2010年12月21日

Coffee Break120  モーセのしゅうと(出エジプト記18章)




 さて、アマレクとの戦いに勝ったモーセのところに、モーセのしゅうとイテロが、娘チッポラ(モーセの妻)と二人の孫(モーセの息子)を連れてきたのです。
 イテロはミディアンの地で、祭司をしていました。彼は辺境の少数部族の人で、彼が祀っている神は、イスラエル人の信じている神ではありません。いわゆる異教の神です。
 イテロはエジプト人を殺して砂漠に逃げ、放浪していたモーセに、娘チッポラを妻として与え、モーセは、イテロの羊を飼って、神から召命を受けるまでの四十年間を過ごしたのです。

 イテロは、イスラエルの神が、どのようにしてエジプトからイスラエル人を連れ出し、砂漠で養って下さったかを聞いていました。
 モーセに会って、あらためて噂を確かめ、主がしてくださった良いことの数々を喜びました。

 彼は、異教の祭司ではありましたが、イスラエルの神をほんとうの神と認め、「主はほむべきかな。いまこそ、私は主があらゆる神の中で一番偉大なことを知りました」と言いました。そして、持ってきた羊をいけにえとして神にささげ、その前で、モーセやイスラエルの長老たちと食事をしました。


 翌日、イテロは大勢の民を指導しているモーセの姿を見ました。

 モーセの仕事は大変ハードでした。神様と民の間に立って、神様とお話しするだけでなく、身近に起こるこまごました民の問題をひとつひとつみんな聞いて、裁き、解決しようとしていたのです。
 民がモーセのもとに列をなして、朝から晩まで訴えているのを見て、イテロは、モーセに忠告しました。
「なぜ、ぜんぶ、ひとりで裁こうとするのか。そんなことは不可能だ。あなたが疲れて倒れてしまう。神を恐れる力のある人をリーダーに選びなさい。民を十人、五十人、百人、千人とまとめて、それぞれ十人の長、五十人の長、百人の長、千人の長を置いて、小さなことはみんな、その人たちに任せなさい。大きな問題だけあなたが裁きなさい」と、知恵をつけたのです。


 モーセはさっそく、イテロのアドバイスを聞き入れました。そうすると、物事の解決が早くなり、モーセも楽になりました。

 組織のトップが、すべての問題をひとりで解決するなど不可能なことは、今から考えると当たり前のように見えます。しかし、イスラエルの民は長い間奴隷生活をしていたので、効率の良いピラミッド型の社会組織をもっていませんでした。神の声を聞くモーセに、何もかも依存していたのです。

 イテロは、辺境の地の少数部族の祭司でしたが、知恵のある人だったのでしょう。むしろ、イスラエル人でなかったから、物事が客観的に見えたのかもしれません。

 アブラハム・イサク・ヤコブの神(イスラエルの神)は、イスラエル人の神への叛きにはしばしば怒りを発して、きびしく罰するようなこともありました。半面、外国人や異教徒であっても、神を恐れる敬虔な人、愛のある者、年長者、知恵のある者、力のある者など、時に応じて神様の御用のために、用いておられます。
 聖書を読んでいくと、「わたしはある」と自己紹介された天地創造の神は、とても大きく、ふところの深い方で、真実な者を用いられる方であると気がつきます。

 じっさい、このようにして何十万人の人を組織できたことは、画期的でした。
 この後、神様は、イスラエルの民に、神との契約をお与えになるのです。




 
 
 
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2010年12月22日

Coffee Break121 シナイ山(出エジプト記19章)





 エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月の日に、シナイの荒野に入った。(出エジプト記19章1節)
 彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野に入り、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山のすぐ前に宿営した。(2節)


 ここで、モーセは神に呼ばれて、シナイ山に上っていきました。神はモーセにイスラエルに伝えるべきことを仰せになりました。
 @神がイスラエルの民をエジプトから連れ出したこと。民が見た奇跡・エジプトへの災害とイスラエルの民の救出を思い出し続けること。
 A今後とも、イスラエルが神の声に聞き従い、神との契約を守るなら、イスラエルは全世界を支配しておられる神の宝となること。
 Bさらに、イスラエルは祭司の王国、聖なる国民となること(神様と共にある神聖な国の民とすること)。

