2011年01月29日

Coffee Break159 いけにえと幕屋(創世記、出エジプト記、レビ記)




 神様に初めて、羊の初子をささげたのは、アダムとエバの息子アベルでした。この時はそれが、全焼のいけにえだったかどうか、定かではありません。神様が、なだめの香りを喜ばれたとも書かれていません。ただ、アベルの兄カインのささげ物・農産物の初穂と比べて、どうやら神様は羊の方に「目を止められた」とあるだけです。その微妙な差に、カインは傷つき、怒り、弟を殺してしまうのです。(創世記4章2節〜7節)

 さて、つぎに、ささげ物をささげたのは、箱舟から出てきたノアでした。この時は全焼のいけにえをささげて、神様はその香り(なだめの香り)を喜ばれたとあります。(創世記8章20節21節)
 バベルの塔の物語(創世記11章)のときは、神様は彼らの様子をごらんになるために、「降りてこられた」のです。人のほうから、神様に「降りて来て、ご覧下さい」と、言ったのではありません。(創世記11章)

 アブラハムを召し出される時も、神様は一方的にアブラハムに近づいてくださり、仰せになったのです。
「あなたは、あなたの父の生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12章1節)

 その後、主は何度もアブラハムに現れて、導いておられます。アブラハムは自分に現れてくださった主のために「祭壇をきずいた」のです。(12章7節)
 イサクにもヤコブにも、主はご自分の方から現れてくださり、そのたびに、人間の側は祭壇をその場所にきずいています。
 
 主が、ご自分の方から全焼のいけにえを指示されたのは、アブラハムと契約を結ぶときです。(創世記15章)
「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなをもって来なさい」(9節)
「さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたもの(いけにえ)の間を通り過ぎた。」(17節)
 この時、いけにえのために、火を用意されたのは神ご自身でした。


 しかし、このときの儀式すべては、アブラハムが深い眠りの中で起こったことでした。

 
 モーセがミディアンの羊飼いだったときも、羊を追ってシナイ(ホレブ)の山にやってきたモーセに、神様のほうから現れてくださいました。(出エジプト記3章2節〜)


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 シナイ山で十戒を授かった後、一度下山したモーセは、契約の書を取り、民に読んで聞かせるのですが、この時初めて、全焼のいけにえをささげ、また、和解のいけにえとして雄牛を主にささげました。いけにえの血の半分を取って、祭壇に注ぎかけ、残りを民に注ぎかけて、「主が民と結ばれる契約」の儀式をしています。
 ふたたび、山に入ったモーセに対し、主は、正式に幕屋の建設を命じられるのです。
 そして、幕屋が完成したあとに、レビ記に記されている厳格な祭祀規程が定められたのです。


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 十戒とそれにともなう契約があり、幕屋が完成したあと、神礼拝がこのように儀式化され、厳格になったのはどうしてでしょう。


 私が考える一番大きな理由は、出エジプトまでは、神様はひと個人に近づいて、話し掛けておられたのです。神様がお近づきになった人(ノア、アブラハムなど)は、神様のすべてを知らなくても、神様を恐れる敬虔な人でした。それに対し、ノアの時代の滅ぼされた人たち、バベルの塔を建てて、「全地」に散らされた人たちは、「群集」でした。

 神様が導き出されたイスラエル民六十万人のほとんどは、そのとき、自分たちを選びの民として契約してくださった神様のことをまだ、よく知りませんでした。神様が天地を創造されたのは、はるかむかしのことです。アブラハム・イサク・ヤコブの神に対する正確な記憶も、かなり失われていたでしょう。「わたしはある」神を、彼らが信じたのは、ひとえに、モーセをお立てになった神が奇蹟やしるしをつぎつぎと行い、彼らをエジプトから導き出してくださったからでしょう。彼らは、目の前でパロを屈服させ、海が割れ、マナを降らせ、水を湧き出させる不思議なみわざを目の当たりにしたのです。


「あなたがたは見たから信じるのですか。見ないで信じるものはさいわいです」と、イエス様は言われました。(ヨハネの福音書20章29節)
 新約の時代のイエス様の弟子でさえ、見ないと信じられない状態でした。
 エジプトから導き出したイスラエルの民に、ここで、きっちり、神を恐れる作法を教えなければ、また、ノアの時代の大部分の人間、バベルの塔を建てようとして、神の怒りに触れた人間のような、勝手気ままな「烏合の衆」になってしまいます。
 かりに神を祀っても、間違った神を祀り、簡単に「姦淫を犯す」可能性がありました。──じっさい、シナイ契約のすぐあとに、金の子牛を作って偶像礼拝をする節操のなさでした。(出エジプト記32節)


 神がアブラハムをお召しになった時の、ことばを思い出してください。

  主はアブラムに仰せられた。
 「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
  そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。
  あなたの名は祝福となる。
  あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
  あなたをのろう者をわたしはのろう。
  地上のすべての民族はあなたによって祝福される。」(創世記12章1節〜3節)



 イスラエルの民は、たんに一つの民族として栄えるよう選ばれたのではないのです。やがて、彼らから救い主が現れて、全人類が救われるその器として選ばれたのです。それゆえ、イスラエルの民には、この時代から後もずーっと、きびしい鍛錬と試練が与えられることになるのです。
 



posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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