2011年02月23日

Coffee Break182 主の例祭の背景(レビ記23章)




 現代イスラエルで使われているユダヤ歴では、イスラエルのラビ(ユダヤ教の聖職者)が聖書の天地創造から計算して、ことし(2011年)は5772年になるそうです。
 
 これは一つの解釈だと、私は思います。じっさいには、アブラハムの召命や出エジプトの年が、正確にわかるのではないからです。天地創造がいつ始まったかは、人間にはわからないのではないでしょうか。聖書は人類誕生以前、神様が世界をお造りになるところから始まっているのです。
 クリスチャンは、ご存知のように今世界中共通として使われている西暦を用いています。
 西暦は、BC(Before Christ、イエス様がこられる以前)とAD(Anno Dominiアノ・ドミニ、主の年に)の略号で表されます。
 
 
 私たちクリスチャンは、もちろん、天地創造の神が宇宙や人類をお造りになったことを信じています。

 ただ、聖書の神様を信じているにもかかわらず、私たちが聖書を読んでいくのを必要以上に難しく感じさせている要素は、いくつかあると思います。
 たとえば、
 ●聖書の世界の気候風土や地理がよくわからない。
 ●聖書の背景となっている時代の暦や産業、文化などの社会背景が理解しにくい。
 ことなどです。 

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 過ぎ越しのまつりは「第一の月の十四日」(レビ記23章5節)です。
 第一の月とは、いまの西暦のカレンダーで、四月ごろになります。過ぎ越しの日から七日後に、最初の大麦の収穫が始まります。
 七週と一日たった五十日後、今度は小麦の収穫です。この間が、春の収穫祭です。
 この五十日目が五旬節と言われ、新約聖書の時代には、この日に、ペンテコステの聖霊降臨(新約聖書、使徒の働き2章)がありました。
 レビ記にあるイスラエルの収穫祭は、ですから、四月から五月にかけて行なわれるものです。これは、秋に稲の刈り入れをする日本と反対です。穀物が麦なので秋に植えて、春に刈り取るからです。

 第七の月の十日・贖罪の日は、秋の季節です。同じ第七の月の十五日に、仮庵の祭り(レビ記23章34節〜43節)が始まります。これが同時に、秋の収穫祭になっています。秋には数々の木の実やぶどうが実るのは、日本と同じです。


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 牧畜になじみが薄い日本では、「乳と蜜が流れる地」(約束の地カナンのこと)という表現も、ぴんと来ないかもしれません。あふれるほど乳が搾れること、蜜がしたたるほど取れる土地が、古代のイスラエルの民の夢の土地だったのでしょう。家畜が丸々太って家畜の仔が増える環境でなければ、乳も取れないのです。また、蜜が豊かであることは、花々が咲き乱れる美しい自然を象徴しています。

 同じように、日本では、豊かな食物と自然の象徴として、「瑞穂(みずほ)の国」と言いました。みずみずしい稲穂が金色に光ってどこまでも続いている光景、それは日本の国の秋の、まばゆいばかりの美しさを表現している美称でした。

 食物にする動物についても、感覚が違います。犠牲の羊をほふるのを、「野蛮」「気持ちが悪い」という人がいますが、日本人が好きな「魚のかぶと煮」「活け造り」「おどり食い」などを、気持ち悪いと感じる文化もあるのです。
 私たちは、聖書を理解するために、聖書の背景を理解するとともに、日本の国に置かれたものとして、自分の文化に適用させながら読むと、よりたしかな深い理解ができるのではないでしょうか。


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 聖書理解の方法に関連していますので、このブログのおすすめリンク、佐々木先生のサイト「聖書を読むぞー」、2月22日分の記事をお借りしたいと思います。

 聖書を読むとき、単に面白い物語だとか、興味深い歴史だとか、忠実に伝えられてきた古代文書だとかいうような読み方ではなく、「今読んでいる自分に語りかけているもの」として読むことが大切です。数千年前に聖書が書かれたとき、それらを直接書いた人たちには思いもよらなかったことだとしても、彼らの心を動かして書かせてくださった神は、21世紀になってから読む人たちをも、始めから念頭に置いておられたのです。つまり、聖書は、21世紀に生きる人々に向けても書かれているのです。

 ただし聖書は、あくまでもそれが書かれた時代に生きていた人たち、その当時の人々を第一の対象として書かれていることを忘れてはなりません。その当時の言葉、文化、習慣、世界観、政治意識、社会感覚、科学的知識を背景に、彼らが直面する問題について、彼らにわかり易く書かれているのです。ですから現代の私たちが、そこに自分たちの民主主義の理念を持ち込んだり、なにごとにつけても金銭感覚で動く現代資本主義の習慣を持ち込んだり、グローバリズムの世界観や政治意識を持ち込んだり、波風が起きないように上手に世渡りをする社会常識や、素朴な情緒や文学的な表現の中に科学知識を持ち込んだりしては、正しい読み方ができなくなってしまうのです。

