2010年10月16日

Coffee Break54 サスペンス




 人間はだれでもナマの自分をいつわります。感じるまま、思いつくまま態度に表し、言葉に出して、行動していては、半日も生きてはいけないでしょう。幼児はそのように行動し、意思表示するので、親や保育者は目が放せないのです。
 だんだん、自分の衝動や欲求をコントロールすることを学んでいくのが、大人になるということかもしれません。相手が、単に信号機のついた「横断歩道」であっても、家族や友達であっても、不要に衝突をしない。それが大人の態度です。
 ところが、衝動や欲求自体は消えるわけではありません。手なずけ飼い馴らし、ふだんは檻にでも閉じ込めているのですが、じつは、宿主(本人)の成長と同じように成長しているのです。

 小さな子どもの、ケーキ一切れ余分に欲しいと言った欲求とは違い、おとなの心の中の怪物は「困ったさん」なのです。自分でその怪物を絞め殺してしまえればいいのですがそうも行きません。それは自分自身でもあるからです。
 その「困ったさん」をたしなめる人がいると、まだ、良いかもしれません。「困ったさん」をほかの姿に変えてしまうのも方法です。別の欲求に昇華する、別の方向に転進することです。

 たとえば、クリスチャンは、イエス様にすべてを委ねて自分を変えていただこうと思っているわけです。──なかなか、一直線にできることではありませんが、自分の力ではできないのはわかっていますので、神さまであるイエス様にお願いしようとするのです。



 あるとき、「困ったさん」の同調者が現れます。
 「『困ったさん』は別に、『困った』じゃないわよ。正当な要求よ。さあ、要求を実現しましょう!」
 そんなふうに励まされたら、この誘惑を退けるのはよほどの意志でも無理です。
 
 自分が、おもしろくないと思っている人の悪口を誰かから聞いたら、心の中で手を打つ衝動をおさえるのはむずかしいでしょう。なんとなく、心に屈託があり、今夜、まっすぐ帰りたくないなと思っているところを誘われれば、じつは、帰宅してやらなければならないことがあっても、ショッピングや食事、お酒になる人もいるでしょう。

 
 リベカは、ヤコブの「同調者」でした。ヤコブがリベカの「同調者だった」のでしょうか。アブラハムのしもべが初めて、泉のそばで会ったときの清純な処女、美しく、機転が聞き、アブラハムの家につながる娘リベカ。リベカが砂漠をはるばると横切って、イサクに嫁いできたときのイメージはどこへ行ってしまったのでしょう。

 リベカがヤコブをエサウより可愛く思ってことは仕方がないかもしれません。「どの子も可愛い」と、親は言うのですが、現実は、「親に可愛がられなかった」「お姉ちゃんの方が可愛がられていた」などという思いが、多くの人の心に残っているのです。
 可愛いヤコブに祝福をもらってやりたい、そう思うのも許容範囲でしょうか。夫をせっついて、実現するよう心を砕くのも、まあリーズナブルです。
 しかし、そのために、たくらみ、それを実行すれば、ただ事ではすまなくなります。


 創世記27章17節です。母の作ってくれた肉料理をもち、兄エサウの服を身につけ、毛皮で首や腕を毛深く偽装して、ヤコブは父の枕元に行きます。 ヤコブは父のところに行き、「お父さん」と言った。イサクは、「おお、わが子よ。だれだね。おまえは」と尋ねた。

 ヤコブはこの父の言葉に、心臓がドキンとしたことでしょう。イサクは、息子の声だとわかったけれど、「はて?」、と思ったのでしょう。ご馳走の臭いもするし、獣を仕留めて料理を持ってくるのはエサウのはずですが、声はヤコブでした。
 もう、ここまで来ては、ヤコブも引き返せません。
 そこで、


「私は長男のエサウです。私はあなたが言われたとおりにしました。さあ、起きて座り、私の獲物を召し上がってください。ご自身で私を祝福してくださるために」と答えた。(19節)
 イサクはその子に言った。「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」 すると、彼は答えた。「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」(20節)
 そこでイサクはヤコブに言った。「近くに寄ってくれ。わが子よ。私は、おまえがほんとうにわが子エサウであるかどうか、おまえに触ってみたい。」(21節)
 ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」(22節)
 ヤコブの手が兄エサウの手のように毛深かったので、イサクには見分けがつかなかった。それで、イサクは彼を祝福しようとしたが、(23節)
「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね」と尋ねた。すると答えた。「私です。」(24節)


 すっかり老いて目も見えなくなったイサクですが、簡単には騙されません。生まれたときから見てきたわが子ふたりの違いは本能的にわかります。獲物を仕留めて戻ってきて料理したにしては早すぎると時間の感覚もあります。
 戸惑う父を見て、ヤコブはどんな思いだったでしょう。良心が咎めなかったのでしょうか。父を騙してすまない、兄に悪いことをしているとは、思わなかったのでしょうか。
 早鐘のように高鳴る心臓の鼓動が、父に聞こえませんように、ただ、一分でも早く、この場を首尾よくやり遂げられますようにと、それだけで頭がいっぱいだったのでしょうか。
 
 兄のエサウがそろそろ帰ってくる時間だし、もし、ここでしくじったら、せっかくの母さんの苦心も水の泡になる。



 そこでイサクは言った。「私のところにもってきなさい。私自身がおまえを祝福するために、わが子の獲物を食べたいものだ。」 そこでヤコブが持ってくると、イサクはそれを食べた。また、ぶどう酒を持ってくると、それも飲んだ。(25節)
 父イサクはヤコブに、「わが子よ。近寄って私に口づけしてくれ」と言ったので、(26節)
 ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクはヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った。
   「ああ、わが子のかおり。
   主が祝福された野のかおりのようだ。  (27節)
   神がおまえに
   天の露と地の肥沃、
   豊かな穀物と新しいぶどう酒を
   お与えになるように。         (28節)
   国々の民はおまえに仕え、
   国民はおまえを伏し拝み、
   おまえは兄弟たちの主となり、
   おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。
   おまえをのろう者はのろわれ、
   おまえを祝福するものは祝福されるように。」(29節)

   
 イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くか行かないうちに、兄のエサウが猟から帰って来た。        (30節)




 この27章は、すごいサスペンスです。読み応えのある分厚いサスペンスストーリ一冊より重いものを、ずっしりと読む者に残します。余計な心理描写も場面描写もいっさい省いて、この短い字数に、「困ったさん」が、「彼(彼女)の同調者」の命じるまま悪を行なう緊張と恐怖が描ききれているのに、ただ、感心します。
  

 しかも、この話は、まだ、途中です。




 
 

posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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