2011年02月01日

Coffee Break162 神権政治の国(レビ記10章11章)



 
 アロンの子ナダブとアビフが神の怒りに触れて死んだ場面は、とても劇的です。神の預言者モーセは別として、アロンとその子、その子孫には、神権政治国家の祭司と言う名実とも最高の地位が与えられたのです。しかし、その第一歩は、神から与えられた祭祀儀礼を細部に至るまで、厳正に行なうことでした。わずかの規則違反も手違いも許されませんでした。神の聖という性質は、わずかの不正や堕落も憎まれるのです。

 焼死した二人の息子が、従兄弟たちの手で外に運び出されるのを見ている、アロンと残った息子エルアザルとイタマルに神様は仰せになるのです。

 あなたがたは神の毛を乱してはならない。また、着物を引き裂いてはならない。あなたがたが死なないため、また怒りが全会衆にくだらないためである。しかし、あなたがたの身内のもの、すなわちイスラエルの全家族が、主によって焼かれたことを泣き悲しまなければならない。(レビ記10章6節) 

 着物を引き裂くとは、ひどい悲しみを表現する時の、聖書の言い回しです。じっさいに着物を引き裂いたのでしょうか。今より、織りも縫製も甘かったでしょうから、引き裂く人もいたでしょう。着る者を引き裂く、体を打ち叩く、何かを打ち叩く、号泣する──悲しみを表現するアクションは、見るものの心を打ち、悲しみを増幅させます。
 あまりの悲しみの表現は、死んだものへの哀悼を超えて、いのちを奪ったものへの抗議と見えるでしょう。この場合なら、歎き悲しむことが神への抗議になるおそれがありました。神が下された罰に抗議したりしたら、新たに神の怒りがアロンや生き残ったもの、イスラエルの全会衆の上に下るかもしれません。モーセはそれを指摘したのです。

「また、あなたがたは会見の天幕の入口から外へ出てはならない。あなたがたが死なないためである。あなたがたの上には主のそそぎの油があるからだ。」(7節)

 モーセは、祭司は神から油をそそがれている特別な立場なのだから、それを忘れてはいけないと注意を喚起しているのです。悲しむことそのものを禁じているのではありません。

 さらに、主は仰せになります。
「会見の天幕に入って行くときには、あなたがたが死なないように、あなたも、あなたとともにいるあなたの子らも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。(9節)
 それはまた、あなたがたが聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため、(10節)
 また、主がモーセを通してイスラエル人に告げられたすべてのおきてを、あなたがたが彼らに教えるためである。」(11節)


 彼らとはイスラエルの全会衆です。すべてのおきてとは、十戒とその細則です。

 その中には、聖なるものと俗なるもの、汚れたものときよいものの区別も含まれているのです。

 11章には、食物禁忌の詳細、12章には出産にともなう汚れ、13章14章はツァラアトについて、記されていきます。15章は性器からの漏出。今なら、医学や科学の分野と思われることをも、祭司が取り扱っていたことがわかります。

 現代から見ると、ナンセンスに思えることもありますが、これが三千五百年前の非科学的な習慣や迷信だと笑うことはできないのです。このような禁忌や汚れを教えることがなにを意味していたのか、考えてみたいと思います。



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2011年02月02日

Coffee Break163 食物禁忌(レビ記11章)




 私たちはいま、食べてはいけないと禁止されている食物はないと思っています。(くじらを食べるのを非難されていますが、禁止されているわけではありません)。世界中から届くものを、自由に選んで食べている時代です。ダイエットと健康を守るために個人的に、避けている食べ物、選んでいる食べ物があるだけの、グルメ追求のこの時代に生まれて、ほんとうによかった!と思っている方も多いでしょう。

 旧約聖書レビ記10章までは、祭司の祭儀に関わる厳格な話でした。いよいよ、食物の話!と唾を飲むところなのですが、やはり、いささかの緊張を強いる内容です。

 それから、主はモーセとアロンに告げて仰せられた。(レビ記11章1節)
 イスラエル人に告げて言え。
 地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物は次のとおりである。(2節)
 動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、また、反芻するものはすべて、食べてもよい。(3節)


 こう言われて、ひづめが割れている動物が何種類か即座に思い浮かぶ人は、今の日本人には少ないのではないでしょうか。もちろん、私も浮かびません。羊、牛、山羊は、ささげ物でもあったので、人も食べることができました。「完全にひづめが割れ、反芻する」動物だったのす。

 ひづめが割れていても反芻しないとか、反芻はするけれどひづめが割れていないとして、挙げられている動物として、らくだ、岩だぬき、野うさぎ、豚の名前があります。

 また、水棲のものとして、「海でも川でも、水の中にいるもので、ひれとうろこを持つものはすべて、食べても良い。しかし、海でも川でも、すべて水に群生するもの、またすべて水の中にいる生き物のうち、ひれやうろこのないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。」
 こちらのカテゴリは、いくつか想像がつきますね。
 日本人が好きな貝類、たこ、イカ、エビの類、うにやくらげが食べてはいけないようです。うなぎはどうだったでしょう。もっとも、イスラエルが占領したカナンは、真ん中をヨルダン川が流れていましたが、西の地中海沿岸は、ほとんど先住民のペリシテ人のものでした。また、この律法を受けた荒野ではもちろん、海産物を食べるどころではなかったでしょう。

