2010年12月11日

Coffee Break110  初子(ういご)




 主はモーセに告げて仰せられた。(出エジプト記13章1節)
「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。」(2節)



 十の災害の最後に、主(神)がエジプトの初子を打たれたことは、いくらなんでもひどいと思われた人もいるでしょうか。
 神が人間や動物の、初子を犠牲として要求するとは・・・。イスラエル人だけを救うために、エジプト人を殺してよいの、じっさいそのような質問を、初めて聖書を読む方から受けたのです。
 
 ここで見るように、神はイスラエル人を、全人類を救いに入れる神の器として育成しておられたので、イスラエル人だけが特別な扱いを受けているように見える、記述や出来事は多いのです。
 けれども、では、イスラエル人だけが、ぬくぬくと温室で栄養と快適な環境を与えられて、「パラダイスにいるような」生活をしていたかというと、まったく違います。
 神の選びの民として、イスラエルに与えられた使命は高邁で、その民としてふさわしい掟を定めた契約は、大変厳格なものでした。
 
 ちなみに、有名な十戒はつぎのような書き出しです。

「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
 あなたは、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
 あなたは、自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎むものには、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
 わたしを愛し、わたしの命令を守るものには、恵みを千代にまで施すからである。
                  (出エジプト記20章2節〜6節)


 この後、いわゆる十戒と言われている戒めが17節まで続きます。

 主はイスラエルをエジプトの奴隷生活から導き出してくださった恩人(神)です。その主はシナイ山で、イスラエルの民と契約を結んでくださるのです。そして、イスラエル人が主を愛し、命令を守っていれば、恵みを千代にまで施そうとおっしゃるのです。
 しかし、イスラエルの民は、しばしば神の命令にそむきました。ほかの神(他の民族の神や偶像)に心を移したために、神の怒りに触れて、敵に攻められ、国を失い、捕囚になるなど、悲惨な体験を何度も、余儀なくされていくのです。

 初子について言うなら、エジプトの初子もイスラエルの初子も、等しく神のものなのです。
 天地創造のいきさつを思い出していただければわかるように、人間の命も、家畜も農産物ももともとはすべて、神がくださったものです。ですから、その初物は、神のものとしてお返ししようという考え方なのです。

 アダムとエバの最初の息子たち、カインとアベルが、それぞれ収穫物の初物と、羊の初子をささげたのは、そのような意味でした。
 ですから、いよいよエジプトを出るときに、冒頭の聖書箇所のように、主(神)は、イスラエル人にも初子をささげるように仰せになったのです。
 同じ13章で、モーセは民に言っています。

 主が、あなたとあなたの先祖たちに誓われたとおりに、あなたをカナンの地に導き、そこをあなたに賜るとき、(13章11節)
 すべて最初に生まれる者を、主のものとしてささげなさい。あなたの家畜から生まれる初子もみな、雄は主のものである。(12節)


 もちろん、人の子どもを聖別するというのは、代わりの羊や雄牛で贖うと言う意味です。

 これは、後々まで、イスラエル人の掟として守られました。



 新約聖書のルカの福音書の中で、赤ん坊のイエス様を、ヨセフとマリアが神殿に連れて行って主にささげたと書かれています。

 ──それは、主の律法に、「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない」と書いてあるとおりであった──(ルカ・2章23節)
 また、主の律法に、「山鳩一つがい、または家鳩のひな二羽」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。(24節)


 イエスさまの両親ヨセフとマリヤは、あまり豊かではなかったのでしょう。
 鳩は、羊や牛を買う余裕のない人たちのささげものでした。








 
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2010年12月12日

Coffee Break111 雲の柱・火の柱





 エジプト脱出を指揮したのは、モーセとアロンでした。けれども、真の指揮者は、主なる神ご自身でした。モーセはできるかぎり忠実に主の仰せになることを民に伝え、主が仰せのように民にふるまわせたのです。アロンは、モーセに忠実な助手だったのです。


 過ぎ越しの羊をほふって七日目、アビブの月の21日に、イスラエル人はエジプトを脱出しました。主は、民が混乱で事故を起こしたりしないよう、寝ずの番をして脱出を成功させてくださいました。(出エジプト記12章42節)
 また、このとき、さらに重要な指示をしておられます。

