2010年11月01日

Coffee Break70 ユダとタマル




 ヨセフの話が始まったと思ったら、創世記38章は、ヤコブの四男ユダに話題が移ります。ユダはレアが産んだ四人目の男の子でした。
 ヨセフを売り飛ばすとき、ユダはその場にいました。ヨセフが野に見に行った「兄たち」の中に、はっきり名前が出てくるのは長兄ルベンとユダだけです。
 しかし、38章の書き出しは、「そのころのことであった。ユダは兄弟たちから離れて下っていき、その名をヒラというアドラム人の近くで天幕を張った。(38章1節)
 そこでユダは、カナンで、その名をシュアと言う人の娘を見そめ、彼女をめとって彼女のところに入った。(2節)
 彼女はみごもり、男の子を産んだ。彼はその子をエルと名づけた。(3章)


 〈そのころ〉が、ヨセフが売られたのと同じ時期だとすると、ヤコブは、ラバンのところに十四年いて、ヨセフが生まれた直後、ラバンに故郷に帰らせて欲しいと申し出、それから六年ラバンのところで働きました。そのヨセフが十七歳ですから、ユダは二十五歳以上にはなっていたのでしょう。
 しかし、話はもっと先に進みます。ユダにはエルのつぎに、もう二人子供が生まれます。それぞれ、オナンとシェラと名づけられます。

 話は、込み入ってきます。ユダは長子エルにタマルという妻を迎えてやります。ところがエルはまもなく死んでしまいます。死んだ理由は、「主を怒らせていたので」と書かれているだけです。
 長兄が、子どもを残さないまま亡くなった場合、ユダヤの習慣では、次兄が長兄の妻の所に入り、彼女に子どもを産ませることになっていました。この場合、生まれてくるのが次兄の子どもであっても、長兄の子どもとなるのです。
 オナンは子どもを作っても自分の子にならないと知っていたので、兄嫁のところに入ったけれども、けっきょく、交わりませんでした。これは、「主を怒らせたので」、オナンも死んでしまいました。
 つぎに、三番目の息子がエルの妻のところに入らなければいけないのです。しかし、ユダは「わが子シェラ(三男)が成長するまで、あなたの父の家でやもめのままでいなさい」とタマルにいいました。(11節)

 じっさいには、ユダはシェラもまた、死んではいけないと思ったので、タマルに近づけなかったのです。


 やがて、ユダの妻も死に、その喪が明けた時、ユダは羊を追ってティムナと言うところに行き、そこで、道端に座っていた遊女を誘い、その女のところに入りました。
 じつは、それは、嫁のタマルで、彼女はユダが三男をタマルに与えなかったので非常手段に出たのです。遊女の身なりをし、顔も覆っているので、ユダは嫁とも気がつかず関係をもってしまいます。タマルのほうは、彼に報酬の子やぎをもらうまでの担保として、彼の印形とヒモと杖をあずかります。
 彼はその時いっしょだった友人に、遊女に渡してくれるように子やぎを託して、担保の品々を取り返そうとしたのですが、その後、その場所に遊女は見つからず、土地の人によればその町には遊女などいたこともないとの返事です。あまり詮索すると、結局自分の恥になるので、ユダは担保の品々を取り返すのを諦めました。

 ところがしばらくすると、嫁のタマルが売春してみごもったらしいと、告げ口するものがありました。
 そこでユダは言った。「あの女を引き出して、焼き殺せ。」(24節)
 彼女が引き出されたとき、しゅうとのところへ使いをやり、「これらの品々の持ち主によって、私はみごもったのです。これらの印形とひもと杖がだれのものかをお調べください」(25節)
 もとより、それが自分のものであると、ユダは気がつき、いいました。
「あの女は私より正しい。私が彼女にわが子シェラを与えなかったことによるものだ。」(26節)


 人がもし息子の嫁と寝るなら、ふたりは必ず殺されなければならない。彼らは道ならぬことをした。その血の責任は彼らにある。(レビ記20章12節) 出エジプトの後に、このような掟ができるのですが、ユダには、このような自覚はあったのでしょうか。

 その後、月が満ちて、タマルは双子を産みました。しゅうとユダの子どもです。
 今の常識からすると、なんともすさまじい話です。夫が子どもを持つ前に亡くなったら、その兄弟によって子どもを作るというのは、後にレビラート婚と呼ばれて制度化したようですが、日本などにはない習慣なので理解しがたいものです。
  
 聖書がなぜ、このような事件をわざわざ載せているのでしょう。よく知られているように、後に、ユダ族からダビデ王(第一サムエル記参照)が出ます。その血筋に異邦の女ルツがいること、またルツの夫となったボアズの母は遊女ラハブであること。これは、イエス様の祖先にもそのような異邦人また、卑しい出自の女がいることによって、神の救いがあまねくすべての外国人、またどのようないやしい身分の人・罪びとにも及ぶと説明されています。
 じっさい、第一歴代誌2章の系図では、タマルが生んだ二人の子供ベレツとゼラフは、ユダの子どもとして記され、ベレツの子孫から、ボアズ、オベデ、エッサイ、ダビデと出てきます。
 