 モーセが山から下りて、長老たちに神のことばを伝えると、民は、「私たちは主が仰せられたことをみな行ないます。」と答えました。それを、モーセはまた、主に伝えに行きました。

 主は「見よ。わたしは濃い霧の中で、あなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞き、いつまでもあなたを信じるためである。」(9節) 

 主(神)は、三日後にシナイ山に下りてくるから、民にその準備をさせるよう、モーセに告げられた。
 それは、民が神のために身をきよめて神にお目にかかる準備をすること(聖別)です。体をきよめるだけでなく、衣服も洗うよう命じられました。また、山すそに境(垣根)を設けて、民が押し合って前に進み、山の敷地に入らないように注意されました。
 さらに、モーセは、民が女性に近づかないよう、言いました。


 三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと蜜雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。(16節) 

 全山は深い煙に包まれ、煙が立ち昇り、激しく震えたというのですから、なんとも神秘的で荘厳な光景です。 
 角笛の音が、いよいよ高くなった。モーセは語り、神は声を出して、彼に答えられた。(19節)

 モーセと民は山のふもとに立ったのですが、モーセだけが呼ばれてまた、上がっていきました。
 主は、民が押し合って山に入ってこないよう、もう一度モーセに命じられました。神のお召しのないものが、不用意に山に入ると、死ぬからでした。モーセは、「境を設けてあるので、民が境を越えて聖なる地に入ってくることはありません」とあらためて申し上げました。

 神が民の前に顕現される場面の、ものものしさには、圧倒されます。


 ☆☆☆☆ 


 いま、私たちは、神は神秘的な神の山といわれる場所、深山幽谷だけに現れてくださるのではなく、天と地のすべてにあまねく存在していらっしゃる方だと知っています。私がいるこの部屋にも、外の道路にも、空にも木立の中にも外にも、モダンな高層ビルにも、もちろん、砂漠にも南極にも、大洋にもいらっしゃるのが、大きな一つの神様、「わたしはある」と言われる神様です。

 私たちクリスチャンは、教会堂を礼拝の場所として、日曜日などに、みんなで礼拝をしています。しかし、いつでもどこでも神の前に出て、お祈りし、お話しすることが出来ます。
 祈る前にはシャワーを浴びて体を洗い、衣服を着替えなければいけないと言った規則もありません。
 イエスさまが犠牲の羊となって、すべての人の罪を贖ってくださったので、特別に声を掛けていただいた予言者(モーセのような人)や祭司でなくても、神様に近づき、また、神様のほうから近づいて下さるからです。

 それでは、三千五百年前のこの場面は、今、ここを読む私たちに無意味なのでしょうか。
 もちろん、そんなことはありません。
 この箇所は、私たちが神様に祈ったり、お話ししたりするとき、畏敬の念を持って近づかなければならないと伝えているのではないでしょうか。限りなく大きな力のある神様に、膝を屈めるような気持ちで、礼儀正しく近づいてこそ、神様も答えてくださるのだということではないでしょうか。





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2010年12月23日

Coffee Break122 十戒(出エジプト記20章)




 クリスチャンでなくても、十戒という言葉を聞いたことがある人は多いと思います。映画にもなり、いまだに1958年に制作されたチャールトン・ヘストン主演のビデオやDVDも出ていて、一般の人にも人気があります。
 これは、神がモーセとイスラエルの民にお与えになった神の戒めのことです。神とイスラエルの民との約束で、シナイ契約とも呼ばれています。
 しかし、聖書には、「十戒」と言う言葉は、直接は出てきません。


☆☆☆☆

 神はイスラエルの民をエジプトから導き出されて、すばらしい奇跡のうちに、シナイまで連れてこられました。
 これが、神のわざでなくて、たとえば、人間の力と知恵だけの行動なら、きっと挫折していたでしょう。葦の海をわたることはもちろん、わずか三日歩いて水がないと、リーダーを殺してしまいそうになるような集団です。長い奴隷状態から急に解放されたイスラエルの民には、集団を支える理念も組織もろくになかったのです。いくらかのものを持ち出していたとはいえ、着の身着のままの難民同然の状態でした。