 ひとつは、このエジプト脱出を記念して、それから先、毎年過ぎ越しの祭りをすること。それによって、「子どもたちに、主は力強い御手によって、私たちを奴隷の家、エジプトから連れ出された。(13章14節)と、伝えなさい。」の意味でした。
 また、エジプトを出たイスラエル人の、カナンへのコースを、主は指定しました。カナンには地中海沿いに行けば、近道なのですが、あえて、葦の海に沿う荒れ野の道にまわらせた。のです。(18節)
 それは、海沿いに住むペリシテ人がとても強いので、戦いになったとき、民の心がなえて、エジプトに引き返すといけないと言う理由でした。
 

 モーセは、ヨセフの遺骸を携えてきた。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせたからである。(19節)
 これは、モーセが、ヨセフの遺言(創世記50章25節)を守ったからでした。

 イスラエルの民は、スコテからエタムに行き、そこで、ひとまず宿営することになりました。
 主は脱出のコースを指定されただけではありません。昼は雲の柱、夜は火の柱が民を導きました。火の柱は、夜を明るく照らし出して、彼らは昼も夜も歩くことができたのです。

 昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。(13章22節)
 神がこのように、ともにいて下さるとは、なんと心強いことでしょう。主の導きは完全でした。
 民はただ、従って進んで行けばよいだけのように見えました。






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2010年12月13日

Coffee Break112 最大の奇蹟





 「聖書から、奇蹟を取り除いたら表紙しか残らない」と、韓国のチョ・ヨンギ牧師が説教で、話しておられました。
 
「そのとおりです」と、思わずうなずきました。同時に、奇跡だけしかないなら、聖書はいまこの世界で、二十億とも三十億とも言われるクリスチャンたちの、心の支えになるだろうかと思ったものです。

 聖書は、神さまが主役の物語ですから、たしかに、人間の想像力を超えているのです。荒唐無稽なのは、聖書の神のような神はほかにいないからで、どのように想像したらいいのか、たとえ、クリスチャンであっても聖書に精通している人であっても、完全には理解し得ないほどの大きな存在だからです。天と地とそこに住むすべての動物と、そこに生えるすべての植物とをお造りになり、最後に人間をお造りになったのは、神なのです。


 聖書の物語は、このように人の想像を絶する神が、人間を取り扱っておられる話なのです。
 それは認められないと言う人がいるかもしれませんが、それを認めないと結局、話の筋が通らないのです。
 土のちりから人を形作り、人の鼻からいのちの息を吹き込まれたら、人が「生きるもの」となったのです。(創世記1章) これは神の全能性です。何でもできる方はこういうことがおできになるのです。何でもできる方だと認めないならば、まずここから先に進めません。


 Coffee Break3で、私は、かつて、ベストセラーだった子ども向き人気小説「ハリー・ポッター」を挙げて、「ハリー・ポッターは、魔法使いがいて、魔法使いの世界があって、魔法というものがある」前提を認めなければ、まったく意味をなさないと書きました。
 神様と魔法使いを並べるのは、大きな誤解を招くとは思いましたが、私は、ごくふつうに書物を読む「作法の基本」を話したのです。


 同様に、聖書は、神が主役であるだけでなく、聖書の神のもっておられる全能性を認めなければ、理解できるものではありません。


☆☆☆☆

 聖書の奇蹟の最大のものは、なんといっても、天地創造
でしょう。宇宙万物すべてを造ることに比べたら、杖が蛇に変わる、ナイルの水が血に変わる、かえる、ぶよ、あぶの大発生。疫病、腫物、雹、いなご、暗やみ、初子の死、どれも、小さいと思えるくらいの奇蹟です。
 雲の柱・火の柱も、神にとっては出現させるのは簡単なことでしょう。
 この後は、有名な葦の海が割れる奇跡(出エジプト記14章)が起こるのです。

 しかし、自然現象を合理的に説明しようとする「自然科学的思考」を粉砕するような、こうした記述だけに目を奪われるのは、本質を見失わないでしょうか。


☆☆☆☆


 聖書の神を考えるとき、神の万能の力以上に、忘れてはならないことがあります。

 「聖さと愛」という至高の性質をもち、生きて働かれる神だということです。(このブログのリンク・佐々木先生のサイト、やさしい「神の国」講座・2章U参照) 
 神は、善悪の知識の木から、実を取って食べてはならないという命令に背いたアダムとエバを、悲しみながらエデンの園から追放されました。
 
