2010年12月17日

Coffee Break116 マナ(出エジプト記16章マタイの福音書6章)  




「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」(出エジプト記16章3節)

 この言葉を読み返すと、なんとひどい不満の述べ方だろうと思います。
 いやみを言い、ぼやきながら、すねています。モーセとアロンの指導者としての能力を極限まであてこすり、指導者の地位から引き摺り下ろしてやれという意図さえ見えます。

 イスラエル人は、エジプトにいたとき、奴隷でした。王侯貴族のように暮らしていたのではありません。解放され、もろ手を挙げて喜びながら、エジプトを出てきたのです。それなのに、荒野で難民同様の生活が始まると、まるで良い暮らしから引きずり下ろされたかのような不満を言い、さらには、飢え死にさせるつもりかと、出エジプトの目的を、悪意をもって捻じ曲げました。

 イスラエルの民が奴隷としての苦しみを神に訴えたために、神はアブラハム・イサク・ヤコブへの約束を思い出され、彼らを救おうとされたのです。彼らは、神がモーセを召し出して、指導者に立て、たくさんの奇跡を行なってエジプトのパロ(王)を屈服させ、ようやく出国にこぎつけたことを知っていたはずでした。
 

 今回はモーセが主(神)に叫ぶまでもなく、主がモーセに仰せられました。

「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。」(出エジプト記16章4節)

 モーセは民に言います。

「夕方には、主はあなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、あなたがたが主につぶやく、そのつぶやきを主が聞かれたからです。いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです。」(8節)

☆☆☆☆


 神は自分が選んだ民のそむきを、怒りで報いることもおできになったのです。けれども、愛でおおってくださいました。

 その日の夕暮れになると、ウズラが飛んできて、宿営地いっぱいに降り立ったというのです。ウズラは、低いところを飛ぶのでつかまえやすく、体は鳩より小さいのですが肉があります。民は、思いがけず、肉を食べることができたのです。

 また、翌日の朝、民が見ると、荒野の面には、地に下りた白い霜のようなもの。うろこのような細かいものがあった。(16章14節)

 イスラエル人が、「これは何だろう」と互いに言いあいました。モーセは、「これは、主があなたがたに食物として与えてくださったパンです」と教えました。

 この不思議なものが、マナ(これは何だろうの意味)です。その日から、イスラエルの民がカナンに入るまでの四十年間、神は民に、このパンを与え続けられるのです。

 それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。(16章31節)

 マナについても、他の多くの奇跡と同じように、なんとか合理的科学的に説明しようとする試みがあるようです。けれども、マナについて私たちが心にきざまなければいけないのは、四十年間、イスラエルの民がこの不思議な食べ物で養われた、ということではないでしょうか。

 新約聖書には、イエス様が山上の説教で語られた、つぎのようなことばがあります。

 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父はこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。(マタイの福音書6章26節)

 このあと27節から34節の間には、「神の国とその義をまず求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」という有名な聖句があります。

 マナは新約の時代(紀元一世紀以降)の、この神の約束がすでに、それより千五百年も昔の、出エジプトの時(いまから三千五百年前)に到来していたのを示すものではないでしょうか。
 すでに、神によって、エジプトの奴隷生活から救い出されていたイスラエルの民。彼らに必要なのは、神への心からの信仰・従順だったのです。


 




posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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