2010年11月11日

Coffee Break80 大いなる救い




 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。(創世記45章4節)
 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。(5節)


 兄弟と対面し、兄弟に自分の素性を明かす瞬間の、このヨセフの言葉は感動的です。まさに、ヨセフは、さまざまな心の曲折を経て、やっぱり骨肉の情には勝てなかったのです。兄たちに売られたという「わざわい」を逆転して(じつは神がそうされて)ヨセフは、カナンにいたのでは想像もつかない権力と地位と富とを手に入れました。妻と二人の子どものいる家庭もあります。
 穀物を買いに来た兄たちをいじめることも、恨み言を言って追い返すこともできたのです。じっさい、そう見えなくもない場面もありました。
 そうしないで、兄たちを許すヨセフの人間性に、同じ生身の人間である私たちは、感動させられるのです。


 日本にも涙腺を緩めさせる人情話がたくさんあります。たとえば、歌舞伎十八番と言われた有名な出し物「勧進帳」。
 兄・源頼朝から追われる身となった義経主従が、奥州の藤原氏を頼って落ち延びる途中、安宅関という関所を通過するときの話です。
 関所にはすでに、回状(指名手配書)が回っていました。義経主従は山伏姿に変装していましたが、関所の役人富樫左衛門は、義経を人相書きとよく似ているため、引き止めようとします。その時、弁慶が、「おまえが義経に似ているばかりに、行く先々で疑われる。憎いやつ!」と、主人義経を棒(戒杖)で打ち据えます。心で泣きながら主人を助けるために主人を打つ弁慶の必死の姿に、富樫左衛門はもらい泣きして、彼らを見逃して通してやるのです。
 この話は、骨肉ではなく、主従の情と富樫氏の仁義を焦点にしたもので、主従関係の絆が家族以上に評価された江戸時代の人々に受け、歌舞伎の出し物として大ヒットしたものです。


 私たちの体に熱い血が流れているかぎり、いつの時代も、情にひびく話に人は感動します。

 ただ、私たちは、ヨセフ物語を人情話としてだけ見てしまうと、本質を見誤るのではないでしょうか。

 これは、聖書の中の、それも「創世記」の物語です。神がアブラハムをカルデアのウルから(じっさいにはハランから)召し出され、それを、イサク、ヤコブへ引き継がせてきた「神の人類救済計画の器となる民をお作りになる」プロセスなのです。

 一介の遊牧民だったアブラハムは、神の導きと守りのなかで、恵みと祝福を受け、一代で大きな族長となりました。その子イサクは父の信仰と財産を受け継ぎ、繁栄を生きました。イサクの双子の息子エサウとヤコブの間には、大きな確執がありましたが、ヤコブは結局カナンに戻ってきて、アブラハムの家を継ぐことになりました。
 彼らは確かに有力な遊牧民の族長だったのです。けれども、神の大きな計画に用いていただくには、その信仰、人数においてまだまだ足りなかったのでしょう。
 神はここで、彼らをより良い苗床に移して数を増やし、民族と呼ばれるほどに成長させられる必要があったのです。

 エジプトは、神が彼らイスラエルの民に備えられた、いわば「苗床」でした。
 そこに、アブラハムの直系ヤコブ(イスラエル)の家族だけが移住することが神のご計画でした。
 ヨセフは、兄弟との出会いの中で、そのことをすでに神によって示されたのでしょう。
 45章7節のヨセフの言葉は、神がヨセフにどのように働いておられるかを証しするものではないでしょうか。じつに、ヨセフは大きく神のお取り扱いを受けた器だったのです。


 それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。(7節)

 

posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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