 とくに、自分たちを導いて下さっている主に対し、イスラエルの始祖であるアブラハム・イサク・ヤコブの神であると知ってはいても、神に従うことがどういうことか、神の御心にかなって生きるとはどういうことかという基本さえわからない奴隷の民に、ここで、神は契約とそれに伴う掟をお与えになるのです。

 十戒は、聖書の中で、20章2節から17節にわたって書かれています。ここにある番号は他の章と同じ「節分け」の番号で、戒め自体に番号がふられているのではありません。カトリックとプロテスタントとでは、分け方に多少の違いもあります。
 私たちプロテスタントでは、以下のとおりです。


前置き・・・わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
       

第一の戒め   20:3   あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

第二の戒め   20:4   あなたは、自分のために、偶像を作ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

第三の戒め   20:7   あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

第四の戒め   20:8   安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

第五の戒め   20:12   あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。

第六の戒め   20:13   殺してはならない。

第七の戒め   20:14   姦淫してはならない。

第八の戒め   20:15   盗んではならない。

第九の戒め   20:16   あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

第十の戒め   20:17    あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいはその男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。



 第一の戒めから第四の戒めまでは、神に関することです。神に関する戒めは、日本人にはわかりにくいのではないでしょうか。

 第五から第十までは、対人関係における戒めです。私たちがいま、この日本人の常識をもって読んでも、すぐ理解できそうな箇所もあります。
 あすは、これらの戒めの意味を、少し考えてみましょう。



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2010年12月24日

Coffee Break123 神と人との結婚(出エジプト記20章)




 十戒の、最初の四つの戒め、それは、天地創造の神に対して、イスラエル人たちがどのように接しなければならないかを示しています。
 
 まず、神様は、イスラエルの民とご自分との関係を述べています。

「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」(出エジプト記20章2節)

 「あなた」というのは、エジプトから出てきたイスラエル人のことです。多少の外国人が混ざっていたとしたら、彼らも入るでしょう。しかし、エジプトから連れ出してもらうことのなかった人、この時点で、どこか別の場所で暮らしていた人に、出エジプトと関係のなかった人に語りかけられているのではありません。

 この前提を、確認しておかないと、十戒の神に対する戒めは、わかりにくいのです。

  第一の戒め
「あなたは、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(3節)

 この最初の戒めを、ノンクリスチャンの友人が、「なんだか、押し付けがましい」と言いました。たしかに、聖書のこれまでの物語からはずして、この言葉だけを取り出し、しかも、「キリスト教の神以外に、神があってはならない」などと、読み替えてしまうと、もちろん、押し付けがましいのです。

 聖書の神は、天地万物を創造された大きな大きな神様です。けれども、その神様を知らない人は、当時も、今と同様、たくさんいたのです。太陽や月、牛や猫や蛙や蛇なども神だとして、祀り上げている人々がいました。
 そのような人々の中から、天地創造の神は、楽園を追放され罪の世界で苦しむ人間を、なんとかもう一度、みもとに連れ戻そうと、アブラハム・イサク・ヤコブを選び出し、ヤコブと子どもたちをエジプトに移しました。彼らの子孫が大きくなったら、その民族を通じて全人類を救う器として用いるためでした。

 出エジプト記は、エジプトで民族と呼ばれるほどに大きくなったアブラハム・イサク・ヤコブの子孫・イスラエル人を、神ご自身が連れ出され、先祖アブラハムに約束された地カナンに、導こうとされる物語です。


 それが、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神・・・」という意味です。
 歴史的に長い間、イスラエル人を慈しみ、祝福し、そして、奴隷状態に苦しむ時に、多くの奇跡やしるしでもってそこから連れ出して下さった神が、「わたし以外に神があってならない。」と仰せになるのは、当然のことではないでしょうか。

 
 シナイでのこの戒め(契約)は、そのような「神の救いのご計画の物語」の中で、今まさに神がお救いになったそのイスラエル人を目の前において、与えられたものなのです。神と人との深い絆・愛が前提になっている戒めなのです。
 
 それで、この契約は、しばしば神とイスラエルの民との結婚にたとえられているのです。
 



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2010年12月25日

Coffee Break124 偶像(出エジプト記20章)




 第二の戒め  20:4   あなたは、自分のために、偶像を作ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

