2010年12月16日

Coffee Break115 つぶやく(出エジプト記16章3節)




 私たち人間は、一日の内でも、何度も気分が変わります。人を巻き込んだこのような言い方は使うべきでないとしたら、もちろん、「私は」一日の内に何度も気分が変わると、言い直すことができます。
 それは、なぜでしょう。
 朝、起きて神様に感謝します。「ああ、気持ちよく目が覚めました。ありがとうございます」
 昨日、気がかりだった胃の調子が良くなっていた、出かけようとしたら、前夜からの雨が上がっていた。その程度のことでも、とても嬉しくなります。
 ところが、今日に限って、バスが遅れてきます。渋滞で時間がかかります。赤信号にばかりひっかかります。仕事場では、だれかが休んでいて、その人の分も仕事がまわってくるかもしれません。だんだん、なんとなく、胸の中が波立ってきます。もちろん、その程度のことでは、顔はにこにこしていますが。

 ある人といっしょに、海外旅行をしたことがあります。すると、一人旅より、不満が溜まるのです。しかし、驚いたのは、相手の人は、もっと私に不満だったのです。私のほうがその土地を良く知っていて、もともと彼女は私を当てにして、旅行に踏み切ったからです。
 こちらは、ツアーコンダクターではないし、別に、二人で行くことで、何か得することがあるわけでもなく、強く誘ったわけでもない。相手は初めての海外旅行で、連れていって欲しいと言ったのだし、一人旅よりは楽しいこともあるかもしれない、くらいの気持ちでしたから、三日目にはもう、文句ばかり言い始めた相手に、びっくりしてしまいました。

 旅先で見た風景、食事、出あった人が楽しければ、その時はご機嫌なのです。ところが、一時間後に予定通りいかないことがあっても、不満をぶつけてくるのです。

 当時、私は内心、彼女に腹を立てましたが、旅先で突き放するわけにもいかず、一ヶ月間いっしょに旅したのです。
 いまなら、相手が自分を当てにしないよう、はじめに、しっかりと釘を差すでしょう。人間はリーダーとなる人に、不満をもつものだから、出来るだけ「対等に」行きましょうと。

 
 三千五百年前にすでに起こった出来事として、聖書に書かれている出エジプト記を読んでいて、あらためて、昔の記憶が甦ったのです。

 モーセの立場は、たった一人の知り合いをどこかへ案内するような、単純なものではありませんでした。二百万人とも言われる集団を導くのです。それは、もとは、集団が神に叫んだことから、神がモーセに命じられたことでした。けれども、モーセが積極的に彼らをリードして、始まった旅でもありました。
 行き先は、神が彼らの先祖に約束されたとはいえ、彼らにとっては未知の土地です。
 パスポートもトラベラーズチェックもアメリカンエキスプレスもビザカードもない時代です。しかも、通路となる土地には、強くて荒々しい先住民がいます。荒野は、自由に行き来できますが、水や椰子の木・オアシスに出遭うのは、運任せとなります。


 ☆☆☆☆

 絶体絶命の状態で、葦の海を分けてイスラエル人を渡らせ、追跡するエジプトの軍隊を海の中にほろぼしてくださった神様の奇跡は、聖書の中でも特筆できる大きな出来事です。
 
 このあと、イスラエル人たちは、もちろん、主を讃えました。彼らは主にほめ歌を歌いました。出エジプト記15章1節から18節は、主の栄光を讃える褒め歌、感謝の歌です。
 
  主に向かって私は歌おう。
  主は輝かしくも勝利を収められ、
  馬と乗り手とを海に投げ込まれたゆえに。
  主は私の力であり、ほめ歌である。
  主は私の救いとなられた。
  この方こそ、わが神。
  私はこの方をほめたたえる。
  私の父の神。
  この方を私はあがめる。


 このように始まるほめ歌は、次には、主のワザを具体的に描写し、主の威力と力をほめ称える。 
 それから、カナンに向かうまでに遭遇する敵、ペリシテ人、エドム人、モアブ人、カナン人の名を上げて、彼らが主の名を恐れて震えおののきますようにと、願いを歌う。

 彼らの歌を女たちとタンバリンを叩きながらリードしたのは、女預言者のミリヤムでした。モーセが赤ん坊の時に、川に流されたモーセのあとを追って、王女に拾われるのを見守ったモーセの姉です。

 ミリヤムは繰り返しました。
  主に向かって歌え。
  主は輝かしくも勝利を収められ、
  馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた。


 興奮冷めやらぬ一行は、喜びいっぱいで、荒野に向かって旅を開始したのです。
 
 ところが、三日歩いても、井戸や泉や川が見つかりませんでした。
 やっと、マラと言うところにたどり着きましたが、マラの水は苦くて飲むことができません。「苦い」のでマラと名づけられたと言うのがほんとうです。
 すると、葦の海を渡った直後、あれほど興奮して神を讃えた人たちが、たちまちモーセに不満を言いました。聖書のことばで、「つぶやいた」のです。
「私たちは何を飲んだらいいのですか」
 
 モーセは主に叫びました。
 すると、主は、モーセに一本の木をお示しになりました。それを投げ入れると、「水は甘くなった」とあります。

 やがて、彼ら一行はエリムという地点に到着します。そこには、十二の泉と、七十本のなつめやしの木がありました。七十本は、ここでは、大変たくさんの意味でしょう。オアシスに到着した彼らは、ホッとして、心身を休めたにちがいありません。

 次に、イスラエル人はエリムを発って、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入りました。
 その時、またしても、イスラエル人全員がモーセとアロンに、不満を言ったのです。

「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」(出エジプト記16章3節)

 それは、第二の月の十五日のことでした。イスラエル人がエジプトを逃げ出した第一の月の21日からまだ、一ヶ月も経っていなかったのです。




posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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