 

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2011年02月24日

Coffee Break183 神を冒涜した男(レビ記24章)




 さて、イスラエルの女を母とし、エジプト人を父とする者が、イスラエル人の内に出たが、このイスラエルの女の息子と、あるイスラエル人とが宿営の中で争った。(レビ記24章10節)
 そのときイスラエルの女の息子が、御名を冒涜してのろったので、人々はこの者をモーセのところに連れてきた。(11節)
 人々は主の命令をまって彼らにはっきり示すため、この者を監禁しておいた。(12節)
 そこで、主はモーセに告げて仰せられた。(13節)
「あの、のろった者を宿営の外に連れ出し、それを聞いたものはすべてその者の頭に手を置き、全会衆はその者に石を投げて殺せ。(14節)



 レビ記は、シナイの荒野で、神からのおきてがつぎつぎと布告されている時期のものです。
 やっと幕屋が完成し、祭祀儀礼が祭司によって行なわれたばかりのころ、また、思いがけない事件が起こります。民の一人が、喧嘩をしていて、神を冒涜することばを吐いたのです。
 これは、十戒の三番めの戒め、
あなたは、あなたの神、主のみ名をみだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない、への違反でした。

 争いの原因がなんであれ、彼が神を冒涜したのが咎められたのです。彼の父がエジプト人であったことが、咎められたのではないでしょう。

 主の裁決は厳しいものでした。
 
 主のみ名を冒涜するものはかならず殺されなければならない。(16節)

 イスラエル人は、主がモーセに命じられた通り、彼を宿営の外に連れ出して石を投げて殺したのです。

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 シナイで、神から十戒やレビ記の戒めをいただいている時のイスラエルは、文字通りの神権政治国家です。
 ふつう国家と言えば、領土があって、その中に民がいます。そういう目に見える領土に一度でも入れられなければ、共通の言語や文化や習慣を持った「国民」も形作られません。
 一度、共通の言語や文化や習慣をもてば、仮に住む場所を移されても一つの国民としての枠を保つことができます。後に、捕囚の民となったイスラエル人、世界に離散したと言われるユダヤ人が、それでも帰国をして国を再興したのは、ユダヤ人というアイデンティティを持った国民が形作られていたからです。

 けれども、アブラハム・イサク・ヤコブの神によって、エジプトから導き出されたばかりのイスラエル人には、領土がないだけではありません。奴隷から解放されたばかりで、自分たちの文化や精神的支柱も十分ではなかったのです。
 神はこのような民に、契約を与え、彼らが神中心のしっかりした祭祀国家のもとで、民族の自覚をもつように命じられたのです。いわば、神は彼らに戒めをお与えになっただけではなく、「神支配の国」という領土をお与えになったのです。
 神・主ご自身が、彼らの領土であり、国境であったのです。

 このような状況で、神を冒涜することは、この神政政治国家を内部から崩壊させるものでした。国境を破って、敵を導きいれるにも等しい行為だったのです。

 
 「神を冒涜した男」の話が出てくるのは、イスラエルの民がエジプトを出て、やっと一年後の世界。幕屋と祭司の制度、もろもろの戒めやおきてが民に与えられたばかりのころです。神中心の政治と社会の秩序を保って、これから、荒野をとおり、さらにカナンで、見える敵と戦いながら、「約束の地」を勝ち取っていかなければなりません。 
 ですから、レビ記は、その秩序を犯すものに厳しい処罰を下しています。祭司アロンの二人の息子ナダブとアビフが火のささげ方の手違いで、神の怒りに触れて死んだのを思い出してください(レビ記10章1節2節)。上は祭司から、そして一般の民に至るまで、神は、神を冒涜する者に厳罰で臨まれたのです。


 このあと、レビ記26章では、偶像礼拝への戒め、安息日を守ることへの戒めが、あらためて繰り返されます。そこには、神に従ったときの報いと、聞き従わなかった時の神の怒りが具体的に、書きしるされています。



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2011年02月25日

Coffee Break184 安息日と安息年(レビ記25章)




 安息日はすべての人が守るべき戒めでした。六日間働いて七日目に休みなさいと十戒に記されています。それは、主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。(出エジプト記20章11節)からでした。