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2010年11月02日

Coffee Break71 濡れ衣




 エジプトに連れて行かれたヨセフを買ったのは、ポティファルと言うパロ(エジプトの王)の侍従長でした。侍従長はたちまちヨセフを気に入って、重用しました。と言うのも、ヨセフは何をさせても上手で能力があったからです。

 聖書はこれを、「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり」と書いています。
 主人はヨセフに家の中の仕事をさせただけでなく、まもなく、「彼を側近とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。」のでした。

 外国人の奴隷に財産管理を任せるなんてよほど傑出していたのでしょう。計数に明るいだけでなく、信頼できる人柄でなければ、そこまで任せられるはずがありません。

「主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。」(5節)
 この意味は、家政に無駄がないといった消極的な意味ではなく、この主人のもっている畑や家畜などの財産が殖えたことを示しているのではないでしょうか。
 そして、とうとう、主人は自分の飲み食いのことだけ心配していれば良くなったというのです。


 こうしてみると、ヤコブがとりわけヨセフを可愛がったのは、たんに愛妻ラケルの生んだ子どもだったとか、年寄りになってできた子供だっただけではなく、ヨセフはいかにも利発で、人柄が可愛げで、ほかの兄弟に比べて秀でていたのかもしれないと思われてきます。
 そのうえ、ヨセフは「美男子で体格も良かった」とあります。
 頭が良くて、人好きがして、仕事にそつがなくて、ハンサムだったと言うのです。まさに天与の美質を備えていたのです。

 けれども、完全であるのは、落とし穴も多いのです。
 あろうことか、主人ポテファルの妻が、ヨセフに恋慕して言い寄りました。ヨセフは神がともにいてくださるような人ですから、もとより、誘惑に応じません。

「ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥様だからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」(39章9節)

 それでも、彼女は毎日のようにヨセフに言い寄るので、ヨセフはなるべく彼女に近寄らないように注意していました。けれども、わなか、偶然か、ある時仕事のために家の中に入っていくと、主人の妻だけがいて否応なく、ふたりきりになりました。この時とばかり、彼女は彼の上着をつかんで、「私と寝ておくれ」と誘惑します。
 ヨセフはあわてて逃げたのですが、彼女が上着を引っ張っていたので、脱げた服を残してきてしまいました。
 主人の妻は大騒ぎして家の者を呼び、服をみんなに見せて、「これこのように、言い寄られて暴行されそうになった」と訴えます。

 主人が帰ってきたら、もちろん、彼女は上着を見せて、訴えました。
「あなたが私たちのところに連れて来られたヘブル人の奴隷は、私にいたずらしようとして私のところに入ってきました。(17節)
 私が声を上げて叫んだので、私のそばに上着を残して逃げました。」(18節)


 主人は妻の訴えを聞いて、激怒し、ヨセフの言い分も聞かず、牢に入れてしまいました。

 こうして、ヨセフは、一転、濡れ衣を着せられて、囚人にされてしまうのです。
 しかし、神はやはり、ヨセフとともにいて下さいました。



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2010年11月03日

Coffee Break72 神に召された人




 つまずいても再起する人を、起き上がりこぼうし(起上小法師)と言いました。この言葉はもともと、だるまの底におもりをつけた人形のことです。ことわざ、「七転び八起き」もだるまを連想させます。
 私たちはだれも、差はあれ、「きつい」時期に直面します。私たちクリスチャンの用語では「試みに逢う」のです。自分の油断や不注意で招く不運もありますが、「自分は落ち度がないのにどうしてこんな目に?」と思うこともあります。そして、不運にあっても、それがかえって、益となって将来報われるような人生を願います。
 
☆☆☆☆

 ヨセフは冤罪で、取り調べもなく監獄に入れられました。ところが彼は、よほど人好きがする人間だったのでしょうか。今度は、監獄の長が彼を引き立ててくれるのです。同じ囚人でも、監視される側ではなく、監獄内を管理し、囚人たちをまとめる役に抜擢されます。ヨセフは役目を与えられると、だれよりも上手に効率よく仕事を果たすのです。
 なるほど、ヨセフは頭が良く、気が利いて「できる」男だったのだと思いたくなります。どうすれば、自分もあやかれるのかしらなどと、つい思ってしまいます。
 聖書は答えます。

「監獄の長はヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしてもそれを成功させてくださったからである。」(創世記39章23節)

☆☆☆☆

 はじめに申し上げたように、聖書は神が主役の物語です。ですから、物語の進行の要所は、神さまの人間に対するお取り扱いにあるのです。
 アブラムが召し出されたのも、イサクが生まれたのも、サラとハガルの間に起こった悲劇も、イサクの結婚も、ヤコブの苦労もヤコブが四人もの妻をめとり、十二人の息子を持つに至るのも、神様のかれらへのお取り扱いなのです。
 アブラハムも神様から試練を受けています。約束を延ばされ、それゆえに、信仰が高められ確かになっています。イサクはそのような父を見ていましたから、まず、アブラハムの神を認め、すなおな、神の御心に適った人でした。ヤコブは生身の人間の欲望やアクの強さにしたがって生きるような人間でしたが、それを、神様は何度も試練に逢わせることで修正し、彼もしだいに信仰の人に変えられていきます。