 偶像とは、辞書的な意味では(広辞苑より)、@木、石、土、金属などで作った像。A神仏にかたどって作った像。B宗教的崇拝の対象とされるもの、とあります。

 聖書の神も、ところどころで、目に見えるかのように人間の前に現れておられます。また、必要な時には、言葉で話しかけられます。たとえば、「ひかりがあれ」と言うように。(創世記第1章3節)
 また、アダムとエバが木の実を食べて目が開けたときにも、神様が来られたので、身を隠したと書かれています。そうした彼らに、神様が「どこにいるのか」と声を掛けています。(3章9節)

 このような場面は、つい神様を見える形でとらえてしまいますが、じつは、神様が形をもっておられるとはどこにも書かれていません。

 天地万物を創造された神は、あらゆるところに遍在され、あらゆるものを存在させておられる途方もなく大きな方なのです。

 それに対し、人間は、どうしても目に見えるものを拝みたくなるのです。
 太陽や月はもちろん、あらゆる動物や植物、ライオンや猫や蛇やかえるやきつねなど、いろいろなものに超越した力を見て、それを拝もうとするのです。

 創世記や出エジプト記の時代にも、そのような目に見える神様を祀っていた人たちがたくさんいました。
 創世記には、ヤコブの妻、ラケルが実家を出てくるとき実家の神「テラフィム」を持ち出してきたと書かれています(創世記31章19節)。各家にはそれぞれ、その家の神があったようですが、それは、まさに「見えて」「さわれて」「運べる」もの、偶像だったのです。

 一方、天地を創造された神、「わたしはある」と自己紹介された神は、具体的な見える像のなかに収まり切れるはずもないのです。どんなに神々しく、美しく作っても、目に見える像や絵や物のなかに、天地創造の神を刻むことなど不可能なのです。


 偶像を作るなと言われるのは、人間が自分で崇拝の対象を作ること、はっきりいえば、人間の思いが「神」を作る傲慢さへの警告です。私たちはいつも、私たち人間は被造物であって、神が創造者であると言うことを、覚えていたいものです。

 偶像は、しょせん偶像に過ぎません。もちろん、それを知った上で、画家が信仰を込めて描いた絵や、精魂込めて彫られた像を、そのすばらしい作品を評価するのは必要なことだと思いますが。


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2010年12月26日

Coffee Break125 偶像問題(出エジプト記20章)




第二の戒め  20:4   あなたは、自分のために、偶像を作ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。


 第二の戒めは、私たち日本人に対して、一種の踏絵のように使われているところがあります。
 何しろ、私たちの文化にある神(往々にして、神仏といっしょにされますが)は、形のあるものです。
 神社仏閣、仏像、お地蔵さま。ほこら、お稲荷さんの狐、ねずみ。鬼、天狗、雷神や龍など、想像上のもの。風や雨、山の神や海の神など、自然の反映であるもの。
 神社などは、わざわざ人の名前がついていて、たとえば菅原道真とか、源の某とかを祀っているところもあります。
 天地万物を創造された唯一の神というのは、それら名前のある神々とあまりにも、概念が違っています。それで、キリスト教というと、ふつうの日本人は従来の神観を適用して、イエス・キリストを祀っていると思うのです。
 イエス・キリストが神であるか人であるかは、日本人にとって理解がむずかしいことではありません。日本ではふつうの人でも、「祀られて神になる」と言う発想があるからです。

 難しいのは、イエス様を信じているクリスチャンから、天神様に行って拝んだことを、冷笑的に見られたりすることなのです。
 葬式で、焼香の時に、クリスチャンが焼香を拒絶してすわっていたりすることなのです。たいていのクリスチャンはとてもよい人です。愛のある道徳的にも立派な人です。そのような人が、葬式で親しい人の死に臨んで、焼香を拒否したりするのです。

 これは同時に、クリスチャンにとっても、福音を語るのを難しくしています。
 そうした関係の中で、「イエス様が神の子であること」「神が人の姿をとって世に来てくださったこと」「三位一体の神」などを日本人に説明するのは、至難のわざです。

