2010年12月26日

Coffee Break125 偶像問題(出エジプト記20章)




第二の戒め  20:4   あなたは、自分のために、偶像を作ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。


 第二の戒めは、私たち日本人に対して、一種の踏絵のように使われているところがあります。
 何しろ、私たちの文化にある神(往々にして、神仏といっしょにされますが)は、形のあるものです。
 神社仏閣、仏像、お地蔵さま。ほこら、お稲荷さんの狐、ねずみ。鬼、天狗、雷神や龍など、想像上のもの。風や雨、山の神や海の神など、自然の反映であるもの。
 神社などは、わざわざ人の名前がついていて、たとえば菅原道真とか、源の某とかを祀っているところもあります。
 天地万物を創造された唯一の神というのは、それら名前のある神々とあまりにも、概念が違っています。それで、キリスト教というと、ふつうの日本人は従来の神観を適用して、イエス・キリストを祀っていると思うのです。
 イエス・キリストが神であるか人であるかは、日本人にとって理解がむずかしいことではありません。日本ではふつうの人でも、「祀られて神になる」と言う発想があるからです。

 難しいのは、イエス様を信じているクリスチャンから、天神様に行って拝んだことを、冷笑的に見られたりすることなのです。
 葬式で、焼香の時に、クリスチャンが焼香を拒絶してすわっていたりすることなのです。たいていのクリスチャンはとてもよい人です。愛のある道徳的にも立派な人です。そのような人が、葬式で親しい人の死に臨んで、焼香を拒否したりするのです。

 これは同時に、クリスチャンにとっても、福音を語るのを難しくしています。
 そうした関係の中で、「イエス様が神の子であること」「神が人の姿をとって世に来てくださったこと」「三位一体の神」などを日本人に説明するのは、至難のわざです。

☆☆☆☆


 じっさいに、クリスチャンになってから知ったのですが、私の回りにいるクリスチャンたちも、教会も偶像礼拝だけを取り上げて、目の敵にしているわけではありません。聖書を学び、聖書の神への理解が深まれば、しぜんに、偶像の神様では物足りなくなってくるからです。
 それに、家族で主婦一人がクリスチャンである場合、その人は家の行事として、仏事に関わらないわけに行かず、じっさい、それは仕方がないことです。

 聖書の神は、もちろん、「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない」と、3節から4節に続けて、戒めておられます。
 

 けれども、これが、20章2節にあるように、エジプトの奴隷状態から、神によって連れ出してもらったイスラエルの民に向かって言われているのであって、そのような「助け出される体験」をしたことのない、日本人に向けて語られているのではないという前提を、忘れてはいけないと思います。
 
 日本にキリスト教を持ち込んだ最初の外国人たちは、日本の異教的な風習を見て、「坊主にくけりゃ袈裟までも」で、なにもかも偶像礼拝に仕立て上げてしまったところもあるでしょう。また、「偶像を拝むな」というような目に見える禁止はわかりやすいので、それを警告しやすく、また警告された方も大きく受け止めて、恐れるのです。
 
 まだ、天地創造の神について何も知らない人に、天神様に行ったというだけで非難するのは、一種のエリート意識の思い上がりだと誤解されても仕方がありません。
 むしろ、厳しい人生に傷ついている人がいたなら、(先方が願えば堂々と、また、ひそかにでも愛をもって)祈ってあげましょう。受験や病気や失業や失敗など、だれにとっても、人生にはたくさんの乗り越えなければならないハードルがあります。

 苦しいところから連れ出していただいたという経験が、いわば出エジプトのような体験こそが、本物の神様を知るきっかけではないでしょうか。偶像を拝まなくなることより、天地創造の神様を体験することのほうが先にこなければならないのです。




posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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