2011年02月13日

Coffee Break172 律法とは(ローマ人への手紙3章20節)




 ある時、イエス様が宮(神殿)で教えておられると、律法学者とファリサイ人が一人の女を連れてきて、言いました。

「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。(ヨハネの福音書8章4節)
 モーセは律法の中で、こういう女を石打にするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」(5節)
 彼らはイエスを試してこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。(6節)
 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のないものが、最初に彼女に石を投げなさい。」(7節)
 


 これは、Coffee Break132「姦淫の女」の書き出しです。
 姦淫は、夫のある女が姦通することでした。姦淫の現場を見つけられたら、女も男も石打の刑でした。律法にそう記されているからです。
 しかし、この時、イエス様が、「罪のないものだけが,先に石を投げなさい」と仰せになると、イスラエル人たちは、年長のものから一人また一人と,去って行ったのです。自分は罪がないと思える人はいなかったからです。
 
 昨日、見たようにレビ記19章20章で列記されているおきては、今の日本などでは法律に触れるものの方が、はるかに少ないのです。

 しかし、イエス様が地上に来られた二千年前のイスラエルの人たちは、イエス様に、「罪のないものから、石を投げなさい。」と言われて、自分には罪がないと言い張るようなものはいませんでした。すでに、レビ記の時代から千五百年をへだてて、みんな一所懸命律法を守ろうとしている社会であって、なお、罪びとだと認めたのです。
  

☆☆☆☆

 神はイスラエルの民を大変慈しんでおられました。それは、彼らを、自分たちは他の民族や国より秀でていると、まちがった選民意識を持たせるためではありません。

 何度も書いてきたように、聖書にも書かれているように、神は、アブラハムの子孫を通じて、楽園を追放された人類を、いつかふたたびご自分のところに連れもどそうとされたのです。
 そのために、たくさんの神のわざ(奇蹟)も現され、彼らを守って、エジプトから連れ出されたのです。そして、彼らがその神を礼拝し、従うかぎり、彼らを祝福しようと言われたのです。同時に、神の民にふさわしい律法をお与えになったのです。

「聖なるものとなる」のは、簡単なことではありませんでした。
 人間が神の前で完全になることはできないと、神ご自身もご存知でした。
 アダムとエバが罪を犯したとき、人間はエデンの園──神の守りの中から出てしまったのです。エデンの園の外は、悪魔の支配する世界です。
  このような世界では、どれほど完全になろうとしても、完全になることはできないのです。
 それを承知で、神は選びの民として、聖なるものになるようにと律法を下さったのです。


 パウロは、ローマ人への手紙3章20節で、次のように書いています。

 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

 しかし、神様は、パウロほどの人でも、このように呻吟するのをご存知だったでしょう。
「律法を守ることはできない。」
 その自覚が生まれたとき、人は自分自身で自分を救うことができないのを知り、ほんとうの意味で、神のみ前にひれ伏すからです。



posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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