 聖書は、その時代を生きた人々に向かって語られていることを思えば、このような禁忌も納得できるのです。

 爬虫類、両生類(かえるなど)は、水に棲んでいても、ひれがないのですから食べることはできません。

 鳥のうちで、忌むべきものの、名前が挙げられています。
 はげわし、はげたか、黒はげたか、(13節)、
 からすの類全部(15節)
 だちょう、よたか、かもめ、たかの類、(16節)
 ふくろう、う、みみずく、(17節)
 白ふくろう、ペリカン、野がん、(18節)
 こうのとり、さぎの類、やつがしら、こうもりなど、(19節)


 すべて肉食をする鳥、猛禽類です。こうもりは、今ではだれも鳥だとは思いませんが、当時の人は鳥だと思っていたのですね。

 

 禁忌のひとつに、「地上に群生するもの」として、昆虫類も取り上げられています。

 翅があって群生するもので、四本の肢で歩くものはすべて、あなたたちには忌まわしいものである。ただし、すべての翅があって群生するもので、四本の肢で歩くもののうち、それら肢の上部に、地面を跳躍するための折れ曲がった肢のあるものは、あなたたちは食べてもよい。(20節21節)

 昆虫は六本の足を持っているので、四本というのはおかしいと思われることでしょう。原文は「四つの上で歩くもの」となっているそうです。(岩波委員会訳聖書註解)
 四方に飛びかうものとする説もあるとか。古い文書なので、読解にも困難がともなうということでしょうか。
 「地面を跳躍するための折れ曲がった肢」はおわかりでしょう。
 その中から、トノサマバッタの類、ヒシバッタの類、こおろぎの類、翅長蝗の類は食べてもよい昆虫に挙がっています。

 蝗(いなご)は日本でも食べていました。いまは珍味として扱われていますが、わずか半世紀前まで、魚の少ない農家ではいなごを食べていたようです。私もいなごの佃煮を出されたことがありますが、最初は抵抗がありました。いかなごの釘煮(コウナゴのような小魚・神戸の特産)は食べられますが。

 食物規程の特徴は、食べてはいけないだけでなく、これらは忌むべき動物であって、触れてもいけないと戒められていることです。
 触って汚れた時の、処置も決められていました。


☆☆☆☆


 現代の食生活と比べると、食べるかどうかずいぶん多くの動物の種類が挙がっているのに気がつきます。とくに、動物の肉は、いまでは牛、豚、鶏で、ほぼ固定しています。サクラ肉(馬)、うさぎ、ひつじなどを食べることもありますし、犬を食べる国もあるそうです。いずれにしても、スーパーマーケットやレストランに売っていないものは、まず食べ物として口に入りません。

 今の先進国のように安定した食料の提供が保証されていなかった時代では、およそいろいろなものを食味し、いのちを落とした人もたくさんいたかもしれません。食物規程のこの細かさは、食べ物に一定の枠を嵌めて生存と社会秩序を守ろうとする神の意思が反映しているのではないでしょうか。


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2011年02月03日

Coffee Break164 食物禁忌とグルメ(レビ記11章)



 
 食べものが何よりも大切なのは、古代イスラエルだけでなく、中世、現代、発展途上国、先進国、僻地、都会を問わず同じです。
 ただ、レビ記は食べてよい食物と、食べることを禁止する食物とを列挙しているのではありません。食べてはいけない動物は、同時に、「忌むべきもの」「汚(けが)れたもの」として指定されています。食べてはいけない理由は毒キノコのように、食中毒の原因になることがはっきりしているからではないようです。

 それから、岩だぬき、これも反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。(レビ記11章5節)
 また、野うさぎ。これも反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。(6節)
 それに、豚。これは、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものであるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。(7節)


 「忌む」は強く嫌って避けることです。「汚れる」は、文字通り汚れることだけでなく、聖(きよ)いものでなくなることです。ですから、レビ記の食物規程でこれらの動物を食べてはいけない理由は、なにより神様の目からご覧になって「汚い」もの、「身を汚す」ものだからでしょう。
 その理由は、いろいろ憶測することはできますが、神様の深遠な配慮の真実は、とくに今の私たちには、なかなかわかりません。

 これらの規程を、聖書を読む私たちが、現代に適用するとしたら、「身を汚さないよう」に食べるのが、やはり本来の食生活ではないかと思います。
 食べ過ぎて病気になるとか、また別の食べ物でダイエットしなければならないとしたら、そもそも「身を汚す」食べ方をしていることにならないでしょうか。


 また、毒をもつわけでもないたくさんの種類の動物、ひょっとしたら案外おいしいかもしれない動物たちが、忌むべきものとして食用にするのを禁止されているこの食物規定には、環境保護や生態系保全など、現代にも通じる考え方が根底にあるように思います。

