2011年01月20日

Coffee Break150 御霊の輝き(Uコリント3章7節〜12節) 




 出エジプト記34章のモーセの姿の変容について、パウロは新約聖書コリント人への手紙2で、次のように書いています。

 もし、石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、(Uコリント3章7節)
 まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。(8節)


 石に刻まれた文字とは十戒を示しています。モーセが十戒をいただいてきたとき、その栄光で顔が輝いていたのです。しかし、パウロはそれは、やがて消えていったものと解釈しているのです。それに引き換え、イエス様の栄光は永遠に続くもので決して消え去ることはありません。
 主イエスとなって、地上に来てくださった神様を信じる私たちは、信仰によってイエス様に似たものに変えらていかれると約束されています。それをしてくださるのは、ここでパウロが語っている、御霊(聖霊)なのです。

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 クリスチャンの友人Kさんが話してくださったできごとです。

 彼女のご主人が、信仰をもって間もないころ、韓国の教会へ行かれたそうです。じっさいには牧師や長老など、指導的な立場の方の研修のようなものだったうえ、ご主人の体調もあまり良くない時で、Kさんは心配していたそうです。
 ところが、聖霊に満たされた大きな教会での礼拝や、祈祷院での徹夜祈祷会などを体験して、一週間後、帰宅されたご主人の顔が、輝いていたそうです。
 しばらくすると顔の輝きはなくなってしまったそうですが、「人が主に向かうと、覆いが取り除かれる。そして主の栄光を反映できると言うことは、真実だ。それを、忘れないでいたい」と思われたそうです。

 パウロは、二千年近く前の人です。けれども、彼が書いたこの手紙の意味は、もちろん今も生きています。
 私たちクリスチャンたちは、ただ、分厚い聖書を抱いて、陶然として賛美(歌)を歌い、厳かに礼拝するだけの、神秘主義者ではありません。
 聖霊が日々、私たちに働いてくださって励まされ、祈りつづける信仰のうちに、イエス様に少しでも似たものになりたいと思っているのが、クリスチャンです。もちろん、イエス様は神様ですから、その衣の裾に触れるのにも四苦八苦するのですが、自分にはできなくても、聖霊が成し遂げてくださるので、私たちには希望があります。
 自分の顔の輝きは自分で見ることができませんが、でも、教会では、ほかの方の顔に御霊の輝きを見ることができるのです。

 冒頭のパウロの言葉は、次のように続きます。
 
 もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。(Uコリント3章11節)
 このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。(12節)





posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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