2011年01月01日

Coffee Break131 新年のごあいさつ




                    

 
      狼は子羊とともに宿り、
      ひょうは子やぎとともに伏し、
      子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、
      小さい子どもがこれを追っていく。
      
      雌牛と熊とは共に草をはみ、
      その子らは共に伏し、
      獅子も牛のようにわらを食う。
      
      乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、
      乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
      
      わたしの聖なる山のどこにおいても、
      これらは害を加えず、そこなわない。
      主を知ることが、
      海をおおう水のように、地を満たすからである。
          (旧約聖書イザヤ書11章6節〜9節)




         主の平和と平安がありますように!     
  



    明けましておめでとうございます。



 2011年を迎えて、Coffee Breakも切りよく、131回から始まります。去年、8月24日から書き始め、毎日、何とか休まず書き続けることができました。
 つたない文章を読み続けてくださった読者のみなさま、ご示唆、ご批判、教え、励ましをくださった方々にお礼を申し上げます。

 聖書を読みながら、考えるところ、感じるところを記したエッセイです。創世記から始まって、まだ、やっと出エジプト記の十戒(20章)です。このペースでは、なかなか進みませんが、同時に聖書全体に目配りできるような文章になればと、念じています。
 二千年もの間(旧約の時代から数えれば三千五百年ほど)、数え切れないほどの人々に、「天地をお造りになった神の愛と救いのご計画」、キリスト信仰を伝え、人々の生き方・心の支えとなり、世界観の背骨になり、研究の対象になってきた、この66巻の書物の、圧倒的な重みをますます覚えています。

 これからもよろしくお願いします。
 聖書物語、現代小説集も訪問していただけるとうれしいです。

                    


                       さとうまさこ 





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2011年01月02日

Coffee Break132 姦淫の女(ヨハネの福音書8章)





 ある時、イエス様が宮(神殿)で教えておられると、律法学者とファリサイ人が一人の女を連れてきて、言いました。

「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。(ヨハネの福音書8章4節)
 モーセは律法の中で、こういう女を石打にするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」(5節)
 彼らはイエスを試してこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。(6節)
 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のないものが、最初に彼女に石を投げなさい。」(7節)



 姦淫についての神様の御心を思う時、忘れてはならない印象深い場面です。
 「罪のないものから」と言われて、群集は年長者から始めて、一人また一人と、その場を立ち去ったのです。そして、最後に、女とイエス様だけが残されました。
 イエス様は、女に言われました。

「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定めるものはなかったのですか。」(10節)
 彼女は言った。「だれもいません。」 そこで、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
(11節)


 ここには、少なくともポイントが三つあると思います。
 @イエス様を陥れてやろうとする律法学者やファリサイ人のもくろみ。
 A群集が自分にも罪があると認めたこと。
 B姦淫の現場から連れてこられたと言う、女の罪の実態です。

 @Aは、大切なことですが、ここでは、この女性の罪の実態を見ましょう。
 この女性は姦淫の現場で捕まりました。しかし、姦淫は一人ではできません。相手がいたはずです。どうして、相手の男が連れてこられなかったのでしょう。
 女性が姦淫と言われたのは、夫か婚約者がいたのに、他の男と寝たからです。相手の男も殺されなければなりません。

 レビ記には、人がもし、他人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。(20章10節)
 申命記に、夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。(22章22節)とあります。

 それなのに、人々は女だけを引き出し、集団で石打にしようとしたのです。それ自体すでに公平さを欠いています。こういうことは、一般的によくあったのかもしれません。
 イエス様が、「相手の男はどうしたのですか。なぜ、女だけを連れてきたのですか。」などと、お咎めにならなかったのは、さすがです。もし、そのように聞けば、結局姦淫を犯した人間は殺してもよいと認めたことになり、たちまち石が投げられたでしょう。

 それこそが、律法学者やファリサイ人の思うつぼでした。律法どおり殺すのなら、なにもイエス様に意見を聞く必要はないわけです。そのとおりするなら、イエス様に特別群集が熱狂することはなかったでしょう。
 イエス様は、神様を口実にしながら血も涙もない律法学者やファリサイ人が、どう歯軋りしてももつことのできない「愛のあるお方」なので、人気があったのです。
 また、イエス様が、「律法はそのように言っているが、この場合は・・・」などと、石打ちを止めれば、これも律法学者やファリサイ人の狙い通りでした。「イエスと言う男は、律法を毀損している、神を冒涜した」と訴えることができるのです。



