2010年11月21日

Coffee Break90 創世記を終えるにあたって




  のびやかに大根一本横たわる 入日に浮かぶ野菜スタンド
  白い肌 持ちおもりする そのからだ よし 買ったりと 100円入れる
  食べ方は あとの話 よくぞいま この腕の中 持ち方惑って


 これは、三年前のいまの季節に書いた歌です。
 ところどころ畑地が残る住宅街。一軒のお宅が収穫したばかりの野菜を、台に並べて売ってくださっていました。規格品でない大きな大根のみずみずしい重さに、嬉しさいっぱいだったのを思い出します。壮大な創世記の話のおわりに、なんとちっぽけなシーンをと思われるかもしれません。
 しかし、このようなとき、私は大きな大きな神様が、日を昇らせ、雨をふらせ、地上を祝福してくださっているのを思い知るのです。

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 創世記最後の50章、その最後のパラグラフ(22節〜26節)です。

 ヨセフと父の家族とはエジプトに住み、ヨセフは百十歳まで生きた。
 ヨセフはエフライムの三代の子孫を見た。マナセの子マキルの子らも生まれて、ヨセフのひざに抱かれた。
 ヨセフは兄弟たちに言った。「私は死のうとしている。神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へと上らせてくださいます。」
 そうして、ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださるから、そのとき、あなたがたは私の遺体をここから携え上ってください」と言った。
 ヨセフは百十歳で死んだ。彼らはヨセフをエジプトでミイラにし、棺に納めた。
 


 この終局は、「つづく」と追記を入れたいようなところです。
 アダムとエバが禁じられていた木の実を食べて、楽園を追放され、その子カインとアベルの間に家庭内殺人事件があり、ノアの箱舟の物語、バベルの塔の物語の後、果てしない時間経過のあと、アブラハムが召し出されました。けれども、そのアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフと続いてきた物語は、ここで終わるのではないと、誰でもわかるのです。

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 私はひとりの信徒に過ぎません。創世記を初めて読むのではありませんし、聖書通読もしましたが、とても誰かに聖書の教えをお伝えするような学びもしていませんし、力もありません。それを承知で、向こう見ずにも、聖書から、読んだことを思いつくまま文章にしてブログとはいえ公表してきました。
 
 もとより、Coffee Breakは聖書解説ではなく、エッセイです。自分が納得できるよう調べたり、解説書を読んだりはしましたが、できるだけ注解書に書いてあることを記したりしないようにしました。専門家の本や牧師の説教などを、引用したり援用したりもしないよう努めました。
 元の文章や解釈の一部だけを引用したり、援用したりするのは、その文章や説教の趣旨を損なう恐れがあります。また、未熟な自分が、背伸びして満足したり、受け売りを自分の知識と勘違いしたり、知ったかぶりをしたりする危険もあります。
 さいわいにも、毎日、祈って聖書を読み、聖霊に導かれて書くことができました。また、思いがけずたくさんの方が読んでくださっているのに、励まされました。神様と読者の皆様に、心からお礼を申し上げます。


 聖書通読はつづきますが、創世記は、きょうでおしまいです。
 創世記の最後を、このブログのリンクにある佐々木先生のサイト、聖書通読のための解説「聖書を読むぞー」・第26課「創世記」から説明をお借りして、締めさせていただきます。



 創世記は多くの意味で始まりについて記したものです。天地の始まり、人間の始まり、結婚の始まり、罪の始まり、救いのプログラムの始まり、家族の始まり、イスラエル民族の始まり、細かく言うともっとあることでしょう。これらはみな大切なことです。
 しかし、そのようなことに最初に目を奪われていると、もっと大切なことを見落としてしまいます。創世記で最も大切なことは、この書物が物事の始まりについて記したのではなく、神が万物を造り、治めておられる方であるという事実を記し、人間の救いの計画を示したものです。
 この書物は、「万物の始まりは次のような次第であった」ではなく、「はじめに神は天と地を創造された」という言葉で始まっていることに、もう一度注意しましょう。主語は万物ではなく神です。焦点は、天と地でも万物でもなく、神です。この書物は天と地がどのようにして始まったかを述べているのではなく、神がどのような方であるかを示し、神が何をしてくださったかを教えている書物です。神が聖書の影の著者、本当の著者だとすると、これは神の自己紹介なのです。神は「私こそ天と地を造った者である」と、自分をお示しになったのです。

  聖書を初めて読む人の多くはこの創世記の出だしの部分でとても感動するか、ばかばかしくて読む気を失ってしまうかするようです。現代人ならば読む気を失う人のほうが多いでしょうか。あまりにも荒唐無稽な神話か、おとぎばなしに思えてしまうからです。たとえ読み続けたとしても、この出だしの破天荒な内容からして、聖書とはこんなものかと思い違いをしてしまいます。

どのような文章にも書かれた目的があります。聖書は、神が人間に与えてくださる救いを示すために書かれたものです。その最初の部分が創世記であり、創世記は神の自己紹介、すなわち神とはどのような方かという最も大切な点からはじまります。それから人間とは何なのかが教えられ、人間と神との関係はどうあるべきかも示され、人間同士はどうあるべきかが説かれ、人間の日常生活、労働と休息の関係は基本的にどうあるべきか、極めて本質的なことが物語形式で語られているのです。そのようなことを念頭において読まなければ、聖書がわからなくなります。






    聖書箇所は、新改訳聖書から引用させていただいています。

      




posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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