 
 神が六日間で創造のみわざを終え、七日目に休まれたというのは、あくまで当時の人にわかりやすく語られたことです。イエス様が、「人の子は安息日にも主です。」(マルコの福音書2章28節)と語られたように、神様がお休みになることなどないのです。

 安息日は、人に対しては、奴隷も在留異国人も守るべき戒めでしたが、じつは家畜も休ませたのです。家畜も生きたものであり、安息(休息)を取らせて元気を回復させよとの命令なのです。

 そればかりではありません。
 神は、土地についても安息年を守るよう、戒めておられます。

 わたしが与えようとしている地にあなたが入ったとき、その地は主の安息を守らなければならない。(レビ記25章2節)
 六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。(3節)
 七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。(4節)
 

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 土地は続けて使うと、疲弊して連作障害を起こします。土地を休ませるのも、理に叶っているのでしょう。神様の意図されるところは、人も家畜も土地も休みを取って、その疲れを回復させなさいということです。

 問題は、一年間、種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしてはいけないと聞いた人たちの心配です。
 小麦もぶどうも収穫できなければ、翌年は何を食べたらいいのですか!と、思うのはとうぜんです。
 今の日本のように物質的に安定した社会にあっても、失業のため給料が入ってこないとなると、暮らしの心配が押し寄せて、その休日を「のんびり楽しむ」わけにいかないのではないでしょうか。まして、当時の人は目先の収穫で、その日その月その年を、なんとかしのいでいたのです。


 あなたがたが、もし「種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは七年目に何を食べればよいのか」と言うなら、(レビ記25章20節)
 わたしは、六年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、三年間のための収穫を生じさせる。(21節)
 あなたがたが八年目に種を蒔く時にも、古い収穫をなお食べていよう。九年目まで、その収穫があるまで、なお古いものを食べることができる。(22節)


 また、土地を安息させている年(7年目)に、種を蒔かないのに自然に生えた作物、枝をおろさないのに実をつけたぶどうなどは、食物として食べてもよかったのです。
 それを自分だけの物にするのではなく、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在留している居留者のために、また、あなたの家畜とあなたの地にいる獣とのために、その収穫を食物にするよう、但し書きがあります。


 神の御名を冒涜したものに石打の刑を命じられる神・主の厳しさ(レビ記24章)と、このように地上のすべての者を心配し、細かいところまで、配慮される神様の対比に驚かれるでしょうか。じつは、これが、天地を創造された神様の、聖と愛の性質の現れなのです。



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2011年02月26日

Coffee Break185 ヨベルの年(レビ記25章)




 七日ごとの安息日は、休息を取って心身を回復させるものでした。七年ごとの安息年は、土地を休ませて新生させるものでした。それは、人間の権利、実利的な土地活用というより、神が与えてくださるものでした。神はご自分のお造りになった被造物──人も家畜も土地もしぜんも、疲れ果てて滅びることがないよう、細かく暖かな配慮をして下さったのです。
 ただ、安息を取るだけでなく、そのとき、神のみわざを覚えて、神と向き合いなさいと言われるのです。そうすると、神様の聖なるご性質が、肉体の疲れだけでなく、心のなかの疲れや闇をも取り去って下さるのです。

 あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。(レビ記19章2節) 


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 安息年が七回続いた後、その翌年(五十年目)がヨベルの年でした。

 あなたは安息の年を七たび、つまり七年の七倍を数える。安息の年の七たびは四十九年である。(レビ記25章8節)
 あなたがたはその第七月の十日に角笛を鳴り響かせなければならない。贖罪の日に、あなたがたの全土に角笛を鳴り響かせなければならない。(9節)
 あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。(10節)


 ヨベルの年とは、五十年目の聖なる年でした。この年には、四十九年間に民の生活のうえに生じたすべての負債が免除されるのです。借金があるものは、借金が帳消しになりました。貧しくなって土地を売っていたものもその土地を返してもらえました。自分や子どもを奴隷に売っていた者は、解放されました。
 
 ヨベルの年まで待たなくても、土地には買い戻しの権利がありました。つまり、地は耕作の権利を売るので、所有権を売るのではなかったのです。

 地は買戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから、あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。(23節) 

 地は神様のものです。それで、買った人は、相手が買い戻せる時には、買い戻させなければなりませんでした。その人が貧しくても、親戚の者が買い戻してやることができました。これが、きちんと行なわれれば大土地所有者は生まれないはずです。