☆☆☆☆


 じっさいに、クリスチャンになってから知ったのですが、私の回りにいるクリスチャンたちも、教会も偶像礼拝だけを取り上げて、目の敵にしているわけではありません。聖書を学び、聖書の神への理解が深まれば、しぜんに、偶像の神様では物足りなくなってくるからです。
 それに、家族で主婦一人がクリスチャンである場合、その人は家の行事として、仏事に関わらないわけに行かず、じっさい、それは仕方がないことです。

 聖書の神は、もちろん、「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない」と、3節から4節に続けて、戒めておられます。
 

 けれども、これが、20章2節にあるように、エジプトの奴隷状態から、神によって連れ出してもらったイスラエルの民に向かって言われているのであって、そのような「助け出される体験」をしたことのない、日本人に向けて語られているのではないという前提を、忘れてはいけないと思います。
 
 日本にキリスト教を持ち込んだ最初の外国人たちは、日本の異教的な風習を見て、「坊主にくけりゃ袈裟までも」で、なにもかも偶像礼拝に仕立て上げてしまったところもあるでしょう。また、「偶像を拝むな」というような目に見える禁止はわかりやすいので、それを警告しやすく、また警告された方も大きく受け止めて、恐れるのです。
 
 まだ、天地創造の神について何も知らない人に、天神様に行ったというだけで非難するのは、一種のエリート意識の思い上がりだと誤解されても仕方がありません。
 むしろ、厳しい人生に傷ついている人がいたなら、(先方が願えば堂々と、また、ひそかにでも愛をもって)祈ってあげましょう。受験や病気や失業や失敗など、だれにとっても、人生にはたくさんの乗り越えなければならないハードルがあります。

 苦しいところから連れ出していただいたという経験が、いわば出エジプトのような体験こそが、本物の神様を知るきっかけではないでしょうか。偶像を拝まなくなることより、天地創造の神様を体験することのほうが先にこなければならないのです。




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2010年12月27日

Coffee Break126 安息日(出エジプト記20章)




 第四の戒め  20:8   安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

 これに続く、20章9節には、六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
 しかし七日目は、あなたの神、主の安息日である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も──
と、書かれています。
 また、申命記5章13節14節15節にも、安息日について、記されています。

 この理由は、創世記の天地創造のとき、神が六日間働いて七日目に休まれたからです。

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 私がはじめてイギリスに行った頃(1989年)、イギリスの日曜日は、眠ったように静かでした。スーパーマーケットやデパート、商店のほとんどが閉まっていました。私が下宿していた小さな町では、喫茶店やレストランも閉まってしまうのです。せっかくの休みに買い物もできず、外食もままならず、こんなことは日本では考えられない。かき入れ時なのに・・・と思いました。
 平日も午後五時になると、デパートやスーパーマーケットが閉まるので、最初、これは、「勤労者」の権利が完全に保障されている証拠かもしれないと思いました。スーパーマーケットなどのサービス業だからといって、時差出勤で夜まで働かなくて良いわけで、ちょっと感心したのです。日本では過労死などが問題になっていた頃でしたから。

 当時は、クリスチャンではなかったので、これが、もともと聖書から出てきた制度だとは思いもしませんでした。


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 十戒の中で述べられている安息日は、土曜日です。ユダヤ教では、一日は夜から始まるので、厳密には金曜日の夜から土曜日の夜までです。それが、イエス・キリストが復活された日曜日(主日)と、ヨーロッパの地元宗教の「太陽を拝む日」などが混交し、いつしか、日曜日が休日になってしまいました。
 けれども、もちろんユダヤ教では、今でも土曜日が安息日です。


 それにしても、現代を生きる私たちは、全員が同じ日に休むのは無理があります。
 たぶん、じっさいには、これが完全に実行できていた時代はあるのかしらと思うほどです。どんなに単純な社会でも、母親や主婦、看護人、召使は完全には休めません。戦争中なら兵士もそうです。宿屋なら客がいれば、もてなさないわけにはいきません。
 まして、現代のような複雑な社会で、同じ日に全員が休めるはずもありません。

 しかし、この戒めは生きているのです。この戒めの要点は、六日間働いたら一日休むということです。今は週休二日の時代ですが、三千五百年もの昔の時代に、このような安息日の戒めを与えられた神は、偉大な方というしかありません。

 戒めをもう一度読んでください。主人だけでなく、男奴隷や女奴隷、家畜、外国人も、すべて休むよう命じられているのです。



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2010年12月28日

Coffee Break127 十戒・姦淫の罪(出エジプト記)