 豊かな国が強いドルや円で食料を買い占め、貧しい国が飢えているなどというのも、「忌むべき」ことではないでしょうか。世界中から食べ物が集まってくる豊かな国にいるものは、(自分もふくめて)幸せです。しかし、自然や生態系まで破壊するほど採りつくすのも、天地をお造りになった神様の忌み嫌われることではないかと、気がつくのです。


☆☆☆☆


 もっとも、律法の細則であるこれらの食物規程が、歴史的に見ていつでも厳格に守られていたのでしょうか。そうでないから、問題が起こったのでしょう。


 同じ旧約聖書の第二列王記に、ひどい飢饉のなかで、ある女が友だちの女にそそのかされて、自分の子どもを煮て食べた話が出ています。(U列王記6章24節〜30節)

 これは極端なエピソードですが、このようなことになってしまったのは、出エジプトから七百年ほど経った頃の(北)イスラエル王国が、まことの神様への信仰を失い、偶像礼拝に陥り、乱れに乱れていたことと無関係ではなかったのです。

 グルメ追求は私たちの幸せ感を満たしますが、その快適さを下さる方の心を、いつも見ていたいものです。



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2011年02月04日

Coffee Break165 女性についての禁忌(レビ記12章、15章)





 食べ物に対する細則につづいて、レビ記12章では、出産にともなう細則(おきて)が語られます。
 13章14章では、ツァラアトと呼ばれる皮膚や、物の表面の異常な現象についての対処法。15章は性器からの出血や漏出などが、汚れや忌みごととして語られています。

 人間にとって、最大の関心事が「食生活」「子孫を残すこと」「性生活」「病気」は、昔も今も変わらないようです。
 とくに、牧畜、農業などを家族や部族で団結して守り、生活していくしかない古代社会では、子孫を残すことは、民族や家族、また個人の生き残りを掛けた重大使命でした。
 神様が、ハランからアブラハムを召し出された時の約束が、「あなたの子孫にカナンを与えよう」だったことに注意してください。神様が、アブラハムの誠実な信仰心をご覧になって、彼を選ばれたのだとしても、その約束(創世記12章1節〜7節)はアブラハム一代で完成するものではなかったのです。

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 それから、主はモーセに告げて仰せられた。(12章1節)
「イスラエル人に告げて言え。
 女が身重になり、男の子を産んだときは、その女は七日の間汚れる。その女は月のさわりの不浄の期間のように、汚れる。(2節)


 現代の私たちから見ると、出産、月経などを「汚れる」と規程されるのはいささか抵抗があります。とくに、私は女ですから、神様が下さった肉体の摂理を汚れと言われるのは、腑に落ちません。

 神様は、アダムとエバにも、創世記で作られたたくさんの動物にも、ノアが箱舟から出てきたときの祝福でも、「生めよ。増えよ。地に満ちよ」と仰せになったのです。(創世記1章22節28節、9章1節)


 出産は神様のお喜びになるできごとのはずなのに、どうして汚れなのでしょう。それに対して、当時は、女性の出血その物が不浄とされたからと言うしかないようです。子どもの誕生はもちろん、祝うべきことだったでしょう。不妊の女と言われたアブラハムの妻サラが、息子イサクを生んだときの喜び。同じく不妊の妻リベカの懐妊を祈願するイサク。イサクの息子ヤコブの二人の妻、レアとラケルが、熾烈な愛の競争の中で執念をもって子どもをつくる様子。エルカナの妻ハンナがサムエルを産んだ時の喜び。
 どの箇所にも出産が汚れであったと、否定的には記述されていません。

 出産そのものはめでたい出来事だけれど、出血は汚れ(けがれ)だと思われたようです。

 ──八日目には、その子の包皮の肉に割礼しなければならない──(3節)
 その女はさらに三十三日間、血のきよめのために、こもらなければならない。そのきよめの期間が満ちるまでは、聖なるものにいっさい触れてはならない。また、聖所に入ってもならない。(4節)
 もし、女の子を産めば、月のさわりの時と同じく、二週間汚れる。その女はさらに六十六日間、血の汚れのために、こもらなければならない。(5節)


 女の子を産んだ時の方が、きよめの期間が長いのは、女性への偏見でしょうか。それとも、ほかに理由があったのでしょうか。男の子の場合は、八日目には、割礼などの行事があり、来客も多くて長く引きこもってはいられなかったのかしらと、私は推測しています。

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 女の月のさわり(月経)のときに使った寝床はすべて汚(けが)れる。また、その女のすわった物もみな汚れる。(レビ記15章20節)

