2010年11月28日

Coffee Break97 モーセの弱気(出エジプト記3章、4章、詩篇23章) 




 神から、「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」(出エジプト記3章10節)と、召命を受けたモーセは、直ちに、「わたしは何者でしょう」と申し上げました。
 
 しかし、神はこのモーセの質問にお答えになる代わりに、仰せになったのです。

わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。」(12節)

 モーセも自分の質問に、いつまでもこだわってはいません。つぎの質問を神に申し上げるのです。

「私は、イスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名はなんですか』と私に聞くでしょう。わたしは、何と答えたらよいのでしょうか。」(13節)

 神のお答えは、次のようなものです。

「わたしは、『わたしはある』と言う者である。」

 この神様の、ふしぎな自己紹介については、別の機会に考えます.
 ともかく、神はご自分が、イスラエル人の先祖の神、アブラハム・イサク・ヤコブの神であること。神は今、イスラエルの苦難に目を留めておられること。神ご自身が、いまイスラエル人を約束の地カナンに連れ上ろうとしておられることを、エジプトにいるイスラエルの長老たちに告げなさいと言われます。
 エジプトの王は、イスラエル人を、容易にはエジプトから離れさせないだろうが、神が王に手を伸ばしてあらゆる奇跡を行なって、王の気持ちを変えるとも仰せになります。

 まだ、モーセは逡巡しています。
「ですが、彼ら(イスラエル人)は、それを信じるでしょうか。主は私に現れなかったと言うのではないでしょうか」(4章1節)

 そこで、主は、モーセがもっている羊飼いの杖を蛇に変え、モーセの手をツァラアトに変えるしるしをお見せになりました。「この二つの、しるし(ふしぎなワザ・奇跡)を彼らが信じない場合は、ナイルから水を汲んでかわいた土に注げば、それは血となる」と、エキストラのしるしまで、用意してくださったのです。

 それでも、モーセは決心ができません。
「ああ、主よ。私はことばの人ではありません。口が重いのです」と、ためらうのです。

☆☆☆☆


 モーセの召命の箇所は、なんだか私たちをホッとさせないでしょうか。出エジプト記のモーセ。聖書の中でも、もっとも偉大な預言者でリーダーのひとり。神が直接現れてくださって、十戒をいただき、神と顔と顔をあわせてお話しすることができたモーセでさえ、大きな使命をとつぜん、神から仰せつかって、これほど気弱に戸惑うのです。

 
 昇進うつということばがあります。引越しうつとか、マタニティブルー、五月病。これらはに共通するのは、新しい役割に伴う不安や恐怖、戸惑いでしょう。病気や不幸続きでうつになる、挫折がうつの原因になるというのは──もちろん深刻な事態ですが──まだ理解しやすいのです。けれども、良い場所に移されて、責任ある役割を任されてさえ、人はウツになるのです。 


 モーセは、もちろん、結局は神の命令どおりエジプトに戻ります。神の指示通り、兄アロンの協力を得て、エジプトのパロとの交渉に入るのです。
 私たちも、戸惑い、つまずきながらも、目の前でそそりたつ障壁を乗り越えて行きます。その時、意識するとしないに関わらず、私たちは「神のお声を聞きたい」「神が自分とともにいてくださるように」と、思うのではないでしょうか。


 聖書には、私たちが、戸惑う時、つまづきそうな時に適用できそうなエピソード、また、励ましを受けるすばらしいことばが、たくさん出てきます。
 
 時代は下りますが、イスラエル王国の王ダビデも、歌っています。

 
 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
 
 あなたが私とともにおられますから。 

 あなたのむちとあなたの杖、

 それが私の慰めです。           (詩篇23篇4節)





posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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