 別の機会に、やはり彼らがイエス様を試して、「(イスラエルの統治国ローマ帝国の)カイザルに税金を納めるのは律法にかなっているでしょうか。かなっていないでしょうか。」と訊ねたのを、思い出してください。

 イエス様が、「かなっている」と言えば、イスラエルの民衆はイエス様に失望し、「正しくない」と言えば、イエス様は、ローマ帝国に楯突いたとして、訴えられたのです。

 イエス様がデナリ銀貨を出させて、そこに刻まれたレリーフ・皇帝の肖像を指して、「カイザルのものはカイザルへ」「神のものは神へ」と言われたのは、まことに名答でした。(マルコの福音書12章14節〜17節)
 それは、たんに応答が機知に富んでいるということではありません。世俗の権力権威と神の権威をきちんと、分けてみることができるイエス様でなければ、出てこない答えです。

 姦淫も、「人間社会が作る罪」「神がご覧になった罪」の両面があるのではないでしょうか。もちろん、私たちは、神の基準をいつも見つめていないといけないと思います。
 はじめに、一人の男と一人の女を結び合わされた神の創造のわざを傷つけていないでしょうか。
 

 石が飛んでこない時代だから何をしてもよい、そのような気分で人間が自由勝手をしていられるのは、悲しみながらも、神様が譲歩してくださっているからです。
 みずから人の姿をお取りになって「世」に来られ、私たちの罪の身代わりに十字架に磔になったイエス様のご降誕を、私たちは一週間ほど前に、お祝いしたばかりです。






     聖書箇所は、
     新改訳聖書を
     使わせていただいています。







 
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2011年01月03日

Coffee Break133 殺してはならない(出エジプト記20章)





 十戒の六番目の戒め、「殺してはならない」に、異論のある人はいないでしょう。
 個人が他の人に与える最悪の行為です。

 アダムとエバの二人の息子が、人類史が始まったばかりで、人類最初の家庭内殺人を起こしました。カインが弟アベルを殺したのです。動機は嫉妬でした。(創世記4章)

 以来、神様はたくさんの殺人事件を人間たちの間に、ごらんになったにちがいありません。(創世記6章5節〜7節)
 正当な理由があったとはいえ、モーセが最初、エジプトを出奔しなければならなかったのは、彼がエジプトの役人を殺したことでした。
 モーセのところに、民が持ってきたたくさんの訴えの中にも、殺人事件があったかもしれません。
 
 私たちが戦争を悪だと思うのも、けっきょく殺人が行なわれるからです。殺人のない戦争はありえないわけです。しかも、「一人殺せば殺人だが、戦争でたくさん殺せば英雄」と言われるような倒錯したモラルが、堂々とまかり通ります。

 人間の罪の性質は、実に根が深いのです。


 ☆☆☆☆
 
 出エジプト記21章では、戒めに違反した場合の罰則、なかでも、殺されなければならない(死刑に価する)行為が記されています。

 人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。(12節)──殺人事件
 自分の父または母を打つものは、必ず殺されなければならない。(15節)
 人をさらった者は、その人を売っていても、自分の手もとに置いていても、必ず殺されなければならない。(16節)──誘拐事件
 自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。(17節)


 このほかにも、争っている時に妊婦に突き当たり死なせた場合。自分の持っている牛がつく癖があるのに放置していた結果、人を突いて死なせた場合。などが挙げられています。牛が人を死なせた場合は、贖い金でもすむ裁定があったようです。

 同じ聖書の掟として、「いのちにはいのち」(23節)「目には目、歯には歯、手には手」(24節)で有名な、同害報復が記されています。これは、行き過ぎた報復を禁止するために定められたものです。


 一般的に、「刑罰は犯罪を抑止する」と言われます。
 けれども、人が人を罰する「いのちにはいのち」の考え方は、神様のみこころだったでしょうか。

 神様にいのち乞いしたカインを、神様は許して他の土地に移してくださったのです。
 十戒に伴う細則は、「姦淫してはならない」の場合と同じで、やはり、神様が人間の現実に譲歩して下さったのではないでしょうか。



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2011年01月04日

Coffee Break134 呪術を行なう女(出エジプト記22章18節)



 

 出エジプト記20章に十戒が記された後、21章22章23章とその細則ともいうべき掟が並びます。そこに、ちょっと異質とも見えるおきてが、とつぜん出てきます。

 それが、呪術を行なう女は生かしておいてはならない。(22章18節)です。
 
 なぜ、呪術を行なうのはいけないのでしょう。その答えは、別の聖書箇所にあります。

 あなたがたは霊媒や口寄せに心を移してはならない。彼らを求めて彼らに汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。(レビ記19章31節)

