てはならない。 そのようなことがあったら、どうか、アブラハムの神、ナホルの神──彼らの父祖の神──がわれわれの間をさばかれますように。
(52節)
 ヤコブも父イサクの恐れる方にかけて誓った。(53節)


 誓いをさらに確かなものにするために、彼らは山に行っていけにえをささげ、また食事をします。
 翌朝、ラバンは子どもたちと娘たちに口付けして祝福し、自分の家へ帰っていくのです。


☆☆☆☆

 ヤコブは、伯父の家からの脱出に成功しました。
 しかし、彼には前途に大きな不安がありました。もともと、兄エサウの恨みを買って、家を逃げ出すことになったのです。兄は、その頃ヤコブを殺そうと思っていたのです。まだ、執念を燃やして待っているかもしれません。悪事を犯した者の心には、いつまでも安らぎがないのです。




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2010年10月25日

Coffee Break63 マハナイム




 アブラハムの人間像は案外茫洋としています。生活の労苦があまり記録されていないからです。彼も一族を離れて、見知らぬ土地カナンにやってきて飢饉や戦いを経験し、住む土地を変えているのですから苦労はあったはずです。しかし、聖書記者の関心は、アブラハムが、神の救いの器の始祖となる人物であることに主眼が置かれていたのでしょう。アブラムが神に召され、導かれ、神とともに歩み、しだいに信仰を確かなものとする、そして、神ご自身が彼を祝福し豊かな族長にしてくださるプロセスが描かれています。
 イサクは、神を敬い、親を敬う温厚な二代目であり、あのモリヤの山で、アブラハムに縛られ、全焼のいけにえとして薪の上に載せられたときですら、抵抗した様子のない素直な人です。(創世記22章9節10節)
 イサクにとって、エサウと間違えて、ヤコブに祝福を与えてしまったことは心痛だったでしょうが、父アブラハムが腹違いのほかの兄弟を全部遠ざけてくれたおかげで、とくに生活に苦労した様子はありません。

 ヤコブの人生は、急に生々しく現実的なものとして描かれています。ヤコブはとても生きる執念の強い人でした。母の愛情を独り占めし、兄が受け継ぐものも欲しがったのです。 
 ヤコブが兄に「長子の権利」を売らせるところ、また、祝福を奪う箇所を見ても、読者がヤコブに肩入れするだけの理由がありません。
 ヤコブがまだ、母の胎内にいるときに、双子がお腹の中で争うような痛みに、リベカは主のみこころを求めに行ったのです。主は「弟が兄を支配する」と仰せになったのです。本気でリベカがアブラハム・イサクの神を信じるなら、このとき、夫に話して、生まれたときにヤコブを跡継ぎに決めるべきだったでしょう。
 しかし、夫婦がそのような行動を取らないこともまた、神はお見通しで、神のご計画のうちだったのでしょうか。


☆☆☆☆


 さてヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現れた。(創世記32章1節)
 ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言って、その所の名をマハナイムと呼んだ。(2節)



 兄の祝福を奪った罪びとヤコブですが、にもかかわらず、逃亡したあと、たしかに主(神)が彼とともにおられるようになりました。
 荒野の夜に、まず主が夢に現れてくださいました(ベテル)。そして、その後の伯父の家での生活の中で、ヤコブは苛酷な生活の中でも、妻や子供を得ていきます。また、知恵を働かせて考え出した方法で自分の財産を作っていきます。
 彼がいよいよラバンのもとを去ろうと思ったとき、主が現れてヤコブに仰せられるのです。


「あなたが生まれたあなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」(31章3節) 

 その上、ラバンがヤコブを追い、ヤコブになんらの鉄槌を下してやろうと思っているときに、主はラバンに仰せになるのです。「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」(24節)
 
 主は、確かに、ヤコブが苦しみ、惑い、新しい行動をとろうと葛藤の中にいるとき、必ず彼を励まし、お助けになったのです。
 ヤコブもまた、しだいに神への信頼、その信仰を高め強めて、神のしもべとなっていくのです。
 
