2011年01月15日

Coffee Break145 神の書かれた書物(出エジプト記32章33章) 





「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」(出エジプト記32章32節)

 民が金の子牛を拝んで、その前で乱痴気騒ぎを演じて、一番お怒りになったのはもちろん、主なる神さまです。神さまの心を一番知っていたのは、モーセでした。神がお書きになった書物とは、天地の創造から、永遠の未来までのすべてを采配され、総べられている神が、それらを洩らさず記録されている、その記録ノートです。
 そこに、私たちはひとりひとり、生まれる前から、母の胎内に形作られる前から記録されているわけです。そして、もちろん、肉体が死んだあとのことも、記録されるわけです。
 ですから、モーセが「私の名を消し去ってください」と神に申し上げたのは、たんに命を差し出しますというような、「目先の」措置ではないのです。
 今のように、肉体の命だけをいのちと見る時代の人であっても、自分の存在がそもそもなかったものとされ、永遠に人々の記憶からも消し去られると聞くと、どんな気持ちがするでしょう。

 モーセが民の罪の身代わりに、自分の存在を消してくださいと神に申し上げると、神もその心を斟酌してくださいました。

 すると主はモーセに仰せられた。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。(33節)
 しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いがあなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく。」(34節)


 俗な言い方をすれば、モーセの捨て身のとりなしに、神様はいくらか機嫌を直してくださったのです。今はとりあえず、カナンに行けと言われるのです。ただし、これまでのように、ご自分が民を導いて下さるのではなく、神の使い(みつかい)に導かせよう。


 33章に入ると、神はもう一度、命令を繰り返しています。
 乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。わたしは、あなたがたのうちにあっては上らないからである。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。(33章3節)

 乳と蜜の流れる地とは、当時の中東にあって、食べ物の産物の豊かさを表現したことばでしょう。日本なら、同じことを瑞穂(みずほ)の国といいました。良いお米があり余るほど穫れる土地です。
 アブラハムの時代から、もともとの自分たちの領土をもたず、荒地や砂漠や山地に遊牧し、時に麦やぶどうの栽培でしのいできたイスラエル人たちにとって、流れるほどの乳(牛乳とは限りません)──豊かな牧草地、流れるほどの蜂蜜──花が咲き乱れる野や山──は憧れだったのでしょう。エジプトから連れ出されたイスラエルの民の行き先は、そのような夢の世界だったのです。
 神はなぜ、ご自分の代わりにみつかいを行かせるか、その理由も述べています。

 あなたがたはうなじのこわい民である。
 「うなじがこわい」も、聖書に何度も出てきます。頑固で強情で、物覚えが悪い。聞きわけがない。頑迷とでも言いなおせるでしょうか。よほど、イスラエルの民にお怒りになったのでしょう。神はさらに仰せになります。

「イスラエル人に言え。あなたがたは、うなじのこわい民だ。一時でもあなたがたのうちにあって、上っていこうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、あなたがたの飾り物を身から取りはずしなさい。そうすれば、わたしはあなたがたをどうするかを考えよう。」(33章5節)

 叱り付けながらも、同時に、民に許しの機会をお与えになっています。この民との細やかなやりとりに、聖書の神様の、「熱い情」ともいうべきやさしさを感じませんか。
 もちろん、民はすべての飾り物を、取りはずしました。




posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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