 占いや口寄せに頼るのは、イスラエルの民が汚されるからです。ちょうど、姦淫した女が汚されるように、主である神でないものと霊的に交わるので、姦淫を犯すのと同じだと見なされたのです。


☆☆☆☆

 口寄せと言えば、イスラエル初代の王サウルが、霊媒を訪ねる場面があります。

 サウルは、彼をイスラエルの王として選んでくれた預言者サムエルの言いつけにそむいて、サムエルから見限られてしまいました。サムエルは若いダビデを後任として選びました。(Tサムエル16章)
 サウル王は、若くて人気のあるダビデに嫉妬し、運命の凋落のなかで神経を病んでしまいます。そして、霊媒にサムエルを呼び出してもらおうと、ある夜、変装して霊媒師を訪ねるのです。
 
 聖書はここで、霊媒師がじっさいに、サムエルを呼び出したと記しています。

 
 すると、女は言った。「だれを呼び出しましょうか。」サウルは言った。「サムエルを呼び出してもらいたい。」
 この女がサムエルを見たとき、大声で叫んだ。そして、この女はサウルに次のように言った。「あなたはなぜ、私を欺いたのですか。あなたはサウルではありませんか。」
 王は彼女に言った。
「恐れることはない。何が見えるのか。」 この女は言った。「こうごうしい方が地から上って来られるのが見えます。」


 Tサムエル記28章7節から25節までの、霊媒師とサウル、サムエルとの交信の場面は、非常になまなましく描写されています。
 ここで、聖書は、この霊媒師の女がインチキだと言っているのではありません。霊媒師は、たんにそれらしい言動をして客を欺いているのではないのです。彼女は、じっさいに、「霊界」と交信して、サウル王が望む相手を呼び出したのです。
 しかし、それゆえ、聖書は霊媒師や占い師に関わるのを禁じているのです。それは、これら霊媒師に働くのは、神の霊ではないからです。

 神様はもちろん、霊で人に語られるのです。
 聖書には、神からの言葉を受けて、人や社会への警告、さまざまな未来を語る「預言者」がたくさん出てきます。このような特別の使命を与えられるのは、神がお選びになり、特別に召された人たちです。
 いっぽうで、本物の預言者に敵対する偽預言者もいたのです。偽預言者は、聞く人の耳に快い予言をするので、このような偽預言者のほうが人気があったりもしました。
 本物の預言者は神様のご指示のとおり、ときには厳しい真実を言うので、かえって迫害されたり嘲笑されたりすることも多かったのです。
 


 天地を創造されたまことの神様への礼拝は、人を生き返らせますが、悪い霊は人を不安に陥れます。
 占いに頼る人は、おうおうにしてリピーターになってしまいます。それは結局、本物の解決にはつながらないからです。


 年の暮れから正月にかけて、「運勢」「占い」の字があちこちで目立つようになります。書店では、一番目立つ場所に、運勢や占いの本が並べられ、テレビでもネットでも、占いのコーナーがいつも以上に賑やかになります。
 リピーターが多いからでしょうか。



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2011年01月05日

Coffee Break135 「殺してはならない」について(マタイの福音書5章)





 十戒の六番目の戒め「殺してはならない」と言われて、たいていの人が思うのは、「そうだ。そのとおりだ」でしょう。良心的なふつうの市民だと自分のことを思っている人は、自分が一生の間に、殺人者になるなんて夢にも思っていません。せいぜい、「殺されないようにしよう」です。
 自分が人を殺すなんて凶悪な思いを抱くなんて、信じられないのです。

 けれども、イエス様は言われます。
 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺すものはさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てるものは、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって、『能無し』と言うようなものは、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うようなものは燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイの福音書5章21節22節)
 

 これは、じっさいに相手を罵倒するのはもちろん、心の中で腹を立てるだけでも殺人と同じだと言われているのです。このようなののしりがきっかけになって喧嘩になり、人が殺しあう原因を作ることも「殺してはならない」に触れると、言われるのです。

