2010年12月28日

Coffee Break127 十戒・姦淫の罪(出エジプト記)




 十戒の第五から第十までは、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。という戒めに括られます。

 自分の子どもに殺されたり、ののしられたりしても平気な親などいるでしょうか。隣人に殺されるなんて、考えるだけでぞっとします。姦淫。盗み。大切な白黒を決めるような裁判の場で偽りの証言をされること。それに、不要に嫉妬されるのも困ります。第十の戒め、隣人の家を欲しがってはならないは、人間のあくなき欲望と嫉妬を戒めています。
 

 この六つの戒め中で、今の時代の実情とかけ離れてしまったのは、第七番めの戒め姦淫してはならないかもしれません。
 姦淫という言葉もあまり使いません。せいぜい不倫です。ところが、今で言う不倫と、十戒の「姦淫」との間には、かなりの開きがあります。


 この時代は、女性には「性の自由」はいっさいなかったのです。女は結婚までは父親や兄に属するものでした。結婚後は、夫に属するものでした。恋人や夫となる相手を自分で選ぶなど、考えられないことでした。
 女性の性は父親に属するのですから、結婚する男は女性の父親に花嫁料を払うのです。一度、そのようにして夫をもてば、他の男と関係をもつのは許されませんでした。これは単に、相手を悲しませるからではなく、社会的に罪でした。
 
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 クリスマスになると、かならず語られるのが、イエス・キリストの母マリヤの処女懐妊です。

 新約聖書の時代も、女は男に属するものでした。律法は十戒を授かった出エジプト記の頃より、厳格に行なわれていました。結婚までは、女性は父親や兄、要するに家族の長に属するのです。結婚後は夫に属していました。婚約は結婚と同様の拘束がありましたから、婚約中に他の男と関係をもったりすれば、「姦淫」になりました。

 聖霊によって身ごもったマリヤを、婚約者のヨセフが「婚約を解消すべきか」悩むのはこのためなのです。もし、姦淫だったら、たとえ、ヨセフが許しても社会が許しません。

 マリヤが石打の刑などにならないために、ヨセフは早く結婚してしまうか、はやく離縁するかどちらかでした。婚約がなければ、マリヤの妊娠は醜聞ではあっても、死刑ではありません。
 み使い(天使)が、ヨセフの夢に現れて、マリヤ懐妊のいきさつを告げ知らせ、「マリヤを娶るよう」言わなければ、ヨセフは離縁を選んだでしょう。(マタイの福音書1章18節〜25節)

 あるいは、婚約者を告発することもできたのに、ヨセフはそうはしないで内密に離縁しようと思っていました。さらにみ使いの言葉に従って結婚しました。結婚しても、イエスが生まれるまでは、マリヤに触れませんでした。
 よりによって、ローマ皇帝の住民登録の命令が出たために、その時期、イスラエル中の人々が旅をすることになりました。ヨセフも身重の妻を連れて、住民登録のためにガリラヤのナザレからベツレヘムに向かったのです。

 宿屋はどこも満員だったのです。ベツレヘムで産気づいたマリヤは、宿屋の馬小屋で出産するのです。赤ん坊を寝かせるために誰かが飼い葉桶を持ってきてくれたのが、精一杯の幸運でした。
 
 さらにヘロデ王が二歳以下の赤ん坊を殺すと聞いて、ヨセフはまたマリヤを連れ、エジプトに旅立つのです。(マタイの福音書2章13節14節)
 
 身重のマリヤとイエス様の出生を、必死に支えたヨセフの胸中はどんなだったでしょう。彼はまずしい平凡な大工でした。み使いの言葉を聞く信仰がなければ、「つぶれていた」かもしれません。もちろん、彼にたしかな信仰があればこそ、神様がマリヤの夫として選んでおられたのですが。




posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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