 ヨセフはどうでしょう。
 ヨセフは、父ヤコブに愛され、天真爛漫にいい気になっているような若者でした。エジプトに売られるまで、ヨセフが祈ったとか、神と対話したとかの場面はありません。もちろん、ヤコブの家では毎日、神礼拝をしていたでしょうから、ほかの兄弟や一族のものと同じような信仰はあったでしょう。
 ただ、特別に、神が彼に顕現されたことはなかったのです。
 ヨセフへの神の働きかけはふしぎです。彼が、苦しんで神と対峙するとか、神様と「祈りの相撲」をとるとか、神の声を聞くわけでもないのに、ヨセフがエジプトで働くようになると同時に、神がともにいて、すべてを「良く」してくださったのです。

 ポティファルの妻の誘惑は、たんに三文小説的な「女からの誘惑」だったのでしょうか。やはり神がヨセフを「試みられた」のではないでしょうか。
 それを意識していたかどうか、ヨセフは神の御心に適う対応ができました。神がともにいてくださったからです。

「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」(39章9節)
 もし、ここで、彼が性的誘惑に負けていたら、彼の人生は終わっていたはずです。
 入獄した時にも、また、神様がともにいてくださったので、彼はさらに大きな幸運を手にします。
 
 新約聖書で、パウロは次のように語っています。

 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8章28節)

 旧約聖書に精通していたパウロの頭の中に、このときのヨセフの境遇があったのではないでしょうか。同じローマ人への手紙で、旧約聖書について、彼は書いています。

 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望をもたせるためです。(ローマ15章4節) 

 ヨセフはもちろん、神のご計画に従って召された人でした。





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2010年11月04日

Coffee Break73 夢を解く




 ヨセフが牢に入れられたのは冤罪でした。けれども、ヨセフの場合、この不幸は、先で、以前にもまして高い地位に上るきっかけになったのです。

 ある時、ヨセフが管理している監獄に、ふたりのパロ(エジプト王)の側近が送られてきました。一人はパロの料理長、もう一人はパロの献酌官でした。これらの仕事は、のちの時代もそうですが、宮廷の中で高い位にあるのです。王さまのような権力のある人は、毒殺される危険性がいつもあるのです。ですから、食事関係にはとくに気を使い、信頼できるものをはべらせます。時代は一千年ほど下りますが、ペルシャに捕囚となっていたネヘミヤも、ペルシャ王アルタシャスタ一世の献酌官でした。彼は王の信頼がある人物だったので、エルサレムに帰還させてもらい、城壁を築くのです。(旧約聖書ネヘミヤ記)

 ふたりが、何が原因で牢に下ったのかは書かれていません。何しろ、パロは絶大な権力があるのですから、きげんを損ねるとそのようなこともあったのでしょう。

 ヨセフはふたりの世話をしていましたが、ある朝、彼らは、前夜見た夢を気にして落ち着きません。
 ヨセフは、どうしたのですか。と尋ねました。

 ふたりは彼に答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」
「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」(創世記40章8節)


 最初に献酌官が答えます。

「夢の中で、見ると、私の前に一本のぶどうの木があった。(9節)
 そのぶどうの木には三本のつるがあった。それが芽を出すと、すぐ花が咲き、ぶどうの房が熟して、ぶどうになった。(10節)
 私の手にはパロの杯があったから、私はそのぶどうを摘んで、それをパロの杯の中にしぼって入れ、その杯をパロの手にささげた。」(11節)
 ヨセフは彼に言った。「その解き明かしはこうです。三本のつるは三日のことです。
 三日のうちにパロはあなたを呼び出し、あなたをもとの地位に戻すでしょう。(13節)


 この解き明かしのあと、ヨセフは、献酌官がもとの役職に復帰した時、自分のことをパロに話してくれるよう頼みました。自分はもともと誘拐されてきたのであり、その上、濡れ衣を着せられて牢に入ったのだと、事情を語ります。

 料理長の方は、献酌官の夢がよい解き明かしだったので、自分の夢も解いてくれと頼みました。
 その夢は、料理長の頭の上にカゴが三つ載っていて、一番上のカゴには料理長が作ったたくさんの料理が入っていたが、鳥が来て、みな食べてしまったというのです。
 
 ヨセフは答えて言った。「その解き明かしはこうです。三つのカゴは三日のことです。(18節)
 三日のうちに、パロはあなたを呼び出し、あなたを木につるし、鳥があなたの肉をむしり取って食うでしょう。」(19節)


 はたして、その通りになったのです。三日目はパロの誕生日で、盛大な祝宴が開かれ、料理長と献酌官はともに牢から出されたのですが、献酌官がもとの地位に戻されたのに対し、料理長は木につるされた(死刑にされた)のでした。

 死刑になると言うような悪い夢を、率直に解き明かして相手に告げるヨセフに、ただ驚くばかりです。夢占いはいまもあるでしょうが、これほどはっきりと、最悪の結果を予言する占い師はいないのではないでしょうか。ヨセフが、占いを商売としてではなく、神の導きで解き明かすのだという自信が読み取れます。そうしてまた、そうであればこそ、的中したのでしょう。