 これはすばらしいおきてです。どのような社会でも、貧富の差が出てきます。貸し借りが出てくるのです。それは、人間の苦しみの原因、生存そのものの危機です。借財を帳消しにして、人生をリセットできればと思っている人は今でも多いでしょう。
 まだ、国の形もない、支配の制度も整わないイスラエルの民に、ヨベルの年を命じられた神は、まことにあわれみ深く、情け深い方だと、あらためて思うのです。

 それから、五百年後、イスラエル王国の二代目の王ダビデは神、主を讃えて歌っています。



    わがたましいよ。主をほめたたえよ。
    私のうちにあるすべてのものよ。
    聖なる御名をほめたたえよ。
    主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
    主は、あなたのすべての咎を赦し、
    あなたのいのちを穴から贖い、
    あなたに恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
    あなたの一生を良いもので満たされる。
    あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。
    主はすべてしいたげられている人々のために、
    正義とさばきを行なわれる。
    主はご自身の道をモーセに、
    そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。
    主は、あわれみ深く、情け深い。
    怒るのにおそく、恵み豊かである。(詩篇103,1〜9)
 




 聖句の引用は新改訳聖書から使わせていただいています。







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2011年02月27日

Coffee Break186 偶像礼拝への戒め(レビ記26章)



 あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない。また、自分のために刻んだ像や石の柱を立ててはならない。あなたがたの地に石造を立てて、それを拝んではならない。わたしがあなたがたの神、主だからである。(レビ記26章1節)

 安息日、安息年、ヨベルの年の遵守について、モーセに告げられたあと、レビ記26章で、神はまたまた、偶像礼拝を戒めています。
 すでに見たように、偶像礼拝の戒めは、十戒の2番目の戒めです(出エジプト記20章4節)。十戒では、この偶像礼拝の戒めに、長い補足の説明がついています。

 あなたは自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎むものには、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまでほどこすからである。(20章4節〜6節)


 これらの聖句を読むと、偶像とはかたちのあるもの、人間が手で造ったものであるのが、わかります。それが、具体的にどのようなものかも想像がつきます。私たちの身の回りにもたくさんありますし、古代の遺物や美術品などを、博物館や写真集で見るとき、その多くが信仰や祀りごとと関係があるものだと説明されています。
 

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 天地を創造された神、アブラハム・イサク・ヤコブの神、「わたしはある」と、モーセに自己紹介された神は、イスラエルの民をエジプトの奴隷生活から救い出して、シナイで契約を結んでくださいました。
 イスラエルの民が、無事エジプトから脱出でき、葦の海をわたり、追いかけるエジプト軍を振り払い、食べ物のないところでマナを食べ、苦い水を甘い水として飲み、無事、シナイまで来ることができたのは、神・主の、イスラエルの民への一方的な愛、その現われとして尋常でない大きな奇蹟や不思議のわざがあったからこそです。そのような神からの救いを経験した民に対し、神は、「私以外にほかの神々があってはならない」(出エジプト記20章3節)と言われるのです。
 それは、もとより、天地創造の神が二人も三人もいて、ほかの神に、イスラエルの民が気を取られるということではありません。
 むしろ、アダムとエバが楽園を追放されて以来、ほとんどの人間は、もともと自分たちを造ってくださった神の姿を忘れてしまっていました。神を祀り、礼拝するために、礼拝の対象を自分たちで考え、造ってしまうようになっていたのです。
 
 偶像になっていたものは、太陽、月、牛、ヘビ、かえるなど、数多くあります。
 創世記を見ると、ヤコブの妻ラケルとレアの実家にも、テラフィムと呼ばれる守り神がありました。それをラケルが持ち出したエピソード(創世記31章19節)を考えると、形のあるものだったのでしょう。また、ヤコブの息子ヨセフは、エジプトで宰相となったあと、エジプトの祭司の娘と結婚しています。モーセもミディアンの祭司の娘チッポラと結婚していますが、彼女たちの父親は、いずれも、アブラハム・イサク・ヤコブの神ではない、異教の神の祭司です。
 
 シナイまで来たイスラエルの民の中にも、異教の偶像崇拝は紛れ込んでいたのでしょう。異教の風習、まじないや占いや口寄せなどと、自分たちに契約を下さった神との厳密な区別もつかない人もまだまだいたことでしょう。
 それで、神・主は、何度も何度も、偶像礼拝を戒めなければならなかったのでは、ないでしょうか。
 
 その戒めは、十戒以後、レビ記26章まで、レビ記20章2節、レビ記19章4節17章7節、出エジプト記34章11節〜14節、17節、出エジプト記32章全体、出エジプト記23章24節と、繰り返されるのです。同時に、おきてに従ったときの平安な生活、子孫や収穫への祝福。おきてに違反した場合の厳しい制裁、報復とが、明記されています。

