2010年11月20日

Coffee Break89 復讐は神のもの 




 イスラエル(ヤコブ)の葬儀が終わり、エジプトに戻ってきたヨセフの兄弟たちは、彼らがヨセフに行なった悪の仕返しを、ヨセフがするかもしれないと恐れました。そこで、父ヤコブの遺言ででもあるかのように、次のようなことづけをしました。

「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました。(創世記50章16節)
『ヨセフにこう言いなさい。あなたの兄弟たちは、実にあなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい、と。』
 今、どうかあなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください。」ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。(17節)


 ヨセフが泣いたのは、一度出来てしまった兄弟との間の溝の深さを知ったからではないでしょうか。兄たちが、心から悔い改めているのではなく、恐れとおびえから、父親の遺言を装って、仕返しをしないように命じるその間違いのためではないでしょうか。

 これは、赦すことの難しさを語っていると、私には思えます。被害者が加害者を赦したと思っても、真の和解に至るのは容易なことではありません。罪を犯した側は自分の咎が、雪のように白くなったとは、なかなか信じられないのです。
 かつて、ヤコブが兄エサウに再会することを恐れ、さまざまな方法でその怒りを和らげようとしました。会ってみると、案に相違してエサウはすっかり弟を赦していて、自分の所に来るようにと招きましたが、ヤコブは丁重に断っています。猜疑心の強いヤコブの心の奥には、なおエサウが赦してくれたことが、信じきれていなかったのでしょう。(創世記32章、33章)
 ヨセフの兄弟たちの猜疑はもっともなのです。人と人との関係では、完全な赦しもまた、ありえないのです。

 ヨセフは言います。
「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。」(50章19節)

 ヨセフは、「復讐は神の権限に属することで、人間である自分がそのようなことはできない。」と言ったのです。箴言20章20節にも、「悪に報いてやろうと言ってはならない。」とあります。

 さらに、「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人を生かしておくためでした。」(50章20節)

 「復讐や報いは神のみ手の中にあることです」。というのは、人が悪を計ったと思えるようなことでさえ、じつは、良い結果をもたらすための神のご計画であったとわかるからと、ヨセフは言っています。
 
 ヨセフは、このとき、すでに、兄たちより数段高い地点で、神を信頼していました。神様から、信じられないほどの現世の利得も受けたヨセフでしたが、神の高さ、大きさ、権能を兄弟の誰よりもよく理解していました。



posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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