 夢の解き明かしのとおり、復帰できた献酌官でしたが、なぜかヨセフのことを、パロに話してくれませんでした。「忘れてしまった。」(23節)のです。
 でも、これもまた、ヨセフには益になったのです。




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2010年11月05日

Coffee Break74 パロの夢




 ヨセフは料理長と献酌官が牢を出た後、何か沙汰があるかと待っていたに違いありません。けれども、献酌官はヨセフのことをパロに取り次いでくれませんでした。
 二年が経ち、ヨセフは三十歳になっていました。

 その頃、パロは気がかりな夢を見ました。
 ナイルから肥えた牛が七頭上がってきて、葦の中で草を食べています。その後を追って、痩せた醜い牛が七頭上がってきたかと見る間に、痩せて牛が肥えた牛を食べてしまったのです。

 パロは、胸騒ぎがして目が覚めました。しかし、再び寝入りました。
 すると、また夢を見ました。よく肥えた七つの穂が一本の茎から出てきました。そして、すぐそのあとに、しなびた穂が出てきて、肥えた穂を飲み込んでしまったのです。


 朝、パロは家来に命じて、エジプト中の呪法師と学者を呼び集め、自分の夢を話して解き明かしさせようとしました。ところが、解き明かしをできるものがいません。
 それを聞いた献酌官は、ようやくヨセフのことを思い出したのです。
 直ちにヨセフは牢から出されて、王の前に連れてこられました。

 
 パロはヨセフに言った。「私は夢を見たがそれを解き明かす者がいない。私はあなたについて言われていることを聞いた。あなたは夢を聞いて、それを解き明かすということだが。」(創世記41章15節)
 ヨセフは言った。「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」(16節)


 それで、パロは夢の内容をヨセフに話しました。
 ヨセフは、即座にパロの夢を解き明かしました。


「七頭のりっぱな牛は七年のことです。七つのりっぱな穂も七年のことです。それは一つの夢なのです。(26節)
「そのあとから上がってきた七頭のやせた醜い雌牛は七年のことで、東風に焼けた七つのしなびた穂もそうです。それはききんの七年です。(27節)
 これは、私がパロに申し上げたとおり、神がなさろうとすることをパロに示されたのです。(28節)


 ヨセフはまもなく、七年の豊作が訪れ、そのあと、つぎの七年はききんになることを告げました。そのききんはとても厳しいものなので、エジプトがききんで滅びないよう、いますぐ知恵のある人をしかるべき役職につけ、豊作のあいだに穀物を蓄えなさいと、パロにアドバイスをします。
 パロは大変感動し、忠告のとおりにすべきだと思い、家臣に言います。

「神の霊の宿っているこのような人をほかに見つけることができようか。」(38節)
「あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは、王位だけだ。」(40節)

 パロは自分の印章である指輪を手から抜いて、ヨセフに渡しました。ヨセフに亜麻布の着物を着せ、金の首飾りを掛け、自分の第二の車に乗せ、みんなに「ひざまづけ」と命じます。

 こうして、ヨセフは、エジプトで、一躍パロに次ぐ地位のものになったのです。劇的な境遇の逆転です。

 パロはヨセフに言った。「わたしはパロだ。しかし、だれもあなたの許しがなくては、エジプト中だれも手足を上げることもできない。」(44節)
 なんという権力でしょう。

 その上、パロはエジプト人祭司オンの娘のアセナテを、ヨセフの妻として与えました。
 アセナテとの間の男の子マナセとエフライムも、イスラエル民族形成に参加するのです。



 
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2010年11月06日

Coffee Break75 大飢饉




 パロの夢を解き明かしたヨセフは、その場で宰相に任命されました。まさに、夢のような話です。ちょっと眉に唾をつけたくなるほどです。

 日本人なら、貧しい足軽から、権力者として最高の地位に上り詰めた豊臣秀吉を知らない人はいないでしょう。でも、その秀吉も、一朝一夕に太閤殿下と呼ばれるようになったのではありません。とても苦労をして、たくさんの命を張った戦さで獅子奮迅に働いて、さらに、いくつもの幸運が重なって、何十年もかけて、だんだん出世していったのです。

 ヨセフがパロの命令で、いきなりパロに次ぐ権力者になったいきさつはまったく違います。これは神様の物語だからです。人間の頭で考えると、ありえないような話です。
 それが、聖書のおもしろさだと私は思います。また、それゆえ、「わからない」「おもしろくない」と思う人もいるかもしれません。

☆☆☆☆


 きっかけは、パロが見た一夜の夢でした。ヨセフがその解き明かしに呼ばれたのは、その前に宮廷の料理人と献酌官の夢を解き明かし「的中した」実績があったからです。
 ヨセフは占い師ではありません。また、知ったかぶりをして、自分の頭で考えた推理を話したのでもありません。
 ヨセフの前に、エジプト中の呪法師や学者が呼ばれているのです。彼らができない解き明かしを、学者でもなく、呪法師としての訓練も受けていないヨセフができたのはなぜでしょう。