 ラバンと別れて旅をつづけながら、ヤコブの心配は膨らむばかりでした。兄エサウを騙し、父を悲しませたその後始末が、故郷で待っているに違いないのです。
 その時、ヤコブの前に、「神の使い」が現れたのです。このことはどれほどヤコブを元気付けたでしょう。
 ヤコブは、兄に使者を送ることに決め、しもべを選んで兄に言うべき言葉を教えた。

「あなたのしもべヤコブはこう申しました。私はラバンのもとに寄留し、今まで留まっていました。(4節)
 私は牛、ろば、羊、男女の奴隷を持っています。それでご主人にお知らせして、あなたのご好意を得ようと使いを送ったのです。」(5節)


 一見平身低頭なあいさつですが、やはり、ヤコブの性格が出ています。たくさんの財産とともに帰っていくので、お兄さんにご迷惑はおかけしません。それどころかお役に立てると思いますのでよろしくお願いしますと、持ち物を強調しています。
 やがて、使いは戻ってきて伝えます。


「あなたの兄上、エサウのもとに行って来ました。あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやってこられます。」(6節)

 これを聞いたヤコブは、青くなりました。兄がたくさんの手勢を率いて、ヤコブを殺しにきたと思ったのです。





       「クリスマスへのいざない」は、本日午後一時ごろ掲載の予定です。



 
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2010年10月26日

Coffee Break64 祈りのすもう



 アブラハム・イサク・ヤコブの神というけれど、神様が、どうしてヤコブのような人を用いられるのかわからないと、言った方がいます。信仰歴の長い聖書もよく読んでこられた方です。その気持ちは、私にもよくわかります。

 聖書には、欠点の多い人、間違いを犯す人間。多情な人、欲深い人、殺人者など、あらゆる罪びとが出てきます。見るも無残な罪びとしかいないのが、この世界なのです。そこにいる人間たちを、そこにいる人間を用いて、何とか救いに入れて下さろうとするのが、神様のご計画です。ですから、とうぜん、アブラハムもイサクも、完璧な人間ではありません。
 
 それにしても、ヤコブはひどい!というわけです。じっさい、彼は、若いときからいかがわしいところがあります。苦難の人生も、みずから撒いた種と言えなくないくらいです。
 マナハイムを通過したヤコブ一行は南進して旅を続けます。その先に、兄エサウが住んでいるエドムの地があるのです。父のもとに帰りつく前に、兄のところを通らないわけにいかないのです。
 それで、ヤコブは使いを送ってご機嫌伺いを立てたのですが、その結果、兄が四百人を引き連れてやってくるというわけです。

 ヤコブは兄からの攻撃をかわす方法をいろいろ考えて、手を打ちます。
 まず、自分の引き連れている家畜(財産)や人々を二つに分け、別々の場所に宿営させることにしました。かりに、兄エサウが来て襲撃した場合、どちらか一つがダメになってももう一つは残ると言う計算です。
 その上で、アブラハムの神、イサクの神に祈り始めます。
 
 翌朝、家畜の中から、兄への贈り物を選び出します。
 雌やぎ二百頭、雄やぎ二十頭、雌羊二百頭、雄羊二十頭。
 乳らくだ三十頭とその子。雌牛四十頭、雄牛十頭。
 雌ろば二十頭、雄ろば十頭。
 これらを、それぞれ群れに分けて、しもべに追わせるのですが、群れと群れの間隔を空けるように言いつけ、もし、エサウと遭遇して、「これはだれのものか」と聞かれたら、
「あなたのしもべヤコブさまのものです。ご主人エサウ様への贈り物です。主人は私たちのうしろにおりますと、言いなさい」と命じる。
 これらの群れに何度も行き会うと、兄の怒りも静まるかもしれないと言う計算です。そうして、贈り物を先行させた上、自分は後方ヤボク川のそばに妻子と留まっていたのです。しかし、夜中には、それも落ち着かず、妻子を起こし、すべての物を携えて目の前のヤボクの渡しを渡ることにします。
 そこで、ヤコブは妻子を先に出発させ、自分はあとに残ったのです。
 あとに残って、様子見をしようとしたのでしょうか。だとしたら、なんと卑怯な男でしょう。
 