 罪を犯し続ける人類全部の中から、ノアに語りかけて、ノアとその一家に箱舟を作らせて、洪水から生き延びさせました。
 いただきが天に届く塔を作って、名を上げようという人間たちを、全地に散らしました。
 アブラハムをハランから召し出されました。アブラハムを「全人類の父」といわれるにふさわしい器として、その信仰を成長させ、極限まで鍛えらました。
 その息子イサクや孫ヤコブにも顕現され、ご自分を、アブラハム・イサク・ヤコブの神として、彼らを守り、ヤコブにイスラエルという名を与えられました。小さな群れであるイスラエルをエジプトに移し、やがて、時が来たとき、神は彼らをエジプトから救い出されました。それが、出エジプト記です。


 自然の中に奇跡を行なう以上に、神がもっとも強く働いて支配しておられるのは、人間の世界、人間の心です。その目的は人間の救いです。それが創世記以来の物語の、一貫したテーマではないでしょうか。
 もっと厳密に言えば、「神との関係における」人間の心です。
 モーセとパロのやり取り、モーセとイスラエルの民とのやりとり、そうした葛藤さえ、すでにご存知で、すでにパロでさえ神が支配しておられることに、私たちは気がつくのです。
 
 おろかなのは、パロだけではありません。イスラエルの民もまた、神の目からごらんになったら、おろかな弱い人間です。
 出エジプト記を読み進めるにつれ、私たちはこのような人間のおろかさに、はがゆくなり、批判的になります。
 また、神と民との間に立っているモーセの立場に、預言者の姿を見るのです。






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2010年12月14日

Coffee Break113 預言者モーセ(出エジプト記13章14章)





「こうして彼らはスコテから出て行き、荒野の端にあるエタムに宿営した。(出エジプト記13章20節)

 近道でしたが、強いペリシテ人との戦いになるかもしれない地中海沿いの道を避けて、モーセに率いられたイスラエル人の一行は、葦の海に沿う荒野にまわったのでした。

 ようやく、エタムでホッと一息したところで、主は意外な命令をモーセに仰せになりました。

「イスラエル人に、引き返すように言え。そして、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって宿営しなければならない。」(14章2節) 

「ええ! なんでえ」
 もし、私たちがトレッキングしていて、また、ガイドツアーで山に行って、ある方向に進んでいる時、最初その道に導いたガイドが引き返そうと言えば、納得できる理由をきくでしょう。昨日まで通っていた道が、がけ崩れで途切れていたとしても、ガイドがそのような情報を調べていなかったと不満に思うのではないでしょうか。
 エジプトを出たイスラエルの民は、女・子ども、年寄り、家畜。それに外国人まで混ざっている集団でした。「整然と」歩くのは不可能で、「騒然と」していたことでしょう。


 それに、みんな一刻も早く、少しでもエジプトから遠くに行きたいのです。
 今来たコースを引き返すと聞いて、文句を言った人は、たくさんいたにちがいありません。
 主はモーセに理由を述べています。

「パロはイスラエル人について、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』というであろう。(3節)
 わたしはパロの心をかたくなにし、彼が彼らのあとを追えば、パロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現し、エジプトはわたしが主であることを知るようになる』 そこでイスラエル人はそのとおりにした。(4節)


 イスラエル人は主の仰せのとおりにしたのですが、民は直接主の声を聞くことはできません。モーセが主の声を聞いて民に告げるのです。
 民は、指導者モーセの預言者としての立場や能力は認めています。ですから、モーセの命令には従うのですが、危機が来ると、すぐに揺れ動くのです。
 
 一方、パロ(エジプト王)は、イスラエル人が三日経っても戻ってきそうもないこと、奴隷労働者がいなくなる損失に、あらためて気がつきました。そこで、戦車や軍団を仕立てて、イスラエルの民を追跡しました。

 片や、烏合の衆ともいえるような集団。片や、戦車や騎兵が整った、訓練された軍隊です。たちまちにして、追いついてきました。
 イスラエル人の集団があわてふためいたのは言うまでもありません。
 パニック状態になった彼らは叫びました。
 14章10節では、「主に向かって叫んだ。」と書かれていますが、じっさいには、モーセに向かって叫んだのです。