 ヨセフ自身が言明しています。
「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」(16節)

 神はパロにも働かれたのです。ヨセフの話を聞いて、パロは以下のような感想を洩らすのです。

「神の霊の宿っているこのような人をほかに見つけることができようか。」(38節)
 

 たとえば、ヨセフの父ヤコブが湿った岩陰に生え広がるしぶとい羊歯だとすると、ヨセフは生まれつき、日差しの中のきらめきにいる大輪のゆりのようです。奴隷に売られて苦労をするのですが、ヤコブが伯父ラバンの家でするような「耐える」イメージがありません。初めから、神がともにいてくださって、ポティファルの家でも、牢獄でも上司の目を引き、たちまち取り立てられるのです。

☆☆☆☆☆

 ヨセフは、エジプトの宰相となって豊作の七年間に、穀物を蓄えました。
 はたして、そのあとに、ひどいききんがやってきました。それは「世界中」に及んだと聖書は書いています。この「世界中」は、今私たちが考える世界中ではないでしょう。聖書がはじめユダヤ民族に与えられたものとして書かれたのですから、エジプトと中東全域でしょうか。エジプトはとくに穀倉と言われるほど豊かな土地だったのですが、それがききんになるのですから、ほかは推して知るべしでしょうか。アブラハムの時代もききんが起こってエジプトに避難した(創世記12章10節)と、聖書にあります。
 
 「備えあれば憂いなし」。ヨセフはたくさんの穀物を蓄えておいたので、まず、エジプトの国民にそれを放出することができました。放出と言ってもお金で売るのですから、パロの家は豊かになります。当時の政治制度は、今と違って国民の福祉などと言う概念はありません。パロの家を富ませたヨセフの名声は上がったことでしょう。
 その上、近隣の国に、「エジプトに行けば穀物がある」と知れましたから、みんなが買い付けに来ました。ここでも当然お金が集まることですから、こうしてエジプトはますます富みます。すべて、ヨセフの先見の明(じつは神のことば)のなせるわざです。
 
 もっとも、ヨセフ物語の主眼は、ヨセフのきらめくような出世を語ることではありません。神にはもっと深遠なご計画があったのです。
 カナンにいたイスラエル(ヤコブ)とその家族も、ききんに直面していました。エジプトには穀物があると聞いたヤコブは、末っ子ベニヤミンを除いた息子十人に、穀物の買い付けに行かせるのです。
 そこで、ヤコブの十人の息子たちは、ヨセフと対面することになります。もっとも、その時、ヨセフはカナンで隊商に売られてから二十年以上が経っていました。三十八歳以上だったでしょう。エジプト人の身なりをし、通訳つきで彼らと話をするりっぱな宰相がヨセフだとは、兄たちはだれも気がつきませんでした。
 しかし、ヨセフの方は兄たちに気がつきました。
 穀物を手に入れるため、ヨセフにお辞儀する兄たち。かつて、兄たちを怒らせた夢はそのとおりになったのです。そう思う時、彼の心のなかは複雑だったでしょう。
 ヨセフは懐かしさを隠して、一計を案じました。ヨセフは、同じ母から生まれた弟ベニヤミンを連れてくるように彼らに言いつけ、それまでの人質としてシメオンを拘置するのです。





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2010年11月07日

Coffee Break76 悲壮な旅立ち




 兄弟たちと出あったヨセフは、泣きたいようななつかしさを胸に押し隠して、いろいろと策を練ります。

 その第一。兄たちに「おまえたちはエジプトの様子を探りに来たスパイだ」と言いがかりをつけました。兄たちが「とんでもありません。私たちはカナンに住むヘブル人で、十二人兄弟でした。そのうちの一人はいなくなりましたが、末っ子を置いて十人がいまここに来ています」と、必死に訴えます。しかし、ベニヤミンに逢いたいヨセフは、シメオンを縛り、「おまえたちの弟を連れてきたら、話しを信じてやる」と言って、拘置してしまいます。
 第二。彼らが持ってきた袋に穀物を満たしてやりますが、しもべに命じて、受け取った銀(お金)を全部、それぞれ袋の口に戻しておきます。

 ヤコブの息子たちが、カナンに帰る途中、ろばに餌をやろうと袋の口を開けると、それぞれの袋に払ったはずの銀があるではありませんか。彼らは震え上がりました。何かのワナだと気がついたのです。相手はエジプトの宰相です。何かあっても、争えば勝ち目はありません。

 カナンに戻って、彼らは父ヤコブに、ことの一部始終を話します。
 ヤコブは歎きます。

「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかってくるのだ。」(42章36節)

 ルベンは長子として責任を感じたのでしょう。
 もし、ベニヤミンを連れ帰ることができなかったら、私の二人の子供を殺してもかまいませんから行かせて下さいと言います。
 ルベンの二人の子は、ヤコブにとって孫に当るのだからこの人質はあまり有効ではない気がするのですが、昔のカナンでは有効だったのでしょうか。案の定、ヤコブはそんな条件を飲みません。

