2010年11月29日

Coffee Break98 わたしはある(出エジプト記3章13節14節)




 「私は、イスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名はなんですか』と私に聞くでしょう。わたしは、何と答えたらよいのでしょうか。」(出エジプト記3章13節)
 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』と言う者である。」(14節)


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 クリスチャンとして神様のお話しをする時、一番難しいのは、じつは自分の信仰している神様の名前です。
 なにしろ、神ご自身がモーセに、「わたしはある」と言う者だと、自己紹介をなさったのです。これがどのような意味なのかは、創世記のはじめから書かれているのですから、大体そのとおりに言うことにしています。
 「天と地をお作りになった方」「天地万物、星も太陽も月も、すべての動物も植物も、私たち人間もお作りになった方」で、いまも「すべてを存在させていらっしゃる方」だと説明するのです。
 ただ、これは、どうしても長くなるのです。
 秩序正しく原稿を作って話すのではなく、いきなり状況にあわせ、要領良く相手に納得していただこうとすると、たいてい難しい話になってしまいます。

「わたしは存在する」は、英語聖書では、「I am who I am.」(Today’s English Version)となっています。こちらの方がいくらかわかりやすいでしょうか。
 
 
 日本人の感覚からすると、何かを願ってお祈りする相手には、形と名前があるのです。「いわしの頭も信心から」ではありませんが、水晶玉や石ころ、動物や人の形を刻んだり描いたりしたもの、要するに見えるものです。名前もたくさんついています。
 たとえば、平家物語などを読んでいると、武将が戦いに行く前には、「南無八幡大菩薩」などと、唱えています。


 もっとも、このような通称とも言うべき名前は、「わたしはある」という方にもありました。「アブラハム・イサク・ヤコブの神」です。
 創世記で、アブラハムに現れて、ハランから召し出してくださった天地創造の神は、イサク、ヤコブをも祝福してくださって、イスラエル民族のいしずえを築いてくださったのです。ですから、この名前なら、モーセもイスラエルの民も「わかる」のです。エジプトに移住して四百年近く経っていても、彼らは、イスラエル民族の名祖であるアブラハム・イサク・ヤコブとともにいてくださった神を「主」とあがめ、忘れることはありませんでした。
 
 しかし、この名前は、あくまでイスラエルの民の神としてのお名前です。ですから、モーセがアロンとパロのもとに会いに行くと、パロは言いました。
「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」(出エジプト記5章2節)

 モーセは言いなおしています。
「へブル人の神が私たちにお会いくださったのです。」(3節)

 アブラハムの時代、出エジプト記の時代から、神様がキリストとなって地上に来られる二千年前まで、長い間、聖書の神はイスラエルの神でした。それで、また、要領の悪い私の神さまの紹介は、ますます長くなるのです。
 イエス・キリストの福音によって、初めて、聖書の神様は全人類の神になったのです。

 それは、ホレブで神がモーセにお会いになったときの神ご自身の自己紹介、「わたしは『わたしはある』というものである」が、本来の姿として現れてこられただけなのですが。





posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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