☆☆☆☆

 私はかつて、ミステリーファンでした。自分でも書いてみました。ですから、ミステリーについては、必要な要素、組み立て方、次のページをめくらないではいられない小説はどのようなものであるかなど、興味をもって調べました。おもしろい小説は、ミステリーに限りませんし、また、おもしろい本は、小説だとは限りません。読み出したらやめられない本というものがあるのです。
 同時に、ほんとうに「おもしろい」ものは、もう一度読みたくなるものです。筋書きも、そこにある言葉遣いもわかっているのに、再読に耐える本です。その意味で、聖書は興味の尽きない書物です。もともとが古文書ですし、中東にいた一民族に与えられた文書ですから、わかりづらいところもあって、はじめのうちは、次々と・・・とは、行きませんが。


☆☆☆☆

 エンタテイメントとして見れば、すぐれたミステリーはたくさんあります。しかし、ミステリーはちょっと後味が悪いのです。なぜかといえば、人の心の、一番陰の部分にコミットしているからです。
 コナン・ドイルやアガサ・クリスティなどのミステリーは、軽くて俗っぽい上品な味付けで、語られていきます。けれども、このような古典のミステリーであっても、目的は悪を行なう者(殺人者)とそれを追及する者とのゲームです。
 よく言われるように、お話しというものは(新聞記事でも)、5つのW(Who? When? Where? What? Why?)と、ひとつのH( How?)です。
 この六つはぜんぶ同じ重さをもつのではなく、話によってポイントの置き方が違います。古典ミステリーといわれるものは、最初の四つのWとHだけでした。密室殺人、探偵物などは、これに入ります。探偵役がいて、その殺人事件をだれが行なったか、方法はどのようなものだったかが、問題になるのです。

 しかし、犯人探しに主眼が置かれるようになると、動機とアリバイに焦点が当てられます。アガサクリスティのオリエント急行殺人事件のように、同じ列車に乗り合わせた乗客全員でアリバイを保証しあうのは、最高の目くらましです。同時に、殺人を犯すかぎりは、動機が必要です。それがないと、一種の快楽殺人、衝動殺人になってしまいます。
 
 やがて、この動機の部分を大きく広げて、サスペンスにするジャンルが生まれました。サイコロジカル・サスペンス・心理サスペンスです。
 心は人間の内側にあって、外からは見えません。その当人にも、見えているとは言いきれません。かりに見えていても、なかなかコントロールできません。ここにサスペンスがあります。葛藤があります。一人のひとの心の葛藤が、もう一人のひとの心と出会うとき、確執や疑心暗鬼が生まれます。
 非常にうまく行っているよい関係でも、緊張が生まれます。

 十戒の6番目の戒めで、神様は、「殺してはならない」と言われました。
 そして、イエス様は、有名な山上の説教で、冒頭のように仰せになったのです。

 兄弟に向かって腹を立てるものは、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって、『能無し』と言うようなものは、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うようなものは燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイの福音書5章22章)

 イエス様は、行為としての殺人だけではなく、人を「ののしりたくなるような」心をも、治めなさいと言われるのです。
 
 この提案だけなら、道徳の本や心理学の本にも書いてあるでしょう。だれでも、心を治めなければいけないことは「知って」います。結局は、自分で自分を治めることが一番難しいのはわかっています。

 イエス様は、さらに踏み込んで言われるのです。

 「目には目で、歯には歯で」と言われたのを、あなたがたは聞いています。(5章38節)
 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪いものに手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つようなものには、左の頬も向けなさい。(39節)
 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。(40節)
 

 この言葉は、私達にとって鏡のようなものです。衣服や皮膚をとおり抜けて心の中を写してしまう鏡です。レントゲンにも写らない大きな病巣を見せるのです。
 
 まだ、私がクリスチャンでなかったころ、私はヨーロッパやアメリカからきた心理サスペンスは、何でこんなに怖いのだろうと思いました。
 いま、その理由が、少しわかるのです。

 弟のアベルに嫉妬して心に怒りを燃やすカインに、神様は、話しかけておられます。
 
 なぜあなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。(創世記4章6節)
 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(4章7節)


 しかし、カインは「治めること」が出来ませんでした。そして、弟を野に誘い、襲いかかって、殺してしまいます。

                       つづく



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2011年01月06日

Coffee Break136 「殺してはならない」について2(マタイの福音書5章)




「目には目で、歯には歯で」と言われたのを、あなたがたは聞いています。(5章38節)
 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪いものに手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つようなものには、左の頬も向けなさい。(39節)
 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。(40節)
 

 このイエス様の言葉が、なぜ私達のみにくい心を写す鏡なのでしょう。こんな厳しい基準を当てはめられたら、だれであれ、みにくくなってしまうではないかと反論がきそうです。そうなのです。トマトを選別するのに、網戸のような目を通らなければならないとしたら、どんな小さなミニトマトだって無理です。
 さらに、このあと、イエス様は仰せになるのです。