 十戒の第五から第十までは、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。という戒めに括られます。

 自分の子どもに殺されたり、ののしられたりしても平気な親などいるでしょうか。隣人に殺されるなんて、考えるだけでぞっとします。姦淫。盗み。大切な白黒を決めるような裁判の場で偽りの証言をされること。それに、不要に嫉妬されるのも困ります。第十の戒め、隣人の家を欲しがってはならないは、人間のあくなき欲望と嫉妬を戒めています。
 

 この六つの戒め中で、今の時代の実情とかけ離れてしまったのは、第七番めの戒め姦淫してはならないかもしれません。
 姦淫という言葉もあまり使いません。せいぜい不倫です。ところが、今で言う不倫と、十戒の「姦淫」との間には、かなりの開きがあります。


 この時代は、女性には「性の自由」はいっさいなかったのです。女は結婚までは父親や兄に属するものでした。結婚後は、夫に属するものでした。恋人や夫となる相手を自分で選ぶなど、考えられないことでした。
 女性の性は父親に属するのですから、結婚する男は女性の父親に花嫁料を払うのです。一度、そのようにして夫をもてば、他の男と関係をもつのは許されませんでした。これは単に、相手を悲しませるからではなく、社会的に罪でした。
 
☆☆☆☆


 クリスマスになると、かならず語られるのが、イエス・キリストの母マリヤの処女懐妊です。

 新約聖書の時代も、女は男に属するものでした。律法は十戒を授かった出エジプト記の頃より、厳格に行なわれていました。結婚までは、女性は父親や兄、要するに家族の長に属するのです。結婚後は夫に属していました。婚約は結婚と同様の拘束がありましたから、婚約中に他の男と関係をもったりすれば、「姦淫」になりました。

 聖霊によって身ごもったマリヤを、婚約者のヨセフが「婚約を解消すべきか」悩むのはこのためなのです。もし、姦淫だったら、たとえ、ヨセフが許しても社会が許しません。

 マリヤが石打の刑などにならないために、ヨセフは早く結婚してしまうか、はやく離縁するかどちらかでした。婚約がなければ、マリヤの妊娠は醜聞ではあっても、死刑ではありません。
 み使い(天使)が、ヨセフの夢に現れて、マリヤ懐妊のいきさつを告げ知らせ、「マリヤを娶るよう」言わなければ、ヨセフは離縁を選んだでしょう。(マタイの福音書1章18節〜25節)

 あるいは、婚約者を告発することもできたのに、ヨセフはそうはしないで内密に離縁しようと思っていました。さらにみ使いの言葉に従って結婚しました。結婚しても、イエスが生まれるまでは、マリヤに触れませんでした。
 よりによって、ローマ皇帝の住民登録の命令が出たために、その時期、イスラエル中の人々が旅をすることになりました。ヨセフも身重の妻を連れて、住民登録のためにガリラヤのナザレからベツレヘムに向かったのです。

 宿屋はどこも満員だったのです。ベツレヘムで産気づいたマリヤは、宿屋の馬小屋で出産するのです。赤ん坊を寝かせるために誰かが飼い葉桶を持ってきてくれたのが、精一杯の幸運でした。
 
 さらにヘロデ王が二歳以下の赤ん坊を殺すと聞いて、ヨセフはまたマリヤを連れ、エジプトに旅立つのです。(マタイの福音書2章13節14節)
 
 身重のマリヤとイエス様の出生を、必死に支えたヨセフの胸中はどんなだったでしょう。彼はまずしい平凡な大工でした。み使いの言葉を聞く信仰がなければ、「つぶれていた」かもしれません。もちろん、彼にたしかな信仰があればこそ、神様がマリヤの夫として選んでおられたのですが。




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2010年12月29日

Coffee Break128 姦淫について(出エジプト記21章22章)




 「姦淫」を、文字通り今の常識で解釈すると、妻や夫がいるのに他の異性と関係をもつことでしょう。まさに、「不倫」です。
 なかには、「妻がうるさいから」「夫に知れるとまずい」「後々めんどうだから」「社会的なスキャンダルがこわい」から、不倫はいけないなどと言う人もいるでしょうか。
 その裏返しで、「楽しければいいじゃない」「秘密ならいいじゃない」などの声さえ聞こえてきそうな時代です。