「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れてきて、この荒野で死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。」(11節)

 モーセがエジプトに戻ってきて、神の言葉を伝えた最初の頃、モーセの提案を渋ったことまで、持ち出して非難します。

「私たちがエジプトであなたに言ったことはこうではありませんでしたか。『私たちのことをかまわないで、エジプトに仕えさせてください』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」(12節)
 

 そこまで言うの。ぜんぶ、モーセのせいなの、と反論したいような内容です。
 モーセは、しかし、そのような人間的な反論をしません。モーセは主の声を直接聞き、それを伝えている預言者だったからです。
 モーセは、「恐れてはいけない。しっかり立って、主の救いを見なさい。」と言います。
 同時に、神に向かって民の叫びを伝えようとしたのでしょう。
 
 主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。」(15節)

 前進せよと言われても、前面は葦の海でした。
 




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2010年12月15日

Coffee Break114 葦の海の奇跡(出エジプト記14章)





 エタムに宿営しているイスラエル人に引き返すように言えと、モーセに仰せになったのは神様です。
 イスラエル人が引き返したために、あとを追ってくるパロが追いつきやすくなったのです。それは、神もご存知でした。

「パロはイスラエル人について、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言うであろう。(出エジプト記14章3節)
「わたしはパロの心をかたくなにし、彼が彼らのあとを追えば、パロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現し、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」(4節)
 

 パロの軍勢が迫ってきて、民が叫び出し、モーセに詰め寄った時、神にお伺いを立てるモーセを神は叱り付けて、命じます。

「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。
 あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ。(16節)
 見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとから入って来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現そう」(17節)


 「葦の海が割れる」話です。とても有名な箇所なので、あらためて説明するまでもないかとも思います。
 うしろから敵が迫ってきます。前は海です。この時、主(神)がモーセに命じられた、「杖を前に差し伸ばす」動作は、なにを意味しているのでしょう。
 これは、助けを求めて叫ぶ動作に代わるものとして、指示されています。泣き叫んでいないで、「行こう」としなさいと、主は命じておられるのです。あくまで、主を信頼して従いなさいと言われているのです。
 モーセが杖を差し伸べてから、じっさいに海が割れるまで、どれくらいの時間があったのかはわかりませんが、モーセのそばで神へのお伺いを見ていた者たちは、杖を前に差し伸べて、「前進!」と叫ぶモーセに、「そんな無茶な!」と一瞬でも、思わなかったでしょうか。この時とばかり、モーセに詰め寄って彼をリーダーの座から引き下そうと思った者もいたでしょう。

 その時、たしかに、神がお答えになったのです。それまで、イスラエル人の前面を進んでいた神の使いが、彼らのうしろに移ったのです。同時に雲の柱も、うしろに移りました。
 それで、あたりは夜のように真っ暗になり、エジプト軍は、一晩中イスラエル人に追いつくことができなかったのです。
 神の使いが敵の攻撃を阻んでいる間、モーセが海に杖を伸ばしていると、「主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。」(21節)」

 イスラエル人たちは、かわいた海の底を渡って進むことができました。
 これは想像を絶する奇跡だったに違いありません。
 もちろん、パロの軍勢も、分かれた水の間を追ってきたのです。ここで、主はまたも、奇跡を行ないました。
 かわいた海の底に入ってきたパロの軍勢は、「車輪の音も軽く!」とは行きませんでした。彼らの戦車の車輪が外れました。戦車が立ち往生すれば、馬も歩兵も進めません。細い道で一台が故障しただけでも、渋滞します。つぎつぎと戦車の車輪が外れたのだからたまりません。
 さすがに、エジプト人も、それが神のワザだと気がつきました。
 それでエジプト人は言った。「イスラエル人の前から逃げよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられるのだから。」(25節)

 神が、もう一度、モーセに手を海の上に差し伸べるように仰せになりました。モーセが手を差し伸べると、水が返ってエジプト人たちを覆いました。あとを追って海の道に入ってきたエジプトの全軍勢は、溺れ死ぬことになったのです。