「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。(マタイの福音書5章43節)
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。」(44節)


 ☆☆☆☆

 イエス様はどうして、これほど厳格な基準をお示しになったのでしょう。これが、できなければ、クリスチャンは失格でしょうか。ペテロやアンドレ、ヤコブやヨハネなど、イエス様の弟子たちは、みんなこの基準が合格だったので、お弟子にしていただいたのでしょうか。

 イエス様が、ある日、ガリラヤ湖のほとりを歩いていかれると、湖で漁をしていたペテロとアンドレをごらんになりました。イエス様は、「ついてきなさい」とおっしゃったのです。ペテロとアンドレは、すぐに網を捨てて従ったのです。
 しばらく行くと、ヤコブとヨハネが、父親と船の中で網を繕っていたので、声をお掛けになったのです。二人は船と父を置いて、イエス様に従いました。(マタイの福音書4章18節〜22節)
 入門試験のようなものがあったとは、思われません。もちろん、イエス様は神様ですから、彼らの心の中を見られたでしょう。かれらが、敵のために祈れるほどの高い倫理基準に達していないのは、よくわかっておいででした。

 当時のイスラエルでは、律法を守りたくても守れない人たちがたくさんいました。羊飼いのような仕事では、安息日も守れませんでした。卑しい仕事についている人たち(収税人や遊女、何度も結婚・離婚をした女など)は罪びとだと思われていました。ツアラアト、婦人病などの病人も差別されていました。障害者は蔑まれていました。サマリヤ人などの異邦人も、見下されていました。
 差別したり見下したり蔑んだりしていたのは、律法学者・ファリサイ人などの、宗教的エリートでした。彼らはイエスが、このような弱い人たち、罪びとと食事を共にしたりするのを非難しました。

☆☆☆☆

 イエス様がこれほど厳しい基準をお示しになったのは、当時、自分たちは完全に律法を行なっている「正しい人間だ」と自惚れていた宗教的エリートたちに、本当の「神の基準」を示されたのだと言われています。

 じっさい、このように神の基準の網の目を細かくされて、エリートたちは大いに自尊心が傷ついたのでしょう。福音書の物語では、彼らがだんだんイエス様にに敵対していく様子が、よくわかります。
 
 彼らは決して自分たちの醜さには、思い至りませんでした。そのため、やがてイエス様を捕らえ、訴え、十字架に架ける主導者となるのです。

             つづく




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2011年01月07日

Coffee Break137 罪(出エジプト記21章、マタイ5章)

 


 人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。(出エジプト記21章12節)
  ただし、彼に殺意がなく、神が御手(みて)によって事を起こされた場合、わたしはあなたに彼の逃れる場所を指定しよう。(13節)
 しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。(14節)



 十戒の第6戒「殺してはならない」の細則です。このような細則は、つぎのレビ記にもさらに、申命記にももう一度記されていますが、これをみると、神様がほんものの殺人と、過失致死を区別しています。
 たとえば、申命記には、「木を切るために斧を手にして振り上げたところ、その頭が柄から抜け、それが隣人に当たってその人が死んだ場合、その者はこれらの町の一つにのがれて生きることができる。(19章5節)」とあります。これは、先の13節に対応する「逃れの町」のことです。過失で人を死なせてしまった人の、いわば駆け込み寺です。
当時は、誰かを死なせればその一族によって、すぐにあだ討ちされる恐れがあったので、神様はこのような規程を作ってくださったのです。

 カインに、「怒りを治めなさい。そうでないと、罪は戸口でおまえを待ち伏せしている」と言われた神は、同時に、このような裁量を示される愛の神様なのです。


 それから1500年後、イエス様はおっしゃいました。

 腹を立ててはいけません。怒りやののしりを治めなさい。相手が、じっさいに殴ってきたら、反対の頬を出しなさい。服を取られたら、さらに与えなさい。さらに、その加害者を愛し、迫害するもののために祈りなさい。(マタイの福音書5章)
「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。」(5章45節)
 


