2010年10月13日

Coffee Break51 選びの民の家族史




 アブラハムは多少の危険を冒しても、徒労になっても、自分の父親テラにつながる親類の娘を、息子と結婚させようと思いました。彼が、しもべをはるばるハランに送り出して、一族の娘を迎えに行かせたのはなぜでしょう。
 アブラハムが住むカナン地方にも、捜せば美しい娘がいたはずです。金持の家の娘も性格の良い娘もいたでしょう。
 
  アブラハムがこだわったのは、彼に現れ、導き続けてくださった主(神)の言葉が、心に焼きついていたからではないでしょうか。

 神は、初めてアブラハムに現れて、ハランから召し出されたとき、仰せられました。


 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
 わたしが示す地へ行きなさい。(創世記12章1節)
 
 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
 あなたを祝福し、
 あなたの名を大いなるものとしよう。
 あなたの名は祝福となる。(2章)


 最初、カナンに入り、そこに先住民がいるのを見て戸惑うアブラハムに、また主は顕現され、仰せになったのです。

あなたの子孫に、わたしは、この地を与える。」(7節)

 そして、ロトに良い地を取らせ、別れて住むようになった後は、次のような言葉を下さいました。

「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。(13章14節)
わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫に、与えよう。(15節)
わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし、人が地のちりを数えることが出来れば、あなたの子孫をも数えることができよう。(16節)」



 四度目の神の祝福のことばも、同じ意味で、有名な箇所です。

 主は、彼(アブラハム)を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」(15章5節)


☆ ☆ ☆


 エジプト脱出以前のイスラエルの歴史は、聖書に描かれているとおり、ひとつの家族史である。

 P・カイル・マッカーター(聖書およびオリエント研究の学者)は、「最新・古代イスラエル史、族長時代──アブラハム、イサク、ヤコブ」(株式会社ミルトス発行、池田裕、有島七郎訳)の項の冒頭に書いています。
 学者であるマッカーターは、「聖書の中のアブラハム・ヤコブ・イサクの歴史の記述は、聖書外資料の裏づけがない。記述に対応する文書、考古学的・歴史資料はほとんどない」から、これは、アブラハムを始祖とする、ひとつの家族史であると論旨を展開しています。


 この本は、古代イスラエルの社会と歴史を、できるかぎり学術的、客観的、考古学的にも納得できる「事実」を検証し、述べようとしています。アブラハムの時代から、第二神殿崩壊までの、古代イスラエルの歴史を八項目に分け、それぞれの専門家が論説しています。旧約聖書を読む場合、古代イスラエルの様子や歴史的事実のアウトラインを知ることは、聖書の世界をよりリアルなものにしてくれます。この本は、聖書を読む私には、なかなか参考になりました。

 マッカーターの論旨は、聖書の記述と齟齬をもたらすものでもありません。この時代のこの物語で、聖書記者が伝えたかったのは、最初から、当時のカナン地方の歴史、またイスラエル国家の歴史的社会的萌芽などではなかったでしょう。のちに、民族と呼ばれるほどに数を増やし、エジプトから脱出して、カナンに移住し、やがてイスラエル王国となる「神の選びの民」、その創成を記録することだったからです。
 しかも、その創成は、人間側の営みとしてではなく、神が選んで造って行かれるという「視点」に意味があったのです。

 何度にもわたる、神の顕現から、アブラハムは自分を選ばれた神のご計画を知り、自分の信仰をより高めていったのです。彼は、自分がたくさんの子や孫に囲まれて「めでたい」と思う世俗的な家長ではありませんでした。容赦なくイシュマエルを退け、サラの死んだあとにめとった妻、妾とのあいだに生まれた子どもたちも、財産をもたせて遠くへ行かせました。
 
 アブラハムの家を、まっすぐ太い枝にするために、神は脇に伸びようとする野放図な「成長」を、刈り込む必要があったのです。
 イスラエル民族がそのようにして造られことは、のちにイスラエル民族が偶像礼拝に陥り、国家存亡の危機にあったときの、預言者たちの預言にも現れています。



 わたしは、あなたをことごとく
 順良種の良いぶどうとして植えたのに、
 どうしてあなたは、わたしにとって、
 質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。(エレミヤ2章21節)


 そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ。
 さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。
 なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、
 酸いぶどうができたのか。(イザヤ5章3節)



 神にとっては、アブラハムの家系と関係なく生まれてくる人々も愛の対象であるはずです。しかし、この時点では、神は、真の神を忘れてしまった当時の大多数の人の中にあって、ご自分への真の信仰のある家族を造り、いずれは全人類をご自分のもとに連れ帰ることのできる「救いの器となる民」の形成を、実行しておられました。アブラハムは選ばれた自分の責任として、自分の息子の嫁も同じ根から出たものでなければいけないと、神の御心をくみ取ったのでしょう。



☆ ☆ ☆


 結婚したとき、イサクは四十歳でした。
 さいわい、父親の選んだ妻は、彼を幸せにしました。祝福され、愛し合い、順調に滑り出した結婚生活。しかし、いくつかの陰がありました。リベカもまた不妊の女でした。イサクが祈願して、やっと子どもが授かったとき、イサクは六十歳でした。

 二十年めに授かった子どもは、双子の男の子、エサウとヤコブでした。ここで、神はふたりのうち、どちらかを刈り込まれることになるのです。

 マッカーターは、この物語を、アブラハム・イサク・ヤコブから、その子ヨセフとイスラエル十二部族にいたる「家族史」と位置づけました。けれども、聖書の主役・神からの霊感を受けてこれを書いた聖書記者は、「神の選びの民の家族史」とタイトルを付けたかったのではないでしょうか。





     ここでは、聖書のことばは、すべて新改訳聖書から引用しています。
     
     聖書を通読をしてみようと思われる方は、このブログのリンク
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posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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