 これなども、健康な女ならだれでもおこる生理現象なので、今の女性から見ると、ちょっと納得できないと思えるでしょう。

 ただ、女性の月経が汚れだと思われていたのは、じつは、日本でもそう昔のことではありません。 私の子供のころ、祖母世代の人は、女が月経中に神社の鳥居をくぐるべきではないと言い聞かせていました。年上の従姉妹と家族で神社に行くことがあって、十八歳位だった従姉妹だけが、鳥居の手前で待っていたものです。生理中の女が神社の境内に入るのは、さわりがあるとの考えだったのです。
 また、出産した女性が「まだ、汚れているから」と言うのを、聞いた記憶もあります。
 まさか、イスラエルの律法が日本に入ってきていたわけではないでしょうが、これは、私の確かな記憶です。

 同じ東洋でも、中東イスラエルと極東日本で、同じような忌みごとがあるのは、ふしぎでもあり、興味深いことだとも思えます。




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2011年02月05日

Coffee Break166 ツァラアト(レビ記13章14章)


 

 ツァラアトとは何でしょう。
 聖書では、皮膚に現れるツァラアト。衣服にあらわれるツァラアト。編み物、織物、皮製品のツァラアト。家の壁などに生じるツァラアトが記されています。


 ついで主はモーセとアロンに告げて仰せられた。(レビ記13章1節)
 ある人のからだの皮膚にはれもの、あるいはかさぶた、あるいは光る斑点ができ、からだの皮膚にツァラアトの患部が現れたときは、彼を、祭司アロンか、祭司であるその子らのひとりのところに連れてくる。(2節)
 祭司はそのからだの皮膚の患部を調べる。その患部の毛が白く変わり、その患部がそのからだの皮膚よりも深く見えているなら、それはツァラアトの患部である。祭司はそれを調べ、彼を汚れていると宣言する。(3節)


 このような書き出しのために、ツァラアトは〈らい病〉と訳された頃もあったようです。けれども、13章、14章を読むと、ツァラアトは人のからだの表面に現れる一種の皮膚病。または、布や革製品、家の壁などに現れるもの・カビの一種のようです。

 今のお医者さんが皮膚の所見に対するこの箇所を読まれたとき、これがどのような病気だと判断するのか、専門知識のない私には検討もつきません。

 皮膚のツァラアトは、@やがて自然に消滅するもの(6節)、A慢性のもの(11節)、B悪性で全身に広がっていくもの(12節)、Cやけど(28節)、Dかいせん(30節)、E皮膚の腫れ物(43節)、色の異常、湿疹(39節)などに分けて、症状と対策が説明されています。


 いわゆるハンセン氏病が含まれていたとしても、これらの一つに過ぎないのですが、病気のなかでも「皮膚に現れる異常」は恐れられていたのでしょう。内側の病気が最初に現れるのは肌の色だからかもしれません。また、皮膚疾患の多くが伝染するように見えたのかもしれません。そのようなものは、見かけだけでなく、神様に対し、なにか清くないことをしたと、考えられたのかもしれません。
 それで、皮膚に異常があるとき、祭司に見てもらって、ささげ物をし、きよめてもらったのです。祭司は症状を、おきてに照らして調べ、慢性のツァラアトと判断された場合、その人は宿営地から離れた場所に、隔離されたのです。


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 皮膚のツァラアトが最初に聖書に記載されているのは、モーセがホレブで神に召された時です。神の召しを信じられないモーセに、神は「手をふところに入れてから出してみよ。」と仰せになるのです。はたして、モーセが手をふところに入れて出してみると、その手は白く変わっていました。
 もう一度、手をふところに入れて出してみると、手は元通りになっていました。モーセに現された神の2番目の奇蹟です。(出エジプト記4章6節7節)


 第二列王記5章には、預言者エリシャが、アラムの将軍ナアマンのツァラアトを癒した話が出ています。
 アラムの将軍ナアマンは自分の主君であるアラム王から、わざわざイスラエルの王に紹介状を書いてもらい、たくさんのみやげ物をもって、エリシャに会いにきます。
 ところが、エリシャは応対にも出てこず、期待したように手を置いて祈ってくれることもなく、ヨルダン川で七度身を洗いなさいと、エリシャの弟子を通じて指示したのです。身分の高い将軍ですから、気を悪くしたのですが、部下の一人がなだめてヨルダン川に入るよう勧めました。はたして、将軍ナアマンのからだは元通りになって、幼子のからだのようになり、きよくなったのです。〈第二列王記5章14節〉 


 これらの、物語は、ツァラアトが病気としての深刻であると同時に、「きよくない」「汚れた」もの──なんらの意味で、神からのメッセージのあらわれたもの──と見なされていたことがわかります。ナアマンは、癒しを経験したあと、一行全部を引き連れ、エリシャのもとに戻ってきて言います。

「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。それで、どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」(15節)
 神の人エリシャは、しかし、きっぱりと受け取るのを断ったのです。(16節) 癒したのは自分ではなく、神さまだとわかっていたからです。




 
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2011年02月08日

Coffee Break167 衣服や家のツァラアト(レビ記13章14章)