 じっさい、人間の頭で考えると「姦淫してはならない」は、難しいのです。
 大切なのは、十戒が人間の戒めではなく、「神の命令だから」だということです。神様が「してはいけない」とおっしゃることだと言う点が大切なのです。

 神様が最初の人間を造られた時、男と女が一人ずつでした。それが神様の御心でした。不倫や姦通がいけない理由の第一は、それが人を傷つけるからではありません。私たちをお造りになった神さまの、「創造のわざ」を傷つけるからです。人間をはじめ、すべての創造物は、すなおに神様の創造のわざに沿って生き、存在することがもっともすばらしく、美しく調和するのです。人間は本来、一夫一婦で生きることがもっとも安らぎのある、豊かな生き方ができるように造られているのです。


 ただ、姦淫の意味は、相当曖昧でした。配偶者がいるのに他の異性と親しくするのは、女の場合は罰せられました。しかし、男の場合は、すでに一夫多妻である者、妾を持つ者もいて、それが社会的に容認されていました。その大きな理由は、女には経済力がなかったことです。経済力がない女を、経済力のある男が養うのです。
 いまのようなIT社会、軽労働の社会ではありません。牧畜も農業も男の腕力なしには成り立ちません。とくに、中東のように気象気候がはげしく、また、民族や部族の出入りが多くていつも戦争になっているような場所では、男がいないのは致命的でした。家を継ぎ、指導し、治めるのは男でした。
 
 それで、夫が複数の妻を持つ場合の、妻たちの心理的な悲しみなどは、あまり問題になりませんでした。(いまなら、精神的虐待!! 聖書には一人の夫の妻たちの確執と悲しみの物語が、いくつも記されています)
 しかし、これは古代イスラエルに限りません。日本でも、ほん、百年前まではありふれた感覚でした。妻が夫の妾に嫉妬するなど、「はしたない」と非難されたのです。


☆☆☆☆

 十戒が「姦淫」と指定する関係は、人妻なら、夫以外の男との性的関係です。しかし、夫の場合は、女を作っても妻に対して「姦淫」になるのではありません。相手が人妻である場合だけが、姦淫になるのです。

 イスラエルの二代目の王ダビデが、ウリヤの妻パテシェバとの関係を咎められたのは、ダビデに妻がいたからではありません。ダビデは、その時点ですでに三人以上の妻がいました。ダビデが咎められたのは、パテシェバにはダビデ王のために戦場で戦っている夫がいて、その留守中にダビデがパテシェバを召し、しかも、彼女を手に入れるために、パテシェバの夫をわざわざ危険な最前線に送って殺してしまったからです。(Uサムエル記11章14節15節)
 この時、神様は「望むならもっと与えたであろうに」と言っておられます。ダビデが咎められたのは、人妻を盗んだからで、これは「姦淫するな」に触れたのではなく、八番目の「盗んではならない」。十番目の「欲してはならない」に触れているのです。(Uサムエル記12章8節)


 男が、どうしてこのように寛大に扱われたのかと、腹立たしく思う人もいるかもしれませんが、すでに不公平が当たり前の社会で、完全に一夫一婦を守れと言ったところで、「絵に描いたモチ」、ぜったいに実現できない人間社会に、神様がぎりぎりのところまで譲歩されたのでしょう。

 神様が女性に配慮されなかったと言うのではありません。

 たとえば、21章10節には、「もし彼が他の女を娶るなら、先の女への食べ物、着物、夫婦の務めを減らしてはならない。」と、記されています。
 また、独身の女性(婚約者もいない女性)を誘って寝た場合は、その女性の親に花嫁料を払って結婚しなければならない。(22章15節)
 その父が彼女をその人に与えることを固く拒むなら、その人は処女のために定められた花嫁料に相当する銀を支払わなければならない。(22章16節) 
 
 これらも、当時は、弱い立場の女性を配慮した掟だったのでしょう。

 しかし、このような男性中心のモラルを、イエス様は嫌われました。
 あすはイエス様が、姦淫をどのように見ておられたか、新約聖書を見てみたいと思います。



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2010年12月30日

Coffee Break129 姦淫について(マタイの福音書5章)




