2010年11月27日

Coffee Break96 モーセの召命(出エジプト記3章)



  召命と言う言葉は、アブラハムのときにもすでに出てきました。(Coffee Break35) けれども、改めて、ノンクリスチャンの人から、「召命」の説明を求められていますので、私なりにご説明します。

 モーセが羊を追って、神の山ホレブに来た時、神が燃える柴の中から、彼に声をお掛けになりました。(出エジプト記3章2節〜6節)
 とつぜん、何の心の準備もないまま、モーセは召命を受けるのです。


 主は仰せられた。「わたしはエジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使うものの前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。(出エジプト記3章7節)
 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に彼らを上らせるためだ。(8節)
 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」(10節)


 モーセはびっくりして、神にお訊ねます。

「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行って、イスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」(11節)

☆☆☆☆


 あなたが、ある日とつぜん、思いもかけない人から、思いもかけない重要な役割を仰せつかったらどうするでしょう。人間社会の中、会社や学校や家庭や近所づきあいの中でも、それが自分の予測や意思とはほとんど関係なく一方的に選ばれて、ポジションに置かれたら・・・、嬉しいでしょうか。困惑するでしょうか。
 もちろん、話によりますね。名誉に報酬もたっぷりついていて、仕事があまり難しくなければ、願ったり叶ったりですね。少なくとも、私のような怠け者の凡人は、「きつくないなら・・・」「私でも出来るのでしたら」なんてことなら、お受けします。

 ですが、現実の人間社会でも、報酬はたっぷりあって、仕事がきつくないようなことが、「降ってわいて」くることはありませんね。やりたい人はいくらでもいるからです。
 とてつもなく難しくて、だれでもできるわけでないからこそ、どこか高い場所にいる人が決断して、ある人に白羽の矢を立てるわけです。それは、大いに名誉なことかもしれませんが、ものすごく困難な仕事だったりするのです。


 召命とは、神様がとくべつにお選びになった人に、同様な困難な役割を担うよう、声をお掛けになることを言います。神様が声をお掛けになるのですから、仕事は神様の御用──御心から発するものです。
 神様の仕事ですから、人間社会で言うような報酬と引き換えではありません(結果として人間的な目に見える報酬をいただく場合もありますが)。 もっぱら、神様を畏れ敬う従順の気持ちから、神様の御心に叶うことするのを喜ぶのでなければ、とても務まるものではありません。

 もちろん、神様は最大のサポートを約束してくださいます。創世記で見てきたように、アブラハムもイサクもヤコブも試練に遭いましたが、同時に、神様がゆたかに祝福をしてくださっています。
 神様を信じるものにとっては、神の約束は、人の約束よりはるかに確かなものです。
 それでも、召命を受けるのはなかなか決断の要ることです。
 モーセの場合、とくに、静かな田舎でひっそりと平穏に暮らしていたのに、とつぜん、エジプトに戻り、奴隷となっている60万人の同胞を、その国から連れ出すリーダーとして選ばれたのです。

 モーセが「私は何者でしょう」と、神様に申し上げたのは当然なのです。
 出エジプト3章4章は、召命を受けて逡巡するモーセと、神のやりとりです。




 
 
posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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