 ツァラアトは、人のからだの表面に現れるものと、人以外の物──衣服、織物、編み物、革製品、家など──の表面に現れるものがありました。
 物の表面にできるツァラアトとは、「その患部が緑がかっていたり、赤みを帯びたりしているなら、衣服でも、皮でも、織物でも、編み物でも、また、どんな皮製品でも、それはツァラアトの患部である。それを祭司に見せる。」(レビ記13章49節)
 祭司は患部を調べ、それを七日間隔離する。七日目にその患部が広がっている時は、それは悪性のツァラアトで、汚れている。(51節)
 そこで、これらの品物は焼かれると書かれています。

 しかし、七日間隔離した後、それが広がっていないのなら、祭司の命令で、その患部のあるものを洗い、さらに七日間それを隔離する。もう一度祭司がそれを調べて、患部が変わったように見えなければ、その患部が広がっていなくても、それは汚れていると判断されるので、火に焼かれなければならない。とあります。

 反対に隔離の間に、薄れていた場合、その部分を衣服や物からちぎり取ります。
 そのあと、汚れた部分をちぎり取ったにもかかわらず、その同じものにツァラアトが現れたなら、再発であると見なして、その物を焼くのです。

 しかし、洗ったあと患部が消えていたら、もう一度洗えば、きよいと宣言されました。

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 衣服や織物、皮製品に現れるこうしたツァラアトは、今なら、カビだと判断できます。いわゆるからだの垢や手垢などの汚れ、泥や汚物によるよごれは、原因が見えますが、カビの原因は見えないので、「わかる汚(よご)れ」とちがって「汚(けが)れ」だとされ、祭司の判断を仰ぐことになったのでしょう。
 汚れているか(火で焼くか)、きよいかは、祭司が律法に従って判断するのです。


 同じことが家についても決められています。

 わたしがあなたがたに所有地として与えるカナンの地に、あなたがたが入り、わたしがその所有地である家にツァラアトの患部を生じさせ(レビ記14章34節)、
 その家の所有者が来て、祭司に、そのような患部が現れたと言って、報告するときは(35節)
 祭司はその患部を調べに入る前に、その家をあけるよう命じる(36節)


 このような書き出しで、住まいのツァラアトが述べられているのですが、ここで注目すべきことは、これは、将来カナンに入った時に起こりうる出来事として与えられていることです。荒野の生活では、移動か宿営(キャンプ)なのですが、宿営の時でも天幕だからです。

 家にカビが生えるのは、よくあることですからあらかじめ、律法の細則に入れたのでしょう。
 家は移動して隔離することはできませんから、家の人を出して、七日間、家を閉じておくのです。 それでも、家に患部が残っていたら、その患部のある、石を取り出して、町外れに捨てます。壁を削りその削った土も捨てます。それから、壁を塗りなおしますが、そのあと、また家に患部が生じたら、それは悪性のツァラアトなので、家をこわして石と材木と土を全部、町外れに捨てるのです。

 しかし、塗りなおされたのち、患部が広がっていないなら、祭司がそれを見て「きよい」と宣言することになっています。

 カビにも良いカビがあるとはいえ、たいていのカビは、風通しの悪い不潔なところに発生します。このような教えは、衛生状態に注意させ、健康的な生活環境を保全するため、わざわざ神さまが、民に下さったものでしょう。




 体調を崩して2日間、Coffee Breakをお休みさせていただきました。
    なるべく、お休みなしに書きたいと思っていますので、
    よろしくお願い申し上げます。  さとうまさこ
   





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2011年02月09日

Coffee Break168 長血の女(レビ記15章、マタイ9章、マルコ5章、ルカ8章)




 新約聖書のイエス様の癒しのエピソードのなかに、「長血の女の話」があります。(マタイの福音書9章20章〜22章、マルコの福音書5章25節〜33節、ルカの福音書8章43節〜48節)
 
 十二年間出血が止まらず、あらゆる治療をして、財産もなくしてしまった女が、イエス様の着物のすそにでも触れることができればと、群集に混じってイエス様に近づき、その衣のすそにさわります。すると、たちどころに出血が止まったのです。
 イエスさまは、からだから力が出て行ったのを感じて、振り向いてお聞きになります。
「だれがわたしに触ったのですか。」
 ひどく恐れてひれ伏す女に、イエスは言われます。
「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」

 この話は、旧約聖書レビ記の15章を知っていると、さらに、その意味がよくわかる箇所です。


☆☆☆☆

 レビ記12章には、出産した女性への禁忌がありました。
 出産すれば、男の子を生んだ場合、七日間汚れる。女の子を生んだ場合、八日間汚れる、その間は、月経で不浄の女と同じように汚れているとされたのです。その期間が過ぎても、三十三日間(男の子を出産した場合)、または、六十六日間(女の子を出産した場合)、きよめのためにこもらなければならないと、決まっていました。
 出産は、お祝いすべきことであり、汚れだと言うのは納得できない気もするのですが、趣旨は、「こもらなければならない」にあるのだとも考えられます。
 出産した女性と新生児に、十分な休養を与えるのは、理に叶っています。