☆☆☆☆  

 現代を生きる私たちが、ニュースでも見るような感覚でこの話しをとらえると、エジプト軍を全滅させられた神は、残酷にも見えるかもしれません。「敗走するなら逃がしてやればいいのに」。
 聖書は、そのような現代人のヒューマニズム的な疑問に、ここでは答えていません。

 この章のしめくくりは、次のとおりです。
 
 こうして、主はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た。(30節)
 イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。(31節)





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2010年12月16日

Coffee Break115 つぶやく(出エジプト記16章3節)




 私たち人間は、一日の内でも、何度も気分が変わります。人を巻き込んだこのような言い方は使うべきでないとしたら、もちろん、「私は」一日の内に何度も気分が変わると、言い直すことができます。
 それは、なぜでしょう。
 朝、起きて神様に感謝します。「ああ、気持ちよく目が覚めました。ありがとうございます」
 昨日、気がかりだった胃の調子が良くなっていた、出かけようとしたら、前夜からの雨が上がっていた。その程度のことでも、とても嬉しくなります。
 ところが、今日に限って、バスが遅れてきます。渋滞で時間がかかります。赤信号にばかりひっかかります。仕事場では、だれかが休んでいて、その人の分も仕事がまわってくるかもしれません。だんだん、なんとなく、胸の中が波立ってきます。もちろん、その程度のことでは、顔はにこにこしていますが。

 ある人といっしょに、海外旅行をしたことがあります。すると、一人旅より、不満が溜まるのです。しかし、驚いたのは、相手の人は、もっと私に不満だったのです。私のほうがその土地を良く知っていて、もともと彼女は私を当てにして、旅行に踏み切ったからです。
 こちらは、ツアーコンダクターではないし、別に、二人で行くことで、何か得することがあるわけでもなく、強く誘ったわけでもない。相手は初めての海外旅行で、連れていって欲しいと言ったのだし、一人旅よりは楽しいこともあるかもしれない、くらいの気持ちでしたから、三日目にはもう、文句ばかり言い始めた相手に、びっくりしてしまいました。

 旅先で見た風景、食事、出あった人が楽しければ、その時はご機嫌なのです。ところが、一時間後に予定通りいかないことがあっても、不満をぶつけてくるのです。

 当時、私は内心、彼女に腹を立てましたが、旅先で突き放するわけにもいかず、一ヶ月間いっしょに旅したのです。
 いまなら、相手が自分を当てにしないよう、はじめに、しっかりと釘を差すでしょう。人間はリーダーとなる人に、不満をもつものだから、出来るだけ「対等に」行きましょうと。

 
 三千五百年前にすでに起こった出来事として、聖書に書かれている出エジプト記を読んでいて、あらためて、昔の記憶が甦ったのです。

 モーセの立場は、たった一人の知り合いをどこかへ案内するような、単純なものではありませんでした。二百万人とも言われる集団を導くのです。それは、もとは、集団が神に叫んだことから、神がモーセに命じられたことでした。けれども、モーセが積極的に彼らをリードして、始まった旅でもありました。
 行き先は、神が彼らの先祖に約束されたとはいえ、彼らにとっては未知の土地です。
 パスポートもトラベラーズチェックもアメリカンエキスプレスもビザカードもない時代です。しかも、通路となる土地には、強くて荒々しい先住民がいます。荒野は、自由に行き来できますが、水や椰子の木・オアシスに出遭うのは、運任せとなります。


 ☆☆☆☆

 絶体絶命の状態で、葦の海を分けてイスラエル人を渡らせ、追跡するエジプトの軍隊を海の中にほろぼしてくださった神様の奇跡は、聖書の中でも特筆できる大きな出来事です。
 
 このあと、イスラエル人たちは、もちろん、主を讃えました。彼らは主にほめ歌を歌いました。出エジプト記15章1節から18節は、主の栄光を讃える褒め歌、感謝の歌です。
 
  主に向かって私は歌おう。
  主は輝かしくも勝利を収められ、
  馬と乗り手とを海に投げ込まれたゆえに。
  主は私の力であり、ほめ歌である。
  主は私の救いとなられた。
  この方こそ、わが神。
  私はこの方をほめたたえる。
  私の父の神。
  この方を私はあがめる。