 ☆☆☆☆


 Coffee BreakSで、私は、カトリーヌ・アルレーの「わらの女」(1956年発表のミステリー小説)に触れました。
 敗戦国ドイツ生まれの主人公ヒルデガルデという女性は、第二次大戦における連合軍のハンブルグへの激しい空襲のため、親兄弟、友人、財産のすべてを失い、翻訳をしながらその日暮らしをしていました。たぶん、ひどい虚無の中にいたのでしょう。彼女は、自分の失ったものを穴埋めするのは、富しかないと思い込むようになります。単に豊かな生活ではなく、途方もない富を持つ男と結婚する夢をもつのです。結婚相手は富豪。金持であれば、どんな年寄りでも、どのような見かけでも、性格でももう問題ではないと思い込んでいました。
 これは、一見大きな野心、場合によっては夢に見えます。けれども、その心を探れば、彼女は自分がもっていたはずのすべてを奪った、「運命」を呪っていたに違いありません。
 憎しみと怒りが、荒唐無稽な夢となって、彼女の心で成長していったのです。富豪と出会い、億万長者夫人となることさえできれば、彼女はいくらか社会に復讐することができたのです。

 こういう屈折した野心を抱く人は、いくらでもいるかもしれません。ですが、ヒルデガルデの場合は、「妄想」に過ぎませんでした。なぜなら、彼女は客観的には、(当時の基準では)婚期を逸した貧しい孤独な女に過ぎませんでした。富豪と出会う手ずるも、それにふさわしい自分の財産も身分も、特別な美貌もありません。

 彼女が当てにしていたのは、新聞の「求婚広告」でした。今で言えば「婚活」でしょうか。欧米の新聞には、求婚広告の欄があったようです。
 ヒルデガルデは、毎日、新聞の求婚広告欄を丹念に読んでいました。彼女にふさわしい条件の広告は、一顧だにしませんでした。チマチマとまじめに生きている「よい男性」など、問題外だったのです。
 そんなある日、とうとう目指す広告に出会います。「当方莫大な資産あり、良縁求む・・・」
 それは大きなワナでした。ヒルデガルデ自身、その広告の不自然さに気がついていたのです。何かウラがある・・・。

 長い小説なので、筋書きをぜんぶ述べることはできません。その発端と同じように、話はどこか現実離れした雰囲気の中で、展開して行きます。
 すべてを奪った社会や時代に対する怒りの中で、悪魔が彼女を占領し、ささやき続けたのです。「これこそが、おまえの取るべき道だ」──そうして、やがて、破滅してしまうのです。


☆☆☆☆


 読み終わって見ると、この小説には、あまりリアリティがないのです。と言うのも、主人公の一途さが、極端だからです。悪魔の部屋に通じるとしか思えないトンネルを、まっすぐ進むのです。そして、また、作者が、そのような悪魔に魅入られた主人公に対して、じつに、容赦がないのです。
 たまたま、ここでは、一作しか例に挙げられないのですが、欧米の心理サスペンスには、このように容赦のない物が多いのです。日本の作家なら、もう少し主人公にシンパシーを見せるか、主人公のよい性質の部分が、最後には、彼女(彼)を救うかするのでは、と考えたりするのです。


 イエス様はもちろん、厳しい倫理基準を示されたのですが、それは「救い」と表裏になっているものです。自分はとうてい神のお示しになる基準に届かない者だと自覚して、悔い改めて赦しを乞えば神様は救ってくださるのです。

 1920年代生まれのアルレーは、そのようなことは百も承知だったと思います。その上で、神の御心に反し、「入り口」で待ち伏せしている罪(悪魔)に従う人間を、徹底的に突き放して書いたのです。
 天地を創造された神様・その神様の大きな「犠牲」が、「悪女書き」と言われたアルレーの念頭から、離れなかったのではないでしょうか。


 もちろん、異論のある方もいらっしゃるでしょう。
 これは、初めて「わらの女」を読んだ時から、三十年、胸に持ち越していた私の個人的な結論です。



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2011年01月08日

Coffee Break138 戒めの細則(出エジプト記21〜23章)




 民はみな、雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した。民は見て、たじろぎ、遠く離れて立った。(出エジプト記20章18節)

 神はモーセに十戒を授けられました。その時、民は恐れて、見ることも聞くこともできませんでした。モーセひとりが神の言葉を聞き、書き記したのです。それは、契約の書となりました。

☆☆☆☆


 21章から23章までは、第四の戒めから第十の戒めまでの細則が具体的に書かれています。これらは、この時代の民・荒野のイスラエル人に与えられたものですから、今の私たちから見ると、当てはめることができない規則もあります。

