2010年10月02日

Coffee Break40 神、主よ。




    空腹の 子猫 野原に啼き迷い 連れて帰りし はなすに はなせず


 数日前、友人から、猫をもらってほしいと、電話がありました。虐待されていた猫を引き取った人から頼まれたそうです。
「うちは集合住宅だから飼えないのよ。お宅こそ飼えそうじゃないの」
「うちは、主人が猫嫌いで」

 結局、断ったのですが、これまで飼ってきたたくさんの犬猫を思い出しました。子どもの時は、捨て猫を見るとつい放っておけず拾って帰り、動物好きの両親でしたが、犬3匹、猫四匹が家にいるときには、さすがに、「もとの所に置いていらっしゃい」と、言われ、途方にくれたものです。

 犬や猫を飼ってみると、彼らがなかなか知恵もあり、人の気持ちもわかり、彼らにも感情があることがわかります。まさに「情が通じ合う」感じで、家族同然にもなるのです。
 動物好きの人間には、動物にも人間と同じように心があると思えるのです。


 俗に言う「輪廻転生」などは、動物と人間が対等な、互換性のある「いのち」だと思っていると、受け容れやすいのです。「つぎは、猫に生まれ変わる。それもいいか」というわけです。
 すし屋の生簀の魚を見て、「前世は、こんなふうに泳いでいたのかな。でも、目の前で仲間が料理されるのを見るのはあまりいい気分ではないわね」

 このような物の見方は、頭の遊びとして考えれば、なかなか楽しいのです。
 ですが、聖書を読んで、本当の神様というものを、考えるようになると、たしかに猫と自分が対等というのは、間違っているのです。


 猫も物思いにふけっているように見えることはあります。土砂降りのときなど、不思議そうに窓から空を見上げていたりします。けれども、それは、また別の本能のせいだと説明ができます。
 猫にも、犬にも、(ほかの動物もぜんぶ)神様は、それぞれに能力をお与えになったのでしょう。猫や犬は、嗅覚は人間の二千倍と聞いたことがあります。それがどれくらいのものか、想像もつきません。すごい能力です。人間には聞こえない小さな音、高い音、低い音も聞こえるそうです。

 以前、飼っていた猫は、家人が帰ってきたら、必ず自分で縁側の戸を明けて迎えに出るのですが、その五分も前からもう立ち上がっています。外はしょっちゅう自転車や車が通るのですが、たくさんの自転車の音を、それも、まだ遠くから走ってくる「ご主人」の自転車の音を聞き分けているのです。
 もともと、猫や犬にとって、これらは生きていくのに必要な能力だったので、神様が与えてくださったのでしょう。その能力を、今の猫や犬は、自由に発揮できないのですから、ある意味かわいそうともいえます。

 人間は彼らのような鋭い嗅覚や聴覚や、速い足や、ばねのような筋肉を持たなかった代わり、神様が、神様と語り合えるこころを与えて下さったのではないでしょうか。

 
 今は、一匹の動物もいない暮らしですが、もし、もう一度猫を飼えたら、試してみようと思います。
 朝、起きると、猫なで声で、彼(彼女)を呼んで座布団を指差します。
「いっしょに祈ろ。ここに座っていなさい」

 すると、神様はおっしゃってくださるでしょう。
「その者ではない。わたしは、あなたを愛している」

 ごめんなさい。アブラハムの話の途中で、別の話題になってしまいました。



 明日の聖書箇所です。お読みください。


 主はそれを彼の義と認められた。(創世記15章6節)
「わたしはこの地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを連れ出した主である。」(7節)
 彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」(8節)
 すると、彼に仰せられた。「私のところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持ってきなさい。」(9節)
 彼はそれらを全部を持ってきて、それらを真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。(10節)
 猛禽が死体の上に降りてきたので、アブラムはそれらを追い払った。(11節)
 日が沈みかかった頃、深い眠りがアブラムを襲った。そして、見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。(12節)



posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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