 ところが、一人で残っているヤコブに、誰かが近づいてきて彼と格闘するのです。ヤコブも必死に闘いました。


 その人はヤコブに勝てないと見て取って、ヤコブの腿のつがいを打ったので、ヤコブの腿のつがいが外れた。(創世記32章25節)
すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」(26節)
その人は言った。「あなたの名は何と言うのか。」 「ヤコブです。」(27節)
「あなたはもうヤコブとは呼ばれない。これからはイスラエルとなる。神と戦い、人と戦って勝ったからだ。」(28節)
 こうして、その人(じつは神)は、ヤコブを祝福したと言うのです。
 

 この箇所を、沢村五郎師は、著書「聖書人物伝」で、ヤコブが一晩中、「祈りのすもう」を取ったと書かれています。
 一晩中でも祈り続けることのできたヤコブは、たんに保身に長けているだけの人間、うまく立ち回るだけの人間ではなかったということでしょうか。
 欠点が多くて、罪深くて、また切羽詰ることも多いヤコブのような人のほうが、より深い祈りができ、神様は彼のそんなところを用いられたのかもしれません。

 欠点の多い、罪びととして、私たちもいささか慰められるところではないでしょうか。少なくとも、とても欠点の多い私は、大いに慰められます。
 それにしても、神様が、「もう行かせてくれ」と仰せになるほどの祈りとは、どのような祈りなのでしょう。
 やはり、ヤコブは、神様に用いられる器なのですね。



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2010年10月27日

Coffee Break65 ゆるし




 ヤコブは、神様と四つに組む激しい祈りの中で、神様から祝福をいただき、イスラエルと言う名前になりました。
 遅ればせながら立ち上がって、先に出た妻たちや子供たちを追い、合流し、今度は全員の先頭に立ちました。矢面に出たのです。
 神様から腿のつがいを外されたヤコブは、もうすっかり砕かれていました。観念したとか、開き直ったといった人間的な意識ではなく、心から悔い改めたのです。

 遠くにエサウが多数の手勢を率いて近づいてきます。ヤコブは地面にひれ伏してお辞儀をしました。起き上がると、足を引きずって歩き、また、地面にひれ伏してお辞儀をしました。こうして七回、挨拶を繰り返しているうちに、兄の一行が目前に来ました。

 エサウは彼を迎えに走ってきて、彼を抱き、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。(創世記33章4節) 


 なんと、恨んでいるはずのエサウが「走りよってきて」ヤコブを抱きしめました。エサウはヤコブを「泣いて口づけする」ほど、弟との再会を喜んでくれたのです。緊張の糸が切れてヤコブも泣きました。もともと、ふたごの兄弟です。
 兄は、弟のうしろにいる女・子どもは誰かと尋ねます。ヤコブは、「神がしもべに与えてくださった」家族であると紹介します。
 続いて、エサウは途中に出会った家畜の群れについて尋ねます。
「あれは、私から兄上への贈り物です」と答えるヤコブに、エサウは快活に笑って言います。
「わたしもたくさんの家畜をもっている。もらわなくてもけっこう」
 弟を迎えに出るのに、四百人のしもべを従えて来るのですから、ヤコブが家を離れていた二十年のあいだに、エサウはエサウで成功し、大きな族長になっていたのです。
 あくまで、収めて下さいと言い張るヤコブに、「それでは」と贈り物を受け入れたエサウは、すぐに自分のところに来るように誘います。ヤコブが女・子どもを連れているし、弱い家畜もいるのでゆっくりと行きますと断りますと、それでは、何かの役に立つだろうから、自分のしもべを何人か置いていこうと申し出てくれます。鷹揚で、カラッとして、明るいエサウ。昔のイメージそのままに、筋肉りゅうりゅうで髭の濃い狩人の姿が浮かびます。
 兄の申し出を固辞するヤコブの方こそ、これまでのいきさつからして、まだ、何か心にわだかまりがあるのかしらと思わせるほどです。 



