2010年12月15日

Coffee Break114 葦の海の奇跡(出エジプト記14章)





 エタムに宿営しているイスラエル人に引き返すように言えと、モーセに仰せになったのは神様です。
 イスラエル人が引き返したために、あとを追ってくるパロが追いつきやすくなったのです。それは、神もご存知でした。

「パロはイスラエル人について、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言うであろう。(出エジプト記14章3節)
「わたしはパロの心をかたくなにし、彼が彼らのあとを追えば、パロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現し、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」(4節)
 

 パロの軍勢が迫ってきて、民が叫び出し、モーセに詰め寄った時、神にお伺いを立てるモーセを神は叱り付けて、命じます。

「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。
 あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ。(16節)
 見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとから入って来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現そう」(17節)


 「葦の海が割れる」話です。とても有名な箇所なので、あらためて説明するまでもないかとも思います。
 うしろから敵が迫ってきます。前は海です。この時、主(神)がモーセに命じられた、「杖を前に差し伸ばす」動作は、なにを意味しているのでしょう。
 これは、助けを求めて叫ぶ動作に代わるものとして、指示されています。泣き叫んでいないで、「行こう」としなさいと、主は命じておられるのです。あくまで、主を信頼して従いなさいと言われているのです。
 モーセが杖を差し伸べてから、じっさいに海が割れるまで、どれくらいの時間があったのかはわかりませんが、モーセのそばで神へのお伺いを見ていた者たちは、杖を前に差し伸べて、「前進!」と叫ぶモーセに、「そんな無茶な!」と一瞬でも、思わなかったでしょうか。この時とばかり、モーセに詰め寄って彼をリーダーの座から引き下そうと思った者もいたでしょう。

 その時、たしかに、神がお答えになったのです。それまで、イスラエル人の前面を進んでいた神の使いが、彼らのうしろに移ったのです。同時に雲の柱も、うしろに移りました。
 それで、あたりは夜のように真っ暗になり、エジプト軍は、一晩中イスラエル人に追いつくことができなかったのです。
 神の使いが敵の攻撃を阻んでいる間、モーセが海に杖を伸ばしていると、「主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。」(21節)」

 イスラエル人たちは、かわいた海の底を渡って進むことができました。
 これは想像を絶する奇跡だったに違いありません。
 もちろん、パロの軍勢も、分かれた水の間を追ってきたのです。ここで、主はまたも、奇跡を行ないました。
 かわいた海の底に入ってきたパロの軍勢は、「車輪の音も軽く!」とは行きませんでした。彼らの戦車の車輪が外れました。戦車が立ち往生すれば、馬も歩兵も進めません。細い道で一台が故障しただけでも、渋滞します。つぎつぎと戦車の車輪が外れたのだからたまりません。
 さすがに、エジプト人も、それが神のワザだと気がつきました。
 それでエジプト人は言った。「イスラエル人の前から逃げよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられるのだから。」(25節)

 神が、もう一度、モーセに手を海の上に差し伸べるように仰せになりました。モーセが手を差し伸べると、水が返ってエジプト人たちを覆いました。あとを追って海の道に入ってきたエジプトの全軍勢は、溺れ死ぬことになったのです。

☆☆☆☆  

 現代を生きる私たちが、ニュースでも見るような感覚でこの話しをとらえると、エジプト軍を全滅させられた神は、残酷にも見えるかもしれません。「敗走するなら逃がしてやればいいのに」。
 聖書は、そのような現代人のヒューマニズム的な疑問に、ここでは答えていません。

 この章のしめくくりは、次のとおりです。
 
 こうして、主はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た。(30節)
 イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。(31節)





posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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