 たとえば、奴隷と言うことばが出てきます。実際の階級の差は、いまの社会にもあるのですが、このころは、貧しさや、戦争で負けたために奴隷と呼ばれる階級に堕ちることがあったのです。ただ、この奴隷が、例えば、ローマ帝国が抱えていた奴隷、アメリカの黒人奴隷、日本の飛鳥奈良時代にあった「奴婢」などと、同じものとして、ひとからげに考えないことです。

 また、牛(や家畜)について、いくつもの掟が定められています。牛は、いまの、車や機械、耕運機、クレーン車のように使役されていたのですから、じつに身近なものだったのでしょう。大切な財産であっただけでなく、人を怪我させることがあり、また、盗まれたりする対象だったのも、車と共通するのです。違うのは、車は、壊れたらくず鉄ですが、牛は食べることができることでしょう。
 21章28節で、牛が男または女を突いて殺した場合、その牛は必ず石で打ち殺さなければならない。その肉を食べてはならない。しかし、牛の持ち主は無罪である。と書かれているのは興味深いところです。牛についての細則は、この後も続きますのでぜひ、聖書を読んでください。

 同時に、いまも極刑の対象として存在するものに、誘拐があります。
 人をさらった者は、その人を売っていても、自分の手もとに置いていても、必ず殺されなければならない。(16節)

 盗みの刑は、いくらか軽い扱いです。
──もし、盗人が、抜け穴を掘って押し入るところを見つけられ、打たれて死んだなら、血の罪は打ったものにはない。(22章2節)
 もし、日が上っていれば、血の罪は打った者にある──盗みをした者は必ず償いをしなければならない。もし彼が何も持っていないなら、盗んだもののために、彼自身が売られなければならない。(3節)


 寄留する外国人、やもめ(未亡人)、孤児に対しては、彼らを悩ませてはならない。彼らが苦しんで叫ぶなら、わたしの怒りは燃え上がり、わたしは剣をもってあなたがたを殺す。あなたがたの妻はやもめとなり、あなたがたの子どもはみなしごになる。(22章24節)
 また、23章6節、9節、12節などにも、差別されがちな弱い者への言及があり、裁判における偽証や、わいろを戒めています。
 安息日を守ること、ささげものをすること、他の神への礼拝に対する戒めは、もちろん、何度も出てきます。(20章23節〜26節、22章20節28節〜30節、23章16節〜19節、24節25節32節

 24章で、主は一度、モーセを民の前に帰らせます。
 モーセは主のことばをことごとく書き記し、山のふもとに祭壇を築き、イスラエル十二部族のしるしとして、十二の石の柱を立て、その前で、全焼のいけにえと、和解のいけにえをささげるのです。




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2011年01月09日

Coffee Break139 契約(出エジプト記24章)



 
 それで、モーセは主のことばを、ことごとく書き記した。そうしてモーセは、翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、また、イスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。(出エジプト記24章4節)
 それから、彼はイスラエル人の若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のいけにえをささげ、また、和解のいけにえとして雄牛を主にささげた。(5節)
 モーセはその血の半分を取って、鉢に入れ、残りの半分を祭壇に注ぎかけた。(6節)
 そして、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。すると、彼らは言った。「主の仰せられることはみな行い、聞き従います。」(7節)
 そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」(8節)



 エジプトから、イスラエルの民を導き出された主(神)が、十戒とその細則をお与えになったあと、それらを文書にし、いよいよ民と契約を結ばれる場面です。
 すでに、前夜、モーセは主のことばを民に告げていました。(24章3節) もちろん民は、主の仰せられたことは、みな行ないます。と答えるのです。
 朝になり、それらを書き記したモーセはもう一度それを民に読んで聞かせます。民はまた、「主の仰せられたことは、みな行ないます。」と言いました。

 しかし、これは、口約束ではないのです。神と民との間の、「たしかな」契約なのです。
 モーセは若者たちに命じて、全焼のいけにえと、和解のいけにえを準備させたのです。
 
 全焼のいけにえ(レビ記1章)とは、犠牲の動物を完全に燃やして煙りにしてしまうものです。これは、罪ある人間が神の御前に出るのに、まず自分の罪を許していただくための代価です。契約と言っても、相手は神さまなのです。
 和解のいけにえ(レビ記3章)とは、許していただいたことを確認する食事のためのいけにえです。神の前で、祭司と民が食事をするのです。
 しかし、動物を殺しただけでは、何の確証にもなりません。動物の血を器に取り、半分を祭壇にふりかけ、半分を民にふりかけるとき、始めて「証印」となるのです。契約の血であることが大切なのです。