「私の子は、あなたがたといっしょに行かせない。彼の兄は死に、彼だけが残っているのだから。あなたがたの行く道中で、もし彼にわざわいがふりかかれば、あなたがたは、このしらが頭のわたしを、悲しみながらよみに下らせることになるのだ。」(38節)

☆☆☆☆


 もう、だれもエジプトにやるまいと、ヤコブは思ったのでした。
 一方、夢で神託を受けたヨセフは、すべてを見通していました。ききんは七年間続くことになっているのです。いずれまた、ヤコブの息子たちは穀物を買いにエジプトにやってくる・・・。

 じっさい、穀物を食べつくした時、ヤコブは息子たちに、またエジプトに行くよう頼みました。
 それで、ユダが父に、ベニヤミンを連れて行かなければ、食料を売ってはもらえないことを、もう一度、告げました。
 ヤコブは憤慨して、息子たちに言います。

 なぜ、おまえたちは、国に弟がいるなどと、余計なことを言ったのだ!
 息子たちも必死で言い訳をします。
 あの方(エジプトの宰相)が、あなたがたの父はまだ元気で生きているか。あなたがたに弟はいるかと、しつこく聞くので、つい答えてしまったのです。まさか、弟を連れて来るように言われるなど、思いもしませんでした。

 故郷のこと、父ヤコブやベニヤミンのことを知りたいヨセフが、誘導尋問したとは、夢にも思っていないのですから、話はかんたんではありません。
 ユダが父に取り成します。
 
 私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一彼をあなたの元に連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪あるものとなります。(43章9節)


 とうとう、ヤコブは、息子たちを行かせることにします。綿密な性格のヤコブらしく、みやげ物などの手配も指図します。
 彼らは父が命じたとおり、カナンの名産品である香油、蜂蜜、香料、薬草、くるみ、アーモンドなどを、宰相への贈り物として積み込みました。支払い用の銀も前回に返してもらったものの上に、今回は穀物を前回の二倍の値段で買うよう用意していきました。


 全能の神があなたがたをあわれませてくださるように。そして、もう一人の兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も失う時は失うのだ。(14節)

 ヤコブのこの言葉には、彼の悲壮な思いがにじんでいます。背に腹は替えられません。一族が餓死する危機なのです。エジプトの宰相の無理難題をも聞くしかないと、決意したのでしょう。

 こうして、息子たちはまたキャラバンを仕立ててエジプトに向かいます。
 恐れ、おびえている彼らの前に、意外な展開があるのです。



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2010年11月08日

Coffee Break77 熱い涙




 この頃、エジプトに穀物を買い付けにきた人の数は、数え切れないほどだったでしょう。何しろ、中東全域が大飢饉なのです。よほど貧しい人は、座して飢え死にしたでしょうが、ろばやらくだをもっていて旅費がある人なら、やってきたに違いありません。穀物を売る販売所も一箇所ではなかったでしょう。ナイル沿いにある町々に販売所ができて、そこに人々が長い列をなしている様子が見えるようです。
 ただ、この話について、一つ疑問に思われる方がいらっしゃるかもしれません。ヨセフはエジプトでパロに次ぐ最高の権力者です。穀物の放出を指示したのもヨセフです。けれども、そのようなトップにいる人が、買い付けにきたおびただしい人々の中から、どうして、自分の兄弟と接点を持つことができたのでしょう。最初にヤコブの息子たちがエジプトに行った時、穀物の販売所のような場所にヨセフがいたのはなぜでしょう。


 販売所が、人種、民族、部族、地域の人ごとに分かれていたのでしょうか。ヨセフには神が共におられたのですから、兄弟が来ると、なんらのお告げがあったのでしょうか。

 二度目の時は、シメオンを人質に取られているので、最初から、兄たちが、「宰相様にお会いしたい」と申し込んだのでしょう。
 ヨセフは、兄たちが弟ベニヤミンを連れて戻ってくる日を、首を長くして待っていたに違いありません。確信はありました。なぜなら、彼らが最初に買って帰った穀物は、せいぜい一二年しかもたず、ききんは七年続くからです。

今から考えると,
想像できないほど、イスラエル(ヤコブ)一家の家族愛と結束は強かったのです。兄エサウから祝福を奪ったヤコブでさえ、兄と再会すると、泣いて抱き合ったのです。(創世記33章1〜4節)
父に可愛がられていい気になっている少年ヨセフに、腹を立てて売り飛ばしてしまった兄たちですが、その嫉妬は他人同士ではなく、兄弟だからこそ起こったものです。父ヤコブの愛をみんな欲しかったのです。
 家族はとても近い関係なので、愛憎が背中合わせになっているものです。エジプトで奴隷に売られたあと、ヨセフにもそのような人の心のひだが、だんだんわかってきたでしょう。ですから、兄たちがシメオンを見殺しにするはずがないと信じていました。

 部下から、ヘブル人(ユダヤ人の別名)が戻ってきたと聞いたヨセフは、直ちに彼らの様子を見に行き、弟ベニヤミンがいるのを(たぶん、物陰から)確かめると、家の執事に彼ら全員を自分の屋敷に連れて行くよう、また宴会の準備をするように言いつけます。
 驚いたのは、ヤコブの息子たちです。