 このように始まるほめ歌は、次には、主のワザを具体的に描写し、主の威力と力をほめ称える。 
 それから、カナンに向かうまでに遭遇する敵、ペリシテ人、エドム人、モアブ人、カナン人の名を上げて、彼らが主の名を恐れて震えおののきますようにと、願いを歌う。

 彼らの歌を女たちとタンバリンを叩きながらリードしたのは、女預言者のミリヤムでした。モーセが赤ん坊の時に、川に流されたモーセのあとを追って、王女に拾われるのを見守ったモーセの姉です。

 ミリヤムは繰り返しました。
  主に向かって歌え。
  主は輝かしくも勝利を収められ、
  馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた。


 興奮冷めやらぬ一行は、喜びいっぱいで、荒野に向かって旅を開始したのです。
 
 ところが、三日歩いても、井戸や泉や川が見つかりませんでした。
 やっと、マラと言うところにたどり着きましたが、マラの水は苦くて飲むことができません。「苦い」のでマラと名づけられたと言うのがほんとうです。
 すると、葦の海を渡った直後、あれほど興奮して神を讃えた人たちが、たちまちモーセに不満を言いました。聖書のことばで、「つぶやいた」のです。
「私たちは何を飲んだらいいのですか」
 
 モーセは主に叫びました。
 すると、主は、モーセに一本の木をお示しになりました。それを投げ入れると、「水は甘くなった」とあります。

 やがて、彼ら一行はエリムという地点に到着します。そこには、十二の泉と、七十本のなつめやしの木がありました。七十本は、ここでは、大変たくさんの意味でしょう。オアシスに到着した彼らは、ホッとして、心身を休めたにちがいありません。

 次に、イスラエル人はエリムを発って、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入りました。
 その時、またしても、イスラエル人全員がモーセとアロンに、不満を言ったのです。

「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」(出エジプト記16章3節)

 それは、第二の月の十五日のことでした。イスラエル人がエジプトを逃げ出した第一の月の21日からまだ、一ヶ月も経っていなかったのです。




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2010年12月17日

Coffee Break116 マナ(出エジプト記16章マタイの福音書6章)  




「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」(出エジプト記16章3節)

 この言葉を読み返すと、なんとひどい不満の述べ方だろうと思います。
 いやみを言い、ぼやきながら、すねています。モーセとアロンの指導者としての能力を極限まであてこすり、指導者の地位から引き摺り下ろしてやれという意図さえ見えます。

 イスラエル人は、エジプトにいたとき、奴隷でした。王侯貴族のように暮らしていたのではありません。解放され、もろ手を挙げて喜びながら、エジプトを出てきたのです。それなのに、荒野で難民同様の生活が始まると、まるで良い暮らしから引きずり下ろされたかのような不満を言い、さらには、飢え死にさせるつもりかと、出エジプトの目的を、悪意をもって捻じ曲げました。

 イスラエルの民が奴隷としての苦しみを神に訴えたために、神はアブラハム・イサク・ヤコブへの約束を思い出され、彼らを救おうとされたのです。彼らは、神がモーセを召し出して、指導者に立て、たくさんの奇跡を行なってエジプトのパロ(王)を屈服させ、ようやく出国にこぎつけたことを知っていたはずでした。
 

 今回はモーセが主(神)に叫ぶまでもなく、主がモーセに仰せられました。

「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。」(出エジプト記16章4節)

 モーセは民に言います。

「夕方には、主はあなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、あなたがたが主につぶやく、そのつぶやきを主が聞かれたからです。いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです。」(8節)

☆☆☆☆


 神は自分が選んだ民のそむきを、怒りで報いることもおできになったのです。けれども、愛でおおってくださいました。

 その日の夕暮れになると、ウズラが飛んできて、宿営地いっぱいに降り立ったというのです。ウズラは、低いところを飛ぶのでつかまえやすく、体は鳩より小さいのですが肉があります。民は、思いがけず、肉を食べることができたのです。

 また、翌日の朝、民が見ると、荒野の面には、地に下りた白い霜のようなもの。うろこのような細かいものがあった。(16章14節)

 イスラエル人が、「これは何だろう」と互いに言いあいました。モーセは、「これは、主があなたがたに食物として与えてくださったパンです」と教えました。

 この不思議なものが、マナ(これは何だろうの意味)です。その日から、イスラエルの民がカナンに入るまでの四十年間、神は民に、このパンを与え続けられるのです。

 それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。(16章31節)