 神はこれまで、ノアとアブラハムにも、契約を与えておられます。それは、ノアが箱舟から出てきたときに、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。(創世記8章20節)からでした。
 アブラハムと契約を結ばれた時(創世記15章)は、神が命じられた動物をアブラハムはささげました。神が命じられたとおり、鳥以外の動物を真っ二つに切り裂いて置きました。そこに、神ご自身が煙の立つかまどと、燃えるたいまつを下されて、それら犠牲の間を通り過ぎたのでした。これは、全焼のいけにえを象徴しているのでしょう。


 ☆☆☆☆

 アブラハムへの契約は、「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。
 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」
と、アブラハムの子孫が、いつか永住する土地への約束です。

 モーセ率いるイスラエル人は、すでに、約束の地カナンに向かっているところです。ですから、約束はさらに具体的になっています。
 わたしは、また、くまばちをあなたの先に遣わそう。これが、ヒビ人、カナン人、ヘテ人を、あなたの前から追い払おう。(23章28節)

 そして、同時に、神は何度も、ほかの神々に仕えてはならないと戒めておられます。
 
 わたしは、あなたをエジプトの奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。と契約の最初に宣言された神は、あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎むものには、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、私を愛し、わたしの命令を守るものには、恵みを千代にまで施すからである。(20章5節6節)と、仰せになります。

 このシナイ契約が、神と人との結婚にたとえられるのも、わかると言うものです。



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2011年01月10日

Coffee Break140 契約の血(出エジプト記24章、マタイの福音書26章28節)





 それから、彼はイスラエル人の若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のいけにえをささげ、また、和解のいけにえとして雄牛を主にささげた。(出エジプト記24章5節)
 モーセはその血の半分を取って、鉢に入れ、残りの半分を祭壇に注ぎかけた。(出エジプト記24章6節)

 そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」(出エジプト記24章8章)


 シナイ契約は、ノア契約やアブラハム契約とは比べ物にならない大がかりなものです。ノア契約やアブラハム契約は、それぞれ、ノアやアブラハムと、神との対話のような形で結ばれています。けれども、シナイ契約は神と全イスラエルの民との間に結ばれたのです。また、聖書の出エジプト記に出てくるシナイ山が、どの山なのか、今では正確に特定することができないそうですが、契約をした場所の名前が出てくるのも、ノアやアブラハムのときとは違います。

 時間的な経過も長いものです。イスラエルの民がシナイの荒野に着いてから三日目に、神は十戒とそれにともなう細則をくださったのです。そのあとまた、神はモーセを山に招きます。(24章15節)それから、四十日四十夜、モーセは山にこもるのです。

☆☆☆☆

 シナイ契約が、ノア契約、アブラハム契約と異なるもうひとつの大きな違いは、シナイ契約では犠牲になった動物の血が契約のシンボルとなっていることです。
 聖書では、血はいのちを表します。はじめて神様がノア(人類)に、肉食を許された時、神様は、「肉はそのいのちである血のあるままで食べてはならない。」(創世記9章4節)と仰せになっています。じつはこのすぐ後の、5節「わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血を要求する」とも仰せなのです。
 私たちは自分の罪のためには、本来自分自身をささげなければいけないのです。けれども、神様は、祭壇にささげるものとして、牛か羊でよいと言って下さったのです。そして、わたしたちの命の代わりに彼らのいのちが犠牲になった印に、血が祭壇と人の双方に注ぎかけられたのです。

 しかし、どんなに傷のない犠牲の動物を捧げても、動物の方が私たちより価値があるはずがないのです。自分より劣った犠牲しかささげることができない人間は、いつまでたっても、神様の前に贖いを済ませることはできませんでした。

 新約の時代になっても、イエス様がおいでになっても、神殿では毎日のように犠牲の動物がほふられ、血が流されていました。

 まさに、そのような血なまぐさい光景に、しかし、神様みずからピリオドを打たれたのです。
 以下の聖書箇所は、イエス様と十二弟子たちの過ぎ越しの食事の場面です。
 この「契約の血」が、どれほど大きなものだったか、まだ、このとき、この場にいた弟子たちでさえ、わからなかったのですが。

 彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体です。」(マタイの福音書26章26節)
 また、杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。(27節)
 これはわたしの契約の血です。罪を許すために多くの人のために流されるのです。(28節)


 人間の不完全さを憐れにお思いになった神様が、とうとうご自分の血を流してわたしたちを買い取ってくださったのです。




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