 なぜ?と言うわけです。
 一介の買出し人、それどころか前回はスパイの容疑を掛けられて、シメオンを拘置されてしまったのです。袋に買い付け代金の銀が戻されていたのも不可解。何が起こるかわからないこわい世界です。
 今度はいきなり、宰相の御殿のような屋敷に案内され、これも何かのワナだと恐れました。そこで執事に平身低頭して言いました。

「失礼ですが、あなたさま。この前の時には私たちは食料を買うために下ってきただけです。(創世記43章20節)
 ところが、宿泊所に着いて、袋をあけました。すると、私たちの銀がそのままそれぞれの袋の口にありました。それで、私たちはそれを返しに持って来ました。(21節)
 また、食糧を買うためには、ほかに銀を持ってきました。袋の中にだれが銀を入れたのか、私たちにはわかりません。」(22節)
 彼は答えた。「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのに違いありません。あなたがたの銀は私が受け取りました。」それから、彼はシメオンを彼らのところに連れてきた。(23節)


 執事の返事が、ふるっています。
 穀物の袋に戻っていた銀は、「あなたがたの父の神がくださったのでしょう。あなたがたが支払った穀物の代金の銀は、私が確かに受け取ったのですから」と言う訳です。
 そう言われてしまっては、彼らも返すことばがありません。
 足を洗う水を出されたので足を洗い、ろばに餌をやって、宰相に持ってきた土産類を出し、整え、ヨセフを待っていました。

 やがて戻ってきたヨセフに、全員が頭を地に付けて平伏しました。
 ヨセフは尋ねます。


「あなたがたが先に話していた、あなたがたの年老いた父親は元気か。まだ、生きているのか。」(27節)
 ヨセフは目を上げ、同じ母の子である弟のベニヤミンを見て言った。「これがあなたがたが私に話した末の弟か。」そして言った。「わが子よ。神があなたを恵まれるように。」(29節)
 ヨセフは弟なつかしさに胸が熱くなり、泣きたくなって、急いで奥の部屋に入って行って、そこで泣いた。(30節)


 ヨセフ物語は、涙の物語ですが、その涙は冷たい悲しい涙ではなくて、熱い涙です。
 懐かしい肉親に再会して、ヨセフは熱い涙を流すのです。異郷で神様に守られて「成功」した彼も、ホームシックを心の奥深くにたたみ込んでいたのでしょう。一時は兄たちを恨んだかもしれませんが、それでも、生まれ育った家族のぬくもりの記憶は、宰相としてまわりから払われる敬意や満足では贖えないほど、強かったのです。

 威厳を繕っていた彼は、涙を人に見せることもできず、奥の部屋に行って泣くのです。




 
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2010年11月09日

Coffee Break78 またしても




 ヨセフは自分の屋敷に兄たちと弟ベニヤミンを招いて、そこで宴会を開きます。この宴会は、ヨセフはヨセフだけの席。エジプト人はエジプト人だけ。ヨセフの兄たちとベニヤミンは、へブル人専用の席と三つに分かれていました。ヘブル人は、たぶんエジプト人から差別されていて同じ席というわけには、いかなかったのです。

 部屋はかなり広いものでしょうが、ヨセフは、へブル人の席に来て召使に彼らの席順を指示したというのです。(創世記43章33節)
 これが、正確に年長者から順番になっていたので、ヤコブの息子たちは大いに驚きました。
 また、ご馳走は主人のところにいったん運ばれ、そこから、各席に配られたのです。召使がヨセフの命令どおり、分け前を彼らの前に配りました。しかし、ベニヤミンの分は、ほかの兄弟の五倍も多かったとのです。

 このような場面は、今の日本人には理解しがたいところです。貧しいならとにかく、ものすごい富と権力を持っている人なのだから、最初からそれぞれの席に食べきれないほどのご馳走を配ればよいのにと思うのです。
 ともあれ、彼らはヨセフと共に酒を飲み、酔いごこちになったのです。でも、宰相がヨセフだとは、だれも気がつきませんでした。
 ヨセフは、さびしかったでしょう。何度も接触しても、だれも自分に気がつかないのです。

☆☆☆☆


 さて、ヨセフは家の管理者に命じて言った。「あの人々の袋を、彼らが運べるだけの食料で満たし、おのおのの銀を彼らの袋の口に入れておけ。(創世記44章1節)
「また、私の銀の杯を一番年下の者の袋の口に、穀物の代金といっしょに入れておけ。」(2節)
 明け方、人々はろばといっしょに送り出された。
 彼らが町を出てまだ遠くへ行かないうちに、ヨセフは家の管理者に言った。「さあ、あの人々のあとを追え。追いついたら彼らに、「なぜ、あなたがたは悪をもって善に報いるのか。(4節)
 これは、私の主人が、これで飲み、また、これでいつもまじないをしておられるのではないか。あなたがたのしたことは悪らつだ』と言うのだ。」(5節)
 彼は彼らに追いついて、このことばを彼らに告げた。(6節)