 この話は、聖書のいくつかの物語を思いださせます。
 兄が弟を殺したカインとアベルの話。(創世記4章)(Coffee BreakP)
 しかし、エサウは、カインと違って自分の怒りを治めることができたのです。かつては、身の回りのものに、「ヤコブを殺してやる」と言うほど、恨み怒っていたのに、です。

 新約聖書の「放蕩息子のたとえ」。(ルカ15章11節〜24節) ご存知のように、父親に頼んで、無理やり財産分けをしてもらい、遠くの国に出かけて遊びほうけて無一物になった息子が、行き場がなくて、結局家に戻ってくる話です。 息子は、「もとのような父との関係は無理でも、しもべとしてでも置いてもらおう」と帰って来たのです。ボロボロの服をまとってやせ衰えて帰って来たわが子を、遠くから見た父親が走り寄って、抱きしめ口づけします。



 許しは、もとより、キリスト教ではとても大切なことです。それは神様の愛に関わることだからです。創世記をはじめから読んできて、私たちは、何度も神を裏切る人間を、神様が許されるのを見てきました。カインも許していただきました。増え広がって罪を犯し、どうにもならない人間を滅ぼすこともできたのですが、神はノア一族八人を助け、その後の人類の祖とされました。バベルの塔を築いた人間たちは、ただ、散らされただけです。

 アブラハム・イサク・ヤコブを選び出され、人類の救いの器として用いられようとするとき、神は、その家族に、「許し」が実現するという奇跡を行なわれたのです。
 この許しの実現は、ヤコブの子どもヨセフと他の兄弟たちとの間の感動的な許しの物語として、もう一度、創世記に記されています。

「七度の七十倍も許しなさい」(マタイ18章22節)というのは、イエス様の教えですが、新約聖書に唐突に出てきたものではないようです。イエス様もたとえ話を用いておっしゃっています。天の父が私たちを許してくださったのだから、私たちは人を許さなければならない。
「目には目、歯には歯」という等価復讐は、人間の思いで実行できるものです。しかし、許しは神さまから出たことではないでしょうか。ヤコブが泣きエサウが泣いたとき、神様は、ふたりをご覧になって「よし」とされたことでしょう。


 あの、世界のはじめに、創造されたばかりの天地をご覧になったときのように。(創世記1章24節、31節) 





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2010年10月28日

Coffee Break66 絶えない苦労




 ヤコブの苦労は続きます。
 兄エサウが招いてくれたにもかかわらず、ヤコブは、エドムに行かず、西のシェケム(場所名)に移動します。そこで、シェケムの地の一部を土地の族長ハモルから買取り、住むことにします。

 ここで事件が起こります。
 レアが産んだ娘ディナが地元の娘と友達になろうと出歩いた時のことです。ハモルの息子シェケム(人の名前)が彼女に関心をもち、連れて行って関係をもってしまいます。これが今で言う「拉致強姦」のようなものだったのかどうかわかりません。シェケムはディナを好きになって、彼女と結婚できるよう父ハモルに頼みました。ハモルは早速ヤコブに会いにいき、「お嬢さんを下さい。私たちの娘も差し上げましょう。お互いに親戚になりましょう。そうしてこの地を自由に行き来してください。どのような条件でも、お望みの花嫁料でもお払いします」と申し込みをしました。

 しかし、ヤコブの息子たちは納得しません。妹が辱められたというわけです。
 息子たちは、悪だくみを考え出します。ハモルに、結婚の条件として、ハモルの一族、シェケムの町の男たち全員が割礼(男性の性器の表皮を切り取る儀式──神がアブラハムとの契約でアブラハムの一族の男たちに命じた契約のしるし)を受けるよう提案します。ハモル側は承知して、一族だけではなく、町にいる男たちすべてが割礼を受けました。
 その傷が一番痛む三日目に、レアの次男シメオンと三男レビは武装して町を襲い、ディナを取り返し、ハモルの一族、シェケムの人々を皆殺しにします。家畜から女子どもまで、略奪のかぎりを尽くすと言う凄惨なものでした。