 同じように、レビ記15章では、性器からの漏出として、性病と推測できそうなものはもちろん、男性の射精から月経の出血、性行為そのものまで「汚れ」として、取り上げられています。
 それぞれに、きよめの方法も定められているのですが、健康的な性行為では、触れた物を洗ったり、水を浴びて、からだをきよめるだけです。(レビ記15章18節、21節22節)

 しかし、病的な漏出と婦人病の出血の場合、癒されるまでからだを洗ったりするのですが、治ったあとに、祭司に山鳩などのささげ物を持って行って、贖いをしてもらわなければなりませんでした。それだけ、汚れが大きいと言うことでしょう。


☆☆☆☆

 女性の出血は、生理的で健康な月経でさえ、その期間は「汚れる」とされたのです。十二年間、出血が止まらない長血の女は、ずっと「汚れ」の中にいるのです。出血のある女との性交渉は禁じられていますから、結婚もできません。結婚していたとしたら、夫との性的関係をもつことができません。
 汚れている女には、ほかの人が触れてはいけないなど、いろんな禁忌がありましたから、人付き合いもままならなかったでしょう。それで、「長血の女」は、あやしげな祈祷師や医者、薬に財産をつぎ込んでしまったのです。
 しかも、癒されることはありませんでした。
 そのような時、イエス様の噂を聞いて、「衣のすそにでも触れることができば・・・」と、すがるような気持ちでやってきたのです。

 彼女の期待は間違っていませんでした。イエス様の衣のすそに触れたとたん、即座にからだの痛みが去って血が止まったのです。

 彼女がどれほど深い苦しみから解放されたかを思う時、この奇蹟が、イエス様のほかの癒しと比べて──たとえば、死人のよみがえり、盲の人の目を開く、中風の人が立って歩くなど──とうてい小さいとは言えないと思います。

 イエス様は、旧約の律法の厳しいおきての元で、差別されていた遊女(売春婦)や姦淫の女を、汚れていると蔑むのではなく慈しまれ、開放されました。長血の女もまた、病気そのものに加えて旧約の厳しいおきての下で、苦しんでいました。
 その苦しみが大きい分、イエス様に救いを求める気持ちも大きかったのだと思われます。イエス様が、「あなたの信仰があなたを癒した」と言われたのは、事実なのです。

 



 
 
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2011年02月10日

Coffee Break169 性に関する禁忌(レビ記18章) 




 レビ記18章は、性的関係における禁忌です。
 人間の食欲は無条件のものです。たとえ、その人が一日中動かなくても、病気であっても、若くても老いていても、なんらの栄養をからだに取り込まないでは生きていけません。

 性欲は、もう一つの生存本能です。子孫を残したいと言うのは本能ですから、性欲を無視したり、頭ごなしに押さえつけたりできるものではありません。
 とくに、人間の場合、動物と違って、発情期(繁殖期)もなく、遺伝子によってプログラムされた性行動の規制もゆるやかです。
 これは、人間だけは、子孫を残すと言う動物的使命以上のものを楽しみ、深い交わりができるように、神様が特別に下さったものです。
 ただ、人の罪の性質が、神様のみこころを逸脱することが多いのです。昔から、どの国や文化でも、性欲をコントロールするのは、大きな課題でした。


☆☆☆☆☆


 あなたがたのうち、だれも、自分の肉親の女に近づいて、これを犯してはならない。わたしは主である。(6節)
 父をはずかしめること、すなわちあなたの母を犯すことをしてはならない。彼女はあなたの母であるから、彼女を犯してはならない。(7節)
 あなたの父の妻を犯してはならない。それはあなたの父をはずかしめることである。(8節)
 あなたの姉妹は、あなたの父の娘でも、母の娘でも、あるいは家で生まれた女でも、外で生まれた女でも、犯してはならない。(9節)


 このあと、あなたの息子の娘、娘の娘──孫娘──を犯してはならない。(10節) あなたの父の妻があなたの父に産んだ娘──異母姉妹を犯してはならない。(11節) あなたの父の姉妹(12節) 母の姉妹を犯してはならない。(13節)──叔母、伯母との姦淫の禁止。
おじの妻(父の兄弟の妻)に近づいてはならない(14節) 息子の妻──嫁を犯してはならない。(15節) 兄弟の妻──兄嫁、弟嫁、つまり義理の姉妹を犯してはならない。それはあなたの兄弟をはずかしめることだからである。(16節)
 あなたは妻になる女性の娘を犯してはならない。その女の息子の娘、あるいはその娘の娘をめとって、これを犯してはならない。(17節)
 妻の存命中に、その姉妹にあたる女をめとり、その女を犯してはならない。(18節)

 月のさわり(月経)で汚れている女との交わりを禁じ、(19節)、 隣人の妻と寝ることを禁じています。(20節)
 また、こどもをモレク(と言われる神──偶像神)に、いけにえとしてささげることへの禁止。これは、イスラエルの民を救ってくださった天地創造の神との結婚を壊す、姦淫行為とみられたのです。
 さらに、男同士で寝ること(同性愛)の禁止。(22節)獣との交わりの禁止が挙げられています。この獣との交わりは、男だけでなく、女にも戒めとして与えられています。(23節)