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 もし、あなたがたがわたしのおきてに従って歩み、わたしの命令を守り、それを行なうなら、
 わたしはその季節にしたがってあなたがたに雨を与え、地は産物を出し、畑の木々はその実を結び、(レビ記26章3節)
 あなたがたの麦打ちは、ぶどうの刈り入れまで続き、ぶどうの刈りいれ時は、種蒔きまで続く。あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかにあなたがたの地に住む。(4節)


 この祝福の説明は、まるで子どもに言い聞かせるように具体的で、明快だと思われませんか。
 一方、聞き従わなかった場合の罰や報復も、26章14節から、怖ろしいばかりに具体的に書かれています。
 
 すなわち、わたしはあなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病で目を衰えさせ、心をすり減らさせる。あなたがたは、種を蒔いてもむだになる。あなたがたの敵がそれを食べる。(16節)
 あなたがたの力はむだに費やされる。あなたがたの地はその産物を出さず、地の木々もその実を結ばないであろう。(20節)


 このように、具体的に、懇切に、何度も何度も言い聞かせなければならない民だったことがわかります。まことに、「全人類を救いに入れる選びの民」を造るのは、容易ではなかったのです。 




 
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2011年02月28日

Coffee Break187 偶像礼拝を論じる(新約聖書、使徒の働き17章)

 


 「偶像礼拝の禁止」は、十戒の二番目の戒めになっています。神様が一番目の戒め「他の神々への信仰」とともに、厳しく戒めておられるのを見て、私たち日本人クリスチャンはとても心が波立つのです。
 私たちの社会には、「偶像」がとても多くて、だれでも、それに接触する機会が多いのです。神社や寺にわざわざ行かなくても、葬式や結婚式、法事や神事が、向こうからやってくるのです。曽祖父の代から何代もクリスチャンで、親戚も友人も全部クリスチャンというような人は別ですが、そんな人は、めったにいないでしょう。

 私がまだ、クリスチャンになる前、親戚の葬儀で、その家の嫁のお母さんが焼香を避けて、座っていらっしゃるのを見ました。クリスチャンだから焼香をしないらしいと聞いて、「そんなものかしら」と当時は思いました。また、私より先に救われた友人が、親戚の結婚式で、神主さんの御祓いを拒否したところ、のちに花嫁の父である実の弟さんと、絶交になってしまったと聞きました。
 その方たちは信仰に則って、毅然とした態度をとられたのだと思います。けれども、私はなんとなく釈然としない感情を抱きました。というのも、仏式の葬式や神式の結婚式に出ている人たちのほとんどが、そもそも「礼拝する」信仰心がない人たちだからです。葬式仏教、結婚式・建前用神道などと悪口を言われてきた日本の伝統的宗教は、じっさい生活の方便だと思っている人が多いのです。だのに、クリスチャンだけが、その方便にすぎないものに対して、真剣に「物申している」感じがしたのでしょう。


 ☆☆☆☆

 さて、アテネで二人を待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。(使徒の働き17章16節)
 そこで、パウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。(17節)
 エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っていたが、そのなかのある者たちは、「このおしゃべりは、何を言うつもりなのか」と言い、ほかの者たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい」と言った。パウロがイエスと復活を宣べ伝えたからである。(18節)
 

 ここでのパウロの気持ちは、とてもよくわかります。彼はユダヤ教徒のなかでも、とりわけ優等生的なエリートユダヤ教徒だったのです。
 パウロも回心するまでは、ナザレのイエスを信仰する人たちを憎んでいましたが、しかし、ユダヤ国内にいる分には、「偶像」を拝むものはいなかったのです。
 ところが、異邦人宣教に重荷をもち、アテネまで来て見ると、ギリシャ神話の神々でいっぱいです。彼らと論じあっても、なかなかかみ合わなかったのでしょう。

「外国の神々を伝えているらしい」
 このことばは、現代でさえ、イエス様をお伝えしようとする私たちにも、向けられることばです。イエス様のことを、「キリスト教の本尊」と言ったお年よりもおられたと聞いたこともあります。
 
 このような方々に、天地を創造された神をお伝えするその方法を、さいわい、パウロが二千年前に示し、聖書に残してくれています。

 アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心のあつい方々だと見ております。(17章22節)
 私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、「知られない神に」と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。(23節)
 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。(24節)
 


 このあと、31節までのパウロの説明は、私たちが模範として使わせてもらってもよいのではないでしょうか。じっさい、「知られない神」、天地を創造された神様は、このすばらしい国、日本にもいらっしゃるに違いないからです。



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