 イエス・キリストは、姦淫について大変厳しいことを仰せになっています。

 「姦淫してはならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見るものは、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイの福音書5章27節28節)


 有名な山上の説教の言葉のひとつです。ここで語られるイエス様の言葉は、どれも衝撃的なきびしさです。

「姦淫してはならない」が、神の命令であっても、その適用は十戒が与えられた当時の社会状況を反映した、きわめて現実的なものでした。
 昨日、書いたように「男社会」であるのを反映して、姦淫が適応される基準が男と女とでは異なったのです。男性は複数の妻や妾をもつこともできました。また、離縁状を渡せば離婚も許されたのです。(申命記24章1節)
 人妻、婚約者のいる女、肉親、父親の妻など、犯してはならない関係はありましたが、事実上、男には律法に置いても、相当な性的自由があったと言わなければなりません。

 ところが、イエス様は、「心に情欲を抱いて女を見るものは、すでに姦淫を犯したと同様だ」と、おっしゃったのです。
 これについて、ある評論家の方が、「これじゃ、道も歩けない」と書いておられるのを読んだことがあります。男性が通りすがりの女性を見て、「すてきだな」と思う時、少なくとも半分くらいは情欲が入っていると、彼は言うのです。女性に対し、そういうほとんど反射的本能的は思いを抱くのが男であると。性的魅力を感じたからと言って、それがただちに、セクハラ的行動に結びつくことのほうがはるかに少ない。
 
 はっきりしているのは、イエス様によって示された神様の基準では、一転、男性がとても厳しく裁かれることでしょうか。

 この言葉はさらに続きます。

 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナ(地獄)に投げ込まれるよりは、よいからです。
 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。(5章29節)


 もっとも、これには、男性だけでなく女性だって該当者がいるかもしれません。男性とは程度や質が違うかもしれませんが、女性だって男性を見て、「すてきだな」と思うことがあるのです。最近のセクハラ問題では、女性の上司も該当しているそうです。
 創世記では、ヤコブの息子ヨセフが奴隷に売られたエジプトで、仕えていたエジプトの高官ポテファルの妻に誘惑される話が出てきます。(創世記39章) しつこい誘惑を断乎はねつけたヨセフを、ポテファルの妻は腹いせに、「犯されそうになった」と、夫に言いつけたのです。

 
 ☆☆☆☆


 イエス様は、大変厳しい基準をお示しになったのですが、これはもちろん、目的があってのことでした。かつて、十戒をモーセにお与えになったとき(イエスの時代から千五百年ほども昔です)、神様は、人間社会の現実にぎりぎりまで譲歩してくださったのです。

 ところが、人間は神様が譲歩してくださった基準を守れば、神の前に完全だと勘違いするようになりました。
 イエス様が地上に来られた頃、ユダヤ社会では、律法に書かれているとおり、神礼拝や祭祀を行ない、親を敬い、隣人を愛し、盗まず、殺さず、欲しがらずを実行して、それができない弱い立場の人を見下しても平気な人たちが、たくさんいました。
 とくに、律法学者、ファリサイ人といわれるような神様の御用を仕事としている人たちに、そのような「偽善者」が多かったのです。それに対し、イエス様は、ほんとうの神の基準とはどのようなものかを示されたのです。
 
 『自分の隣人(となりびと)を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。(マタイ5章43節)
 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。(44節)
 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。収税人(当時は卑しめられた仕事でした)でも、同じことをしているではありませんか。(46節)
 また、自分の兄弟だけにあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人(非ユダヤ教徒)でも同じことをするではありませんか。(47節)



 「自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。」
 この、まるっきり不可能とも思えること。これこそが神の基準だと、イエス様は言われるのです。イエス様が容赦のない厳しい方だったからではありません。
 神の基準に、とうてい届かないことを、律法学者やファリサイ人、そして、もちろん、私たちに気づかせるためなのです。
 神様の基準の前に、欠けの多い、不完全な自分に気がつく時、私たちは、創造者(神さま)に頭を垂れ、ひざまずくことができるのではないでしょうか。
 「相手が人妻でないから姦淫ではない」など、もともと神の意図されるところではなかったのです。



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