 これらの禁忌を見ると、その数の多さに驚きます。近親相姦が、いまわしい行為であるのはいうまでもありません。
 しかし、一見血のつながりのない兄弟の妻、隣人の妻、父の愛人との関係などは、古くから小説の題材にさえなってきたものです。これらのタブーの多くは、時代を通じ、場所を問わず、侵されてきたことに気がつくのです。

 創世記には、イサクの息子ヤコブが、自分の意思ではなかったとはいえ、姉妹である二人の女性を妻に娶っています。(創世記29章21節〜28節)  また、ヤコブの息子が、父親の妻の一人と姦淫を犯しています。(創世記35章22節)
 ヤコブ息子のユダは、これも策略にかかったとはいえ、嫁と関係をもってしまいます。(創世記38章)
 サムエル記の時代には、ダビデの息子アムノンが、美しい異母妹タマルを犯してしまいます。(Uサムエル記13章)

 
☆☆☆☆☆


 私たちは、いま、とても進歩した世の中に生きていると、思っていないでしょうか。
 パソコンや電子機器は言うに及ばず、私たちがいま享受している文明の機器のすべて、電気やガスや水道設備、交通通信手段のすべてがない時代の中東の人たちより、はるかに、文化的に高く、知的に洗練されている。政治は民主主義で、人権は保障されていて、公正な裁判が受けられて、高い教育と医療技術の恩恵にあずかっている・・・と。

 確かに、そのとおりかもしれませんが、性に関するレビ記の禁忌は、その多くが、今も必要と思われないでしょうか。

 私たちは、歴史的に、かつてなかったほど大規模に、さまざまなメディアを使って性的情報が垂れ流され、「欲情をもって女(男)を見る」よう人々をそそのかしている時代に生きています。

 
 今こそ、ノアの洪水のあとに、「わたしは、けっして再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。」(創世記8章21節)と、おっしゃった神様の、人間への憐れみの心を、思い起こす時ではないでしょうか。





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2011年02月11日

Coffee Break170 禁忌の理由(レビ記18章24節〜30節) 




 レビ記18章23節までで、さまざまな性的な禁忌をお示しになったあと、24節で、神は、次のように仰せになっています。

, あなたがたは、これらのどれによっても、身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国々は、これらすべてのことによって汚れており、(レビ記18章24節)
 このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地のとがを罰するので、その地は住民を吐き出すことになるからである。(25節)
 あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守らなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの間の在留異国人も、これらの忌みきらうべきことを、一つでも行なうことがないためである。(26節)
 
 
 イスラエルの民に十戒を下さってからの、アブラハム・イサク・ヤコブの神。「わたしはある」と自己紹介された聖書の神は、次から次へと、戒め、おきて、細則を繰り出してこられるように思えます。
 シナイで、神はいわば、イスラエルの民と結婚の契約をされたのですから、契約事項が厳しいものになるのは当然かもしれません。
 神礼拝に関する律法、個々の民の生活を律するおきて、集団のおきて、幕屋と祭司の祭祀と制度。
出エジプト記の20章から40章まで、さらに、レビ記に引き継がれてからも語られるこれらの数多くの律法は、まだまだ、じつは、つぎの民数記、また、申命記でも繰り返されるのです。


☆☆☆☆

 天地をお造りになった聖書の神は、アブラハム・イサク・ヤコブを選び出され、それぞれに個人的な成功を与え、イスラエル民族の始祖・族長として立てられました。そして、創世記の中で、彼らイスラエルの先祖に対して、幼子に対するような眼差しと面倒見の良さで、接しておられます。

 四百年後、エジプトで奴隷の境涯に苦しむイスラエル民族を、モーセに命じて連れ出されてからも、シナイに到着するまでは、やはり、幼子の世話をするように民のめんどうを見ておられるのです。民の方もまるで、親に頼りきった子どものようでした。
 敵が迫ってきたと言って、ヒステリックにモーセに詰め寄り、水がないと言ってわめき、「お腹が空いた」「肉が食べたい」と、言いたい放題です。そのたびに、民から突き上げられるモーセは、神様に訴えて叫びます。神様は、「わかった。わかった」とばかり、海を二つに分け、苦い水を甘い水に変え、マナを降らせ、ウズラをもたらして下さって、文字通り頼りになるやさしい「おとうさま」です。

 しかし、シナイで、十戒を与えて、イスラエルの民と契約を結ばれた聖書の神は、一転、とても峻厳な「父親」に変わります。
 民とお会いになる場所を決められ、お会いになる相手をモーセと祭司に限定され、その手続きを厳しく決められ、民自身がご自分と親密に結ばれることを求められます。また、民の生活規範やルールも細かく細部にわたり、それに従うことを、厳しく求められます。

 モーセがシナイ山にこもっている間に、金の子牛を作って拝み、乱痴気騒ぎを繰り広げていたイスラエルの民に、神がどれほどお怒りになったかは、記憶に新しいところです。


☆☆☆☆

 これら、レビ記で示された性モラル自体は、当時の中東で、厳格に守られていたのではありません。

 それどころか、神ご自身が仰せのように、
──あなたがたより先にいたこの地の人々は、これらすべての忌みきらうべきことを行なったので、その地は汚れた──(18章27節)のでした。