 マナについても、他の多くの奇跡と同じように、なんとか合理的科学的に説明しようとする試みがあるようです。けれども、マナについて私たちが心にきざまなければいけないのは、四十年間、イスラエルの民がこの不思議な食べ物で養われた、ということではないでしょうか。

 新約聖書には、イエス様が山上の説教で語られた、つぎのようなことばがあります。

 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父はこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。(マタイの福音書6章26節)

 このあと27節から34節の間には、「神の国とその義をまず求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」という有名な聖句があります。

 マナは新約の時代(紀元一世紀以降)の、この神の約束がすでに、それより千五百年も昔の、出エジプトの時(いまから三千五百年前)に到来していたのを示すものではないでしょうか。
 すでに、神によって、エジプトの奴隷生活から救い出されていたイスラエルの民。彼らに必要なのは、神への心からの信仰・従順だったのです。


 




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2010年12月18日

Coffee Break117 マナのルール(出エジプト記16章、ルカの福音書12章20節)





 神様が天から降らせてくださったマナには、それをいただくルールがありました。
 
 主が命じられたことはこうです。『各自自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメル(2.3リットル)ずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいるもののためにそれを取れ。』(出エジプト記16章16節)

 それで、めいめい集めに行って、多く集めたものや少なく集めたものがあったのに、戻ってきて計ってみると、余ることも足りないこともなかったというのです。
 
 また、マナはその日その日集めて食べるもので、残しておいて蓄えてはいけないと、モーセは戒めています。そう言われても人間の本性・心配性でしょうか、翌日のために取っておいたものがいたのです。けれども、戒めに違反して残しておいたマナは、虫がわき、臭くなってしまいました。

 ただし、週の六日目には、二日分集めてもよいことになっていました。七日目は、安息日と言って、すべてのイスラエル人が休息しなければいけない休日であると、神がお定めになったからです。その由来は、創世記で天地を創造されたときに、神が六日間働いて、七日目に創造のワザをお休みになったことに発しています。

 もっとも、イエス様が来られて、十字架にご自分を磔にされ人類の罪を贖ってくださってからは、このような戒めは、無効になったと新約聖書に書いています。(新約聖書コロサイ人への手紙2章14節
 
 この休日のためにた蓄えたマナは、不思議なことに、虫もわかず、臭くもなりませんでした。神の戒めには、その保障があったのです。

☆☆☆☆


 いま、出エジプト記を読む私は、イスラエルの民を笑っていますが、自分もその場にいたら、ふと、蓄えておきたくなるような気がします。まして、小さな子供がいたりしたら、万一の時に子どもだけでも食事を与えなければなどと、「りっぱな口実」が浮かんできて、神の戒めを霞ませてしまうかもしれません。
 
 
 イスラエルの民が、荒野をさまよう間、四十年間、神が毎日マナを降らせてくださったという出エジプト記の記事を、肝に銘じたいものです。

 蓄えておかなかったら、飢え死にするかもしれない! 人はそんなふうに思い、そうする方が理に叶っていると思います。

 ルカの福音書では、次のようなたとえ話をイエス様が語られています。
「蓄えて安心しようとする人のたとえ」です。
 その人は、自分の畑が豊作だったので、「どうしよう。蓄えておく場所がない」と嬉しい悲鳴を上げました。それから、「そうだ。あの倉を壊してもっと大きな倉を建てよう。穀物や財産はみんなそこにしまっておこう。これで、ひと安心だから、これから、大いに楽しめるぞ

 その貪欲な男に、神様は仰せになるのです。
「愚か者。おまえのたましいは今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」(ルカの福音書12章20節)


 「安心」は、けっきょく、神様がともにいてくださらなければ、無意味なのではないでしょうか。




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2010年12月19日

Coffee Break118 マナのつぼ(出エジプト記16章)





