2010年10月26日

Coffee Break64 祈りのすもう



 アブラハム・イサク・ヤコブの神というけれど、神様が、どうしてヤコブのような人を用いられるのかわからないと、言った方がいます。信仰歴の長い聖書もよく読んでこられた方です。その気持ちは、私にもよくわかります。

 聖書には、欠点の多い人、間違いを犯す人間。多情な人、欲深い人、殺人者など、あらゆる罪びとが出てきます。見るも無残な罪びとしかいないのが、この世界なのです。そこにいる人間たちを、そこにいる人間を用いて、何とか救いに入れて下さろうとするのが、神様のご計画です。ですから、とうぜん、アブラハムもイサクも、完璧な人間ではありません。
 
 それにしても、ヤコブはひどい!というわけです。じっさい、彼は、若いときからいかがわしいところがあります。苦難の人生も、みずから撒いた種と言えなくないくらいです。
 マナハイムを通過したヤコブ一行は南進して旅を続けます。その先に、兄エサウが住んでいるエドムの地があるのです。父のもとに帰りつく前に、兄のところを通らないわけにいかないのです。
 それで、ヤコブは使いを送ってご機嫌伺いを立てたのですが、その結果、兄が四百人を引き連れてやってくるというわけです。

 ヤコブは兄からの攻撃をかわす方法をいろいろ考えて、手を打ちます。
 まず、自分の引き連れている家畜(財産)や人々を二つに分け、別々の場所に宿営させることにしました。かりに、兄エサウが来て襲撃した場合、どちらか一つがダメになってももう一つは残ると言う計算です。
 その上で、アブラハムの神、イサクの神に祈り始めます。
 
 翌朝、家畜の中から、兄への贈り物を選び出します。
 雌やぎ二百頭、雄やぎ二十頭、雌羊二百頭、雄羊二十頭。
 乳らくだ三十頭とその子。雌牛四十頭、雄牛十頭。
 雌ろば二十頭、雄ろば十頭。
 これらを、それぞれ群れに分けて、しもべに追わせるのですが、群れと群れの間隔を空けるように言いつけ、もし、エサウと遭遇して、「これはだれのものか」と聞かれたら、
「あなたのしもべヤコブさまのものです。ご主人エサウ様への贈り物です。主人は私たちのうしろにおりますと、言いなさい」と命じる。
 これらの群れに何度も行き会うと、兄の怒りも静まるかもしれないと言う計算です。そうして、贈り物を先行させた上、自分は後方ヤボク川のそばに妻子と留まっていたのです。しかし、夜中には、それも落ち着かず、妻子を起こし、すべての物を携えて目の前のヤボクの渡しを渡ることにします。
 そこで、ヤコブは妻子を先に出発させ、自分はあとに残ったのです。
 あとに残って、様子見をしようとしたのでしょうか。だとしたら、なんと卑怯な男でしょう。
 
 ところが、一人で残っているヤコブに、誰かが近づいてきて彼と格闘するのです。ヤコブも必死に闘いました。


 その人はヤコブに勝てないと見て取って、ヤコブの腿のつがいを打ったので、ヤコブの腿のつがいが外れた。(創世記32章25節)
すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」(26節)
その人は言った。「あなたの名は何と言うのか。」 「ヤコブです。」(27節)
「あなたはもうヤコブとは呼ばれない。これからはイスラエルとなる。神と戦い、人と戦って勝ったからだ。」(28節)
 こうして、その人(じつは神)は、ヤコブを祝福したと言うのです。
 

 この箇所を、沢村五郎師は、著書「聖書人物伝」で、ヤコブが一晩中、「祈りのすもう」を取ったと書かれています。
 一晩中でも祈り続けることのできたヤコブは、たんに保身に長けているだけの人間、うまく立ち回るだけの人間ではなかったということでしょうか。
 欠点が多くて、罪深くて、また切羽詰ることも多いヤコブのような人のほうが、より深い祈りができ、神様は彼のそんなところを用いられたのかもしれません。

 欠点の多い、罪びととして、私たちもいささか慰められるところではないでしょうか。少なくとも、とても欠点の多い私は、大いに慰められます。
 それにしても、神様が、「もう行かせてくれ」と仰せになるほどの祈りとは、どのような祈りなのでしょう。
 やはり、ヤコブは、神様に用いられる器なのですね。



posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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