 ときおり、ネットなどで、先住民のいるカナンにイスラエル人を入れるため、先住民を滅ぼしたり、追い払ったりする「聖書の神はひどい」と、非難する意見が出るのですが、神はイスラエル人を「無条件に生かす」ために、先住の民を追い払うのではないのです。

 元をただせば、神は、罪に罪を重ねる全人類をいつかご自身のみもとに引き寄せ、祝福するため、その器としてアブラハムを召し出されたのです。(創世記12章)
 その子イサク、孫ヤコブ(イスラエル)を大切に育て、ヤコブの十二人の息子をエジプトという苗床に移し、そこで民族と呼べるほどまでに数を増やして、連れ出されたのです。

 全人類を救いに入れるための器という神様からの使命をおびているのですから、イスラエル人は、カナンにいた他の部族や民族の人たちより、高い神意識、神との関係、生活の規範をもった「神の民」であることが、求められたのです。

 そのために、性に関する規範も、厳しいのです。

 あなたがたがこの地を汚すことによって、この地が、あなたがたより先にいた国民を吐き出したように、あなたがたを吐き出すことがないためである。(28節)
 これらの忌みきらうべきことの一つでも行なうものはだれであろうと、それを行なうものは、その民の間から断たれる。(29節)


 くどいほど、神は繰り返されます。18章の最後の30節をお読みください。

 あなたがたは、わたしの戒めを守り、あなたがたの先に行なわれていた忌みきらうべき風習を決して行なわないようにしなさい。それによって身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神、主である






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2011年02月12日

Coffee Break171 神の基準(レビ記19章20章)




 ついで主はモーセに告げて仰せられた。(19章1節)
 イスラエル人の全会衆に告げて言え。
 あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なるものとならなければならない。(2節)


 このような書き出しで始まる、レビ記19章を、見てみましょう。
 ●父と母を敬いなさい。
 ●安息日を守りなさい。
 ●偶像を造ったり、拝んだりしてはならない。
 ●いけにえをささげるときの注意事項。
 ●土地の収穫を刈り入れる時に、貧しいものや在留異国人のために、取り残しておくこと。
 ●盗んではならない。あざむいてはならない。たがいに偽ってはならない。
 ●神の名によって、偽って誓ってはならない。
 ●隣り人を虐げてはならない。賃金はその日の内に払う。
 ●耳の聞こえない人や、目の見えない人を、からかってはならない。
 ●不正な裁判をしてはならない。
 ●人々を中傷してはならない。
 ●身内のものを憎んではならない。隣人を、戒めなければならない。
 ●復讐してはならない。隣人をあなた自身のように愛しなさい。
 ●異なった種類の家畜を交わらせてはならない。畑に二種類の種を蒔いてはならない。
 ●女奴隷と交わった時のつぐない。
 ●祭司が罪を犯したときの贖い。
 ●将来入る土地で果樹を植えた時に、取り入れるルール。
 ●血のついたままで、何も食べてはならない。
 ●まじない、占いをしてはならない。霊媒、口寄せに頼んではならない。
 ●入れ墨をしたり、びんの毛をそり落としてはならない。
 ●娘に売春をさせてはならない。
 ●老人を敬い、白髪の老人の前では起立せよ。
 ●在留異国人を虐げてはならない。
 ●物差し、計り、正しいますを使わなければならない。


 20章は、「死罪である」と前置きがあるおきてです。
 ●子どもをモレクの神に、いけにえとしてささげてはならない。
 ●子どもをささげているのを、見過ごした者たちも同罪。
 ●霊媒や口寄せとまじわってはならない。
 ●父や母をのろうものは殺されなければならない。
 ●夫のある女と姦通した場合、二人とも死罪。
 ●息子の嫁と寝るもの、男同士で寝るもの。母と娘を同時にめとって淫行を行なうもの
 ●動物と寝るもの。
 ●自分の姉妹、父、母の姉妹(おば)などと交わるもの。
 ●兄弟の妻をめとるもの。



 これらの中には、今では、罪にならないものと、今でも刑法の対象となるものが混在しています。

 子どもを殺すのは、理由が何であれ犯罪です。はかりやますを偽るのも犯罪です。
 裁判を曲げたり、偽りの証言もそれが露見したら罪でしょう。

 レビ記18章にもあった、近親の間での性的関係などは、三親等以内の結婚は禁止されています。
 しかし、近親の性関係そのものは、今の日本の法律では刑罰の対象にならないそうです。
 訴えがあれば、「強姦罪」で、また、相手が子どもであれば「児童虐待防止法」などで対処するだけです。


 何か、異質なものが混在している感じがするのは、これらが、「神の基準」によって命じられているものだからでしょう。刑罰の対象にならなくても、とても大切なおきてが並んでいますね。


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