2010年12月25日

Coffee Break124 偶像(出エジプト記20章)




 第二の戒め  20:4   あなたは、自分のために、偶像を作ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

 偶像とは、辞書的な意味では(広辞苑より)、@木、石、土、金属などで作った像。A神仏にかたどって作った像。B宗教的崇拝の対象とされるもの、とあります。

 聖書の神も、ところどころで、目に見えるかのように人間の前に現れておられます。また、必要な時には、言葉で話しかけられます。たとえば、「ひかりがあれ」と言うように。(創世記第1章3節)
 また、アダムとエバが木の実を食べて目が開けたときにも、神様が来られたので、身を隠したと書かれています。そうした彼らに、神様が「どこにいるのか」と声を掛けています。(3章9節)

 このような場面は、つい神様を見える形でとらえてしまいますが、じつは、神様が形をもっておられるとはどこにも書かれていません。

 天地万物を創造された神は、あらゆるところに遍在され、あらゆるものを存在させておられる途方もなく大きな方なのです。

 それに対し、人間は、どうしても目に見えるものを拝みたくなるのです。
 太陽や月はもちろん、あらゆる動物や植物、ライオンや猫や蛇やかえるやきつねなど、いろいろなものに超越した力を見て、それを拝もうとするのです。

 創世記や出エジプト記の時代にも、そのような目に見える神様を祀っていた人たちがたくさんいました。
 創世記には、ヤコブの妻、ラケルが実家を出てくるとき実家の神「テラフィム」を持ち出してきたと書かれています(創世記31章19節)。各家にはそれぞれ、その家の神があったようですが、それは、まさに「見えて」「さわれて」「運べる」もの、偶像だったのです。

 一方、天地を創造された神、「わたしはある」と自己紹介された神は、具体的な見える像のなかに収まり切れるはずもないのです。どんなに神々しく、美しく作っても、目に見える像や絵や物のなかに、天地創造の神を刻むことなど不可能なのです。


 偶像を作るなと言われるのは、人間が自分で崇拝の対象を作ること、はっきりいえば、人間の思いが「神」を作る傲慢さへの警告です。私たちはいつも、私たち人間は被造物であって、神が創造者であると言うことを、覚えていたいものです。

 偶像は、しょせん偶像に過ぎません。もちろん、それを知った上で、画家が信仰を込めて描いた絵や、精魂込めて彫られた像を、そのすばらしい作品を評価するのは必要なことだと思いますが。


posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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