 毎日与えると神様が約束してくださったマナを、翌日のために取っておくというのは、「心配性」のなせるわざでしょうが、神様に信頼していない証拠でしたから、神様はお叱りになりました。
 ところが、安息日の前の日には、神様のご命令で二日分を集めることができたのです。この日採取したマナは翌日まで取っておいても、虫もつかず臭くもなりませんでした。
 すると、今度は、食べるものがあるはずの安息日に、マナを集めに出かける人が現れました。これは、もう「貪欲」です。私たちが金銭や富に執着する動機の大部分は、この二つが原因でしょう。

 神様はモーセに命じます。
「それ(マナ)を一オメル(2,3リットル)たっぷり、あなたがたの子孫のために保存せよ。わたしがあなたがたをエジプトの地から連れ出したとき、荒野であなたがたに食べさせたパンを彼らが見ることができるために。」(17章32節)

 それで、モーセはアロンに、つぼを取ってその中にマナを保存するように命じました。つぼは礼拝所のあかしの箱の前に置かれました。

 私たちは自分の力では、心配性や貪欲を克服することができません。さまざまな悪が、ここから生じてくるのです。

 この逸話は、当時は、出エジプトというイスラエル人の物語のなかにあったことです。
しかし、全世界の人たちへのメッセージでもありました。
 人間がいつも明日のことを「心配している者」であること、「貪欲な者」であることを、神様はよくご存知です。

 新約聖書には、有名な次のような祈りがあります。

「日ごとの糧(かて)をきょうもお与え下さい」(マタイの福音書6章11節)

 糧とは、食料を第一として、生きるために必要ないろいろなものを示しています。




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2010年12月20日

Coffee Break119 神の杖(出エジプト記17章)




 イスラエルの民は、シンの荒野から旅をしてレフイディムというところに来て、宿営することになりました。ここでも、揉め事が起こります。飲み水がなかったのです。

 それで民は、またモーセに詰め寄って水を求め、「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」と言いました。(3節)
 民に石で打ち殺されそうになったモーセは、主(神)に訴えました。
 主は仰せられました。イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って、ホレブの岩の上に行って岩を打ちなさい。
 言われたとおり、モーセが杖で、岩を打つと水が出てきたのです。

☆☆☆☆ 


 一つの問題が片付いたら、また、問題が起こりました。
 アマレクという荒野の民が、イスラエル人の宿営(キャンプ地)に攻めてきたのです。モーセはヨシュアという若者に「戦士になる者を選んで、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」と命じました。

 ヨシュアがアマレクと戦っている間、モーセはアロンとフルを連れて、丘に登りました。モーセが手を上げているときは、イスラエル軍が優勢になり、モーセが手を降ろすと、アマレク側が優勢になりました。
 というのも、杖を上げ続けているのは疲れるからです。何しろ、モーセは八十才です。羊飼いの杖は長くて重いのです。
 アロンとフルは、モーセを石の上に腰掛けさせ、両側からモーセの手を支えて、手が下がらないようにしました。

 そして、とうとう、ヨシュアはアマレク軍を打ち破ることができたのです。
 これは、大変記念すべきことです。
 ろくに軍事訓練もしていないイスラエルの兵士が、荒野で、初めて、襲ってくる外敵と戦って勝ったのです。
 モーセはそこに祭壇を築き、アドナイ・ニシ(主の御座の上の手と名づけました。

 それにしても、モーセが手にしていた神の杖とは何でしょう。もともとは、羊飼いだったモーセが羊を追うのに使っていた道具に過ぎません。けれども、神様が最初モーセに声をお掛けになったとき、その杖を神の杖に、変えられたのです。(出エジプト記4章2〜5節) 必要な時に、杖は蛇に変わり、杖はそれでナイルの水を打つと水を血に変え、葦の海に向かって杖を差し伸ばすと、海が真っ二つに割れる奇跡の杖にしてくださったのです。

 これは、私個人の意見ですが、モーセのこの杖は、神様への「信仰・信頼」を表しているのではないでしょうか。神様への信仰の気持ちを、自分の手の長さの先に伸ばし、神様を見上げて願う時、その真摯な姿に、神様は、祈りを聞いて、奇跡を起こしてくださるのではないでしょうか。

 それでも、人は弱くなり、力尽きてしまうことがあります。信仰が支えられなくなった時、アロンとフルがしたようにまわりから支えて上げなさい。なんとしてでも神の杖を高く上げ、手を伸ばし続けなさい。そのような信仰にわたしは答えようと、神様は言われていると思います。




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