 ヤコブはシメオンとレビに、「おまえたちは、困ったことをしてくれた。私たちは彼らに復讐されたらひとたまりもない。私も私の家も根絶やしにされる」と言い、すぐに、その地を引き払うことにしました。

☆☆☆☆


 そのとき、神はヤコブに仰せられます。

「ベテルに上り、そこに住みなさい。そこにあなたが兄エサウから逃れていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」(創世記35章1節)
 ヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言った。「あなた方の中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。(2節)
 私たちは立って、ベテルに上っていこう。私はそこで、私の苦難の日に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」(3節)


 息子たちと娘が招いた「事態」は、相当深刻だったのでしょう。ここには、ヤコブの決意のほどが見て取れます。兄エサウの怒りも解けたし、ともかくも土地を買って一族が安定した暮らしを始めたところでしたが、ゆるみがあったのです。
 未婚の若い娘が一人で慣れない土地を出歩くこと、息子たちが腹立ち紛れに不法を行なったこと、それに、彼らの家には、異国の神々が紛れ込んでいました。ラケルが父の家から盗んできたテラフィム以外にもあったようです。
 ヤコブはそれらをすべて捨てさせ、シェケムの樫の木の下に埋めました。こうしたきよめの行為をご覧になった神は、彼らの周りや行く手の町々を恐怖に陥れたので、彼らは無事ベテルまで旅をすることができました。
 
 ヤコブはその地に祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それは、彼が兄から逃れてきたとき、神がそこで現れたからである。(7節)
 こうしてヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現れ、彼を祝福された。(9節)
 

 神はここで再び、ヤコブの名前がイスラエルと呼ばれると宣言されるのです。
 
「わたしは全能の神である。
生めよ。ふえよ。
 一つの国民、諸国の民のつどいが、
 あなたから出て、
 王たちがあなたの腰から出る。      (11節)
 わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、
 あなたに与え、
 あなたの後の子孫にも
 その地を与えよう。」           (12節)
 神は彼に語られた所で、彼を離れて上られた。(13節)



 神から改めて、祝福をいただいたヤコブでしたが、この後、ベテルからエフラテまで行く途中、最愛の妻ラケルを難産のために失います。末っ子のベニヤミンの誕生と引き換えでした。



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2010年10月29日

Coffee Break67 その後 




  踏み切りに 飛び込んだ友 送った日 秋風今も首に残って

 私の小さな人生にも、いくつかの悲しい場面があります。これは高校時代、クラスメートの葬儀に出たときの情景を、最近になって、思い出して書いたものです。彼女は踏み切りで事故死したとのことでした。とくに親友というほどの人ではありませんでしたが、亡くなる半年くらい前から、彼女がふさぎ込んでいるのが、見て取れました。一週間ほど前には、教室で先生にひどく叱られ、泣いていました。自殺ではないかとの思いを拭えませんでした。同じ学年の生徒が全員葬儀に出ましたが、その時の風がことさら冷たい印象なのは、自分がずっと、彼女の痛みに対して傍観者だった、との思いがあったからでしょう。



 ☆☆☆☆

 ヤコブの人生は、年ごとに悲しみが積もるようでした。ラケルを旅の途中に葬ったあと、新しい場所に天幕を張った頃のこと。

 ルベンは父のそばめビルハのところに行って、これと寝た。イスラエル(ヤコブ)はこれを聞いた。(創世記35章22節)

 のちの律法に照らせば、これは大きな罪です。父の妻と寝るのは、神の掟を犯すことでした。(レビ記20章1節)。(参照:出エジプト、20章17節、あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち、隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人の物を欲しがってはならない。

 息子のしたことを、ヤコブが心でどのように思ったのかはわかりませんが、ここでは、ヤコブがとくに息子を処罰したとは書かれていません。
 もちろん、十戒とそれに伴う神のおきては、出エジプトの後に神から与えられたものであり、ヤコブが生きていたのは、少なくとも出エジプトより四百年もさかのぼった時代です。イスラエル十二部族が生まれる道程のことであり、神様がヤコブに働かれたのでしょうか。
 