 ヨセフはまたしても、兄弟をハメたのです。しかも、ベニヤミンの袋に、ヨセフの銀の杯を入れておいたのです。
 その上で、部下に一行を追いかけさせたのです。
 みんなびっくりしました。
「しもべどものうちのだれからでも、それが見つかったものは殺してください。そして、私たちもまた、ご主人の奴隷となりましょう。」(9節)

 これは、いかに自分たちが潔白であるかの、逆説的な言い方です。
 ところが、荷物を下ろして調べると、ベニヤミンの袋から出てくるのです。
 一行は、また、ひかれる罪びとのようにうなだれて、ヨセフのところへ引き返していきます。


 ヨセフが兄たちと会った後の、物語の流れを見ると、最初、スパイだと言いがかりをつけた事件。穀物の袋に支払いの銀を返しておいた事件。宴会の席順。ベニヤミンへの特別待遇と、作為的な行動が続きます。すべては、ヨセフが兄弟を懐かしがり、みんなが自分に気がついてくれるよう願ってやったことなのです。
 でも、あまり洗練されたやり方だとは思えません。どうして、はっきり、「兄さん。ベニヤミン。ぼくはヨセフです。おひさしぶりです」と言わないのと、わたしなどは思ってしまいます。

 しかしながら、さんざん逡巡した兄弟たちとの出会いの物語は、ベニヤミンがターゲットになることで、感動的な見せ場に向かうのです。



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2010年11月10日

Coffee Break79 骨肉




 またしても、盗みの疑いを掛けられて戻ってきた兄弟たちに、その仕掛け人ヨセフは言います。

「あなたがたのしたこのしわざは、何だ。私のような者はまじないをするということを知らなかったのか。」(創世記44章15節)

 ユダが答えた。「私たちはあなたさまに何を申せましょう。何の申し開きができましょう。また、なんと言って弁解することができましょう。神がしもべどもの咎をあばかれたのです。今このとおり、私たちも、そして杯をもっているのを見つかったものも、あなたさまの奴隷となりましょう。」(16節)

 しかし、ヨセフは言った。「そんなことはとんでもないことだ。杯をもっているのを見つかった者だけが、私の奴隷となればよい。ほかのあなたがたは安心して父のもとへ帰るがよい。」(17節)



 ここで、私たちに、やっとヨセフの真意がわかります。

 ヨセフは、前回、兄弟たちと出会ったときから、肉親の情をかき立てられているのですが、父とベニヤミン以外には、屈折した思いがあるのです。自分が「若くて、思い上がっていた」とはいえ、兄たちに売られたのです。売られるまでのいきさつはわかりますが、売られる場面は、聖書にも詳しい描写はされていません。「銀二十枚で売った」と書かれているだけです。(創世記37章28節) けれども、ヨセフを縛り上げて、砂漠の商人に売りつけるときには、なんらかの暴力もあったことでしょう。売られて見知らぬ土地に運ばれながら、ヨセフは、どれほど悔し涙を流し、歯軋りしたことでしょう。
 そのつらい思い出が、なつかしさを屈折させたのです。


 ヨセフは、同じ母ラケルから生まれたベニヤミンをエジプトに留め置いて、ほかの兄弟は国へ帰らせるつもりだったのです。
 しかし、そこで、兄ユダが「自分が弟の身代わりになる。ベニヤミンを帰らせてくれ」と、その理由をとうとうと語り出します。
 ベニヤミンが父の年寄り子で、とくに親密で離れがたい。同じように可愛がっていたもう一人の弟は死んでしまったので、この弟もいなくなることは、老いた父親の寿命を縮めることになりますというものでした。
「今回、穀物を買いに来る時も、父はベニヤミンを連れて行くなといったのですが、あなたさまが、連れてこなければ会って下さらないと思って、無理に父を説得してきたのです。
 父は言いました。
 『あなたがたがこの子をも私から取ってしまって、この子にわざわいが起こるなら、あなたがたはしらが頭の私を、苦しみながらよみに下らせることになるのだ。』(29節)

 わたしはこの子を連れて帰ると父に保証をしてきたのですから、この子を連れ帰らないわけにはいきません。どうか、この子を兄弟たちと帰らせ、代わりに私を奴隷にしてください。
 わたしは父が苦しんで死んでいくのを、見たくありません」

 ユダの、父ヤコブを思う心情、ベニヤミンと父ヤコブとの絆の深さ。それは、彼らの家族と関係のないものから見ても、美しく深いものです。まして、ヨセフは自分がそのベニヤミンの位置にいたのです。そして、今、父がそれほどベニヤミンに執着するのも、すでにヨセフを失くしたからだと、わかるのです。こうした骨肉の情がヨセフをゆさぶりました。ヨセフもまた、彼らの骨肉だからです。

 ヨセフは耐えられなくなって、まわりにいる従者やしもべに、出て行くよう命じます。
 人払いをした後、彼はついに、声をあげて泣き、兄弟たちに打ち明けるのです。
「わたしは、ヨセフです!」
 兄弟たちは、驚きのあまり、ことばもなく呆然と突っ立っていました。





         
 
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