2010年11月23日

Coffee Break92 出エジプトのはじまり(出エジプト記1章)



 出エジプト記は、飢饉を避けてエジプトに寄留したヤコブの子孫たちが、その地で増え広がり、民族と呼ばれるほどの大きな集団となって、やがて、エジプトを出て行く話です。
 
 神の視点から見れば、このエジプト脱出は最初から神のシナリオだったでしょう。なぜなら、アブラハムが召し出された時から、神は彼らにカナンを与えると約束をされたのです。エジプトがいかに豊かな土地であっても、それは神のお示しになった場所ではなく、しょせん一時の避難所、イスラエルの子孫が数を増やすための苗床でした。

 
 さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。(出エジプト記1章8節)
 彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民は、われわれより多く、また強い。(9節)
 さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに、敵側についてわれわれと戦い、この地を出て行くといけないから。」(10節)
 

 そこで、王はイスラエル人に苛酷な労働を課して、彼らを苦しめたというのです。端的に言えば、奴隷として追い使ったのです。
 ところが、立場が悪くなり、労働が厳しくなり、苦しみが増しても、イスラエル人は弱る様子がなかったのです。それどころか、プレッシャーの中でよけい強くなり、数も増えていったのです。

 とうとう、王はとんでもないことを考えつきました。
 生まれてくるヘブル人(イスラエル人)の男の子を、全員殺してしまおうというのです。

 これを何年くらい続けるつもりだったのかわかりません。男子がいなければ、たしかにいざと言うとき、敵側に回る戦力は少ないでしょう。しかし、腕力の要る労役をする男子も減るのですから、エジプトもやがては困るはずです。

 のちに、イエス様がユダヤにお生まれになるとき、時のヘロデ大王が「イスラエルの王が生まれる」と聞いて、自分に取って代わるものが出ることにおびえ、二歳以下の赤ん坊を全員殺そうとしました。これは、その時期だけだったかもしれませんが、流す血に対して、効果の疑わしい方法ではありました。
 エジプトでも、それから千五百年後のユダヤでも、将来権力を脅かすはずの赤ん坊は、虐殺の網を逃れたのです。もちろん、神様が介入されたのですが。

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 エジプトの王はヘブル人の助産婦を呼んで言いました。

「ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もし男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら生かしておくのだ。」(16節) 

 しかし、助産婦たちは神を恐れる人だったので、王の命令に従いませんでした。王に呼びつけられて咎められると、言いました。ヘブル人の女は、エジプトの女と違って、活力があって、自分たちが行ったときにはすでに産み終えてしまっています。

 パロは怒って命令を出しました。生まれた男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない。

 苛酷な労働にも耐え抜いてきたイスラエル人も、このような命令には、さすがに悲鳴を上げたのでしょう。その声を、神がお聞きになったのです。


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 創世記を読むとき、私は「聖書は神が主役の書物」と念じて読み、それでも、何度もそのことを思い出さなければなりませんでした。
 なぜなら、聖書は神が主役とはいえ、人類の救いについて書かれたものですから、じっさいに焦点が当てられているのは、人間だからです。

 学校などで、子どもたちのケアしている場合、見守り、助け、指導し、方向付けをするのは大人ですが、子どもの様子を中心に考えたり、記録したりします。手を貸したり、対話したりするのも、話題は子どものことであり、対象になる子どもが中心に見えます。
 職員会議を開くとか両親と話し合うとか、人間世界に還元すればそのような場の想定もありですが、天地万物を創造された聖書の神様はおひとりですから、「神様会議」はありえません。


 出エジプト記以降になると、人間の救いについての問題は、さらに具体的に、深刻になり、あたかもダイナミックな人間ドラマを見るような印象が、ますます強くなります。
 それだけに、ここでも、聖書の主役は神であると、自戒して読まなくてはなりません。





posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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