 その事件の後、イサクがヘブロンで死にました。イサクの一生は百八十年でした。エサウとヤコブは父を葬りました。


 聖書は、その後エサウの系図を語ります。
 エサウは、エドムに住み着き、エドム人の先祖となりました。(創世記36章)
 これは、エサウとヤコブがまだ母リベカの胎内にいた頃に、神から出たことで、ヤコブにアブラハム・イサク・ヤコブの家を与えられた神は、エサウにはエドムのセイルをお与えになったのです。(申命記2章1節〜6節)


 イサクを葬った後、ヤコブは父が住んでいたカナンに住み着きました。
 子どもたちは成人し、それぞれ父の羊を飼うことができるようになっていました。ラケルが産んだヨセフは十七歳で、兄たちの手伝いをしていました。

 ヤコブは、自分が年取ってから生まれたヨセフをとりわけ可愛がって、ヨセフにだけ長袖のついた服を作ってやったりしていました。ヨセフはそのように自分を愛してくれる父に、兄たちの仕事振りを告げ口したりするのでした。

 とうぜん、兄たちはヨセフを憎みました。この兄弟の不仲が、また大きな悲しみをヤコブにもたらすのです。





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2010年10月30日

Coffee Break68 夢見るものがやってくる




    空腹か 胸いっぱいか こころもち 熱いコーヒー 冷たい朝に

 とうとうストーブをつけることになりました。毎朝、「まず、一杯」のコーヒーも、手の中でコーヒーカップを包んで、その温かさを慕うこのごろです。


☆☆☆☆

 創世記は遠い遠い昔の物語です。舞台は中東です。気候風土も、言葉も文化も仕事も食べ物も、社会の仕組みも、今の私たちとはまるで違う世界です。
 でも、ほとんど変わらないものがあります。それは、人間の心です。肌の色や目の色、髪の色が違っても、食べるものが違っても、嬉しさや悲しみを感じる心、愛したり憎んだりする心、嫉妬や怒り、たくらみや悪意は共通するものです。人間が気まぐれで公平さを欠き、余計な問題を招くのも同じです。

 若いころ、マザコンだったヤコブは、母親の差し金で、兄や父を騙すような人間でした。苦労を重ね、悲しい思い、悔しい思い、危ない思いをさんざん経験し、だんだん思慮のある族長になって行きました。それでもなぜか、自分の子どものなかで、十一番目の息子ヨセフを特別扱いしていました。ヨセフには長袖の服(晴れ着の意味がある)を作ってやり、ヨセフはそれをふだん着にしていました。自分だけ特別扱いしてもらえる時に、子どもがいい気になっても仕方がないでしょう。
 
 ある日、ヨセフは兄たちに言いました。
「どうか私が見たこの夢を聞いてください。  (創世記37章6節)
 見ると、私たちは畑で束を束ねていました。すると、突然、私の束が立ち上がり、しかも、まっすぐに立っているのです。見ると、あなた方の束が回りに来て、私の束にお辞儀をしました。」(7節)
 兄たちは彼に言った。「おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでもいうのか。」(8節)


 ふだんから、ヨセフのことを良く思っていない兄たちは、この夢の話を、聞いて怒りました。
 ヨセフは、兄の顔色を見ることもしません。別の時に、また、夢の話をします。

「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」(9節)

 この時は、さすがにそこにいた父ヤコブは、ヨセフを叱りました。
「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私やおまえの母上、兄さんたちがおまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」(10節)


 ヤコブはこのとき、息子たちの険悪な状態を十分見て取ったようです。しかし、それでも、ヤコブの気持ちの中には、ヨセフが夢のようになるかもしれないという期待がありました。
 兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心に留めていた。(11節)のです。

 ある時、ヨセフは、父に命じられて、羊を飼っている兄たちのいる野へ行きました。
 遠くから弟がやってくるのを見た兄たちは言いました。

「見ろ。あの夢見るものがやってくる。」(19節)

 彼らは、額を寄せ合い、弟を殺す相談を始めました。



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