2010年12月30日

Coffee Break129 姦淫について(マタイの福音書5章)




 イエス・キリストは、姦淫について大変厳しいことを仰せになっています。

 「姦淫してはならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見るものは、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイの福音書5章27節28節)


 有名な山上の説教の言葉のひとつです。ここで語られるイエス様の言葉は、どれも衝撃的なきびしさです。

「姦淫してはならない」が、神の命令であっても、その適用は十戒が与えられた当時の社会状況を反映した、きわめて現実的なものでした。
 昨日、書いたように「男社会」であるのを反映して、姦淫が適応される基準が男と女とでは異なったのです。男性は複数の妻や妾をもつこともできました。また、離縁状を渡せば離婚も許されたのです。(申命記24章1節)
 人妻、婚約者のいる女、肉親、父親の妻など、犯してはならない関係はありましたが、事実上、男には律法に置いても、相当な性的自由があったと言わなければなりません。

 ところが、イエス様は、「心に情欲を抱いて女を見るものは、すでに姦淫を犯したと同様だ」と、おっしゃったのです。
 これについて、ある評論家の方が、「これじゃ、道も歩けない」と書いておられるのを読んだことがあります。男性が通りすがりの女性を見て、「すてきだな」と思う時、少なくとも半分くらいは情欲が入っていると、彼は言うのです。女性に対し、そういうほとんど反射的本能的は思いを抱くのが男であると。性的魅力を感じたからと言って、それがただちに、セクハラ的行動に結びつくことのほうがはるかに少ない。
 
 はっきりしているのは、イエス様によって示された神様の基準では、一転、男性がとても厳しく裁かれることでしょうか。

 この言葉はさらに続きます。

 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナ(地獄)に投げ込まれるよりは、よいからです。
 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。(5章29節)


 もっとも、これには、男性だけでなく女性だって該当者がいるかもしれません。男性とは程度や質が違うかもしれませんが、女性だって男性を見て、「すてきだな」と思うことがあるのです。最近のセクハラ問題では、女性の上司も該当しているそうです。
 創世記では、ヤコブの息子ヨセフが奴隷に売られたエジプトで、仕えていたエジプトの高官ポテファルの妻に誘惑される話が出てきます。(創世記39章) しつこい誘惑を断乎はねつけたヨセフを、ポテファルの妻は腹いせに、「犯されそうになった」と、夫に言いつけたのです。

 
 ☆☆☆☆


 イエス様は、大変厳しい基準をお示しになったのですが、これはもちろん、目的があってのことでした。かつて、十戒をモーセにお与えになったとき(イエスの時代から千五百年ほども昔です)、神様は、人間社会の現実にぎりぎりまで譲歩してくださったのです。

 ところが、人間は神様が譲歩してくださった基準を守れば、神の前に完全だと勘違いするようになりました。
 イエス様が地上に来られた頃、ユダヤ社会では、律法に書かれているとおり、神礼拝や祭祀を行ない、親を敬い、隣人を愛し、盗まず、殺さず、欲しがらずを実行して、それができない弱い立場の人を見下しても平気な人たちが、たくさんいました。
 とくに、律法学者、ファリサイ人といわれるような神様の御用を仕事としている人たちに、そのような「偽善者」が多かったのです。それに対し、イエス様は、ほんとうの神の基準とはどのようなものかを示されたのです。
 
 『自分の隣人(となりびと)を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。(マタイ5章43節)
 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。(44節)
 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。収税人(当時は卑しめられた仕事でした)でも、同じことをしているではありませんか。(46節)
 また、自分の兄弟だけにあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人(非ユダヤ教徒)でも同じことをするではありませんか。(47節)



 「自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。」
 この、まるっきり不可能とも思えること。これこそが神の基準だと、イエス様は言われるのです。イエス様が容赦のない厳しい方だったからではありません。
 神の基準に、とうてい届かないことを、律法学者やファリサイ人、そして、もちろん、私たちに気づかせるためなのです。
 神様の基準の前に、欠けの多い、不完全な自分に気がつく時、私たちは、創造者(神さま)に頭を垂れ、ひざまずくことができるのではないでしょうか。
 「相手が人妻でないから姦淫ではない」など、もともと神の意図されるところではなかったのです。



posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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