2011年01月28日

Coffee Break158 血の意味(レビ記7章)



 脂肪は幕屋でのささげ物に限らず、イスラエルの民が食べてはいけないものでした。
 
 イスラエル人に告げて言え。
 あなたがたは、牛や羊、あるいは山羊の脂肪をいっさい食べてはならない。
 死んだ動物の脂肪や野獣に引き裂かれた動物の脂肪は、何に使ってもさしつかえない。しかし、決してそれを食べてはならない。(レビ記7章22節〜25節)
 

 25節には、これを食べるものは、その民から断ち切られるからであると書かれています。

 脂肪と同様、食べてはいけないものに、血がありました。

 あなたがたは脂肪も血もいっさい食べてはならない。あなたがたが、どんな場所に住んでも、代々守るべき永遠のおきてはこうである。(レビ記3章17節)

 また、あなたがたのどこの居住地においても、鳥でも動物でも、その血をいっさい食べてはならない。(7章26節)
どんな血でもこれを食べるものはだれでも、その者はその民から断ち切られる。(27節)


 どのような動物であっても、神様がいのちをお与えになったのです。そのいのちは、血にあると考えられたのでしょう。そうだとすれば、究極のところ神様のものである血(いのち)を、人が食べてはいけなかったのです。
 
 また、ささげ物の目的は、人間のいのちの代わりにささげ物のいのちを差し出すことでしたから、そのいのちを、人間自身が食べてしまってはささげ物の意味がなくなってしまいます。


 これは現代において、たとえば先端医学の処置や血液検査、輸血などの形で人が血を扱うのも、ダメということではありません。
 このブログの佐々木先生のリンク、「聖書を読むぞー」→「聖書の読み方」にあるとおり、聖書は、もともとだれに宛てて書かれたものかを、考慮して読まなければいけないと思います。レビ記は,出エジプト直後のイスラエルの民に与えられました。まだ、細胞やDNAのこと、輸血の技術も血液検査のことも知らない人たちです。また、現代の複雑な生命科学の話など、理解できない人たちでした。神様が血や脂肪を食用とすることを禁じられたのは、いのちとはなにか、いのちが究極のところ神様のものであるということを、当時の人々に教えるためだったのではないでしょうか。

 私たちがここから適用として学ぶのは、神様がいのちをお造りになったこと、そのいのちの本質を尊び、神様への畏敬の念と感謝を忘れないことだと思います。


☆☆☆☆


 レビ記が冒頭から、細かいささげ物規程を述べているのは、祭司が神様に近づくのに、ぜひともこの犠牲をたずさえていくことが必要だったからです。これなしには、神が定められた幕屋であっても、神様との対面はかなわないのです。
 
「聖書の神」「アブラハム・イサク・ヤコブの神」「わたしはある」と自己紹介された神は、どうして、神に近づきたいと願う人間に、「いのち」を要求されるのでしょう。本当なら、人のいのちを差し出さなければいけないところを、動物の命で代えさせてくださったのだと言っても、なんと残酷な神様だと思われる方もいるかもしれません。

 明日は、このようないけにえが必要になった理由について考えてみます。



posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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