2010年10月23日

Coffee Break61 和解




 ラバンはヤコブが逃げたと知ると、すぐに身内のものを引きつれ、七日の道のりを追いかけギルアデの山地で、ヤコブ一行に追いつきます。
 これは、映画なら、なかなかスペクタクルな場面です。ラバンは族長として息子だけでなく、かなりの手勢を連れていたでしょう。武器も持っていたかもしれません。多数の男がらくだに乗って荒野を駆けて行くのです。三日も先に出たヤコブが追いつかれたのは、妻子や家畜を引き連れていたからでしょう。家畜の群れには必ず仔羊や子山羊がいますし、女子どもがいれば、進むペースも遅くなります。
 ギルアデはヨルダン川の東側一帯です。ヤコブ一行はここで天幕を張って休息をしていました。そこで、追いついたラバンも、自分たちの天幕を張りました。
 この時、ヤコブの神が、夜、ラバンの夢に現れて仰せになりました。

「ヤコブと、ことの善悪を論じないように気をつけよ。」(創世記31章24節) 

 それでも、ラバンはヤコブに抗議しました。
「何ということをしたのか。私にないしょで私の娘たちを剣で捕らえたとりこのように引いていくとは。(創世記31章26節)
 なぜ、あなたは私のところをこっそり抜け出し、私に知らせなかったのか。わたしはタンバリンや竪琴で喜び歌って、あなたを送り出したろうに。(27節)
 あなたは、私の子どもたちや娘たちに口づけもさせなかった。(28節)


 ラバンは、ヤコブに出し抜かれて怒っているのです。一族の家長としてのメンツを潰されて、憤懣やるかたない彼の姿が見えてきます。当時の族長の絶大な統率力、権力を思えば当然かもしれません。Coffee Break59で述べたように、個人主義はありえない時代・社会でした。たとえ、奴隷でも集団に属していれば、食べ物もあり寝る場所もあり、妻子も得て命をつなぐことができます。一人では餓死するか、敵に襲われるか、野獣の餌食になるかですから、社会からはぐれた者でも、結局どこかの群れに入ることになったでしょう。そのような集団の中では、みんなお頭に従うわけです。
 ラバンにしてみたら、ヤコブを利用しているときでも、彼を養って妻子まで与えてやったつもりだったでしょう。出て行くなら、それ相応の手続きを経、敬意を表するのが当然ではないか。自分だって子どもに別れの口づけをし、宴会を開いて快く送り出してやったものを、と思うのです。

 ラバンが怒ったもう一つの理由は、ラケルが家を去る前に盗んだ、彼の家の神テラフィムです。ラバンは家族の神・偶像を持っていたのです。家族の神というのは、とても大きな意味がありました。ヤコブが兄をだましても欲しかった「祝福」は、たんにアブラハム・イサクへの信仰を継ぐこと──祀りごとを意味したのではありません。その家にあるすべての財産や家長の権利なども、ワンセットでした。ラバンは、ヤコブが神を持って出たなら、いつか、ラバンの家の支配権や財産の所有権を主張すると思ったのかもしれません。
 時代も文化も違いますが、日本でも、ほん何十年か前までは、家を継ぐというのは、単に家財産を受け継ぐことではありません。財産がろくになくても、その家の仏壇や墓、神棚など、先祖供養と神道行事を引き受けることでした。

 ヤコブはラケルが実家の神を盗んできたなど、知りませんでした。
 

 ヤコブは、「あなたの娘たちをあなたが私から奪い取りはしないかと思って、恐れたからです。」(31節)と釈明します。

 しかし、身に覚えがないテラフィムについては反論します。
 「あなたの神々を誰かのところで見つけたなら、その者を生かしておきません。私たちの一族の前で、私のところに、あなたのものがあったら、調べて、それを持っていってください。」(32節)

 ヤコブは、好きなように家捜しをしてくれ。もし、盗んだ者がいたら、その者を殺しましょうと、見得を切ったのです。
 テラフィムがどのようなものであったのか、今は正確にはわからないようですが、それがラバンの家の神であると書かれていることから、偶像の一種でしょう。
 アブラハム・イサクの神は、特定の偶像をもたないのですから、ヤコブにとって無用の物、むしろ持っていたくない物です。盗んだなんて、ばかばかしい! そんな気持ちだったでしょう。
 ラバンは、さっそく、ヤコブの天幕、レアの天幕、二人のはしための天幕と捜して回ります。それから、ラケルの天幕に行きます。
 ラケルは、このとき、テラフィムをらくだの鞍の下に隠し、その上にすわっていました。父に、「女の常のものがあるので」と言い訳して、そこから動きません。
 
 ラバンがテラフィムを見つけることができないと見るや、ヤコブは反撃にかかります。

「あなたは私の物を一つ残らず、さわってみて、何か一つでも、あなたの家の物を見つけましたか。もし、あったなら、それを私の一族の前に置いて、彼らに私たちふたりのあいだをさばかせましょう。──」(37節)


 二十年間、どのような苦労をしてラバンに仕えてきたかを、とうとうと語り、ラバンをなじります。この激しさは、アブラハムやイサクには、少なくとも聖書で見るかぎりありません。ヤコブの姿は、現実のきびしい社会にコミットしている生きている人間のなまなましさを、時代を超えて伝えています。積年の憤りをぶつけるこのヤコブの様子に、思わず共感する人もいるのではないでしょうか。
 ラバンはヤコブの剣幕に圧倒されたのでしょうか。和解することにします。
 
 彼らは、食事を共にし、塚を築いて契約を結びました。



posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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