2011年02月14日

Coffee Break173 自信家の青年(マタイの福音書19章16節〜22節)

 


 ある時、イエス様のところに、いかにも金持で教養もありそうな青年が、やってきて訊ねました。

「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらいいのでしょうか。」(マタイの福音書19章16節)

 この「裕福な青年の話」は、マルコの福音書、ルカの福音書にも採録されていますが、この話、現代を舞台にしても語れそうだと思われないでしょうか。
 また、どんな人の記憶にも、一人や二人、このような「格好よくて落ち度のない優等生タイプの人」が、記憶に残っていないでしょうか。
 もし、あなたが、自分は豊かで、能力があり、いつも人から評価されていると思ってきたなら、彼(彼女)は、あなた自身かもしれません。

 この青年は、金持のうえに、頭も人柄も良く、人望もあり、社会的立場もあったのでしょう。自分にとても自信があったので、人生にも自分にも、大いに満足していたにちがいありません。
 パーフェクトな彼は、とうぜん神様に祝福されるべきだと思っていました。つまり、「永遠のいのち」をもらうことができる。もし、まだ、なにか足りないことがあっても、自分なら、それを指摘してもらえば、「できる」と考えていました。

 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて私に訊ねるのですか。良い方はひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」(17節)
 彼は「どの戒めですか」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。(18節)
 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(19節)
 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何かまだ欠けているでしょうか。


 イエス様は、「良い方(神様)の目に正しいことをしなさい」と言われたのです。律法を完全に守りなさい。と言われた青年は、「どの戒めですか」と聞き返すのです。というのも、彼には自信があったからです。
 そこで、イエス様は十戒を挙げられました。青年は、待ってましたとばかり、「そんなことはみな、守っております。何かまだ欠けているでしょうか。」
 じつは、彼は最初から、「そんなことはみな守っております。何かまだ欠けているでしょうか」と、言いに来たのがわかります。イエス様とそのまわりにいる群集に、立派な自分を誇示したかったのです。

 
 イエスは彼に言われた。
「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(21節)
 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去っていった。この人は多くの財産をもっていたからである。(22節)



 ☆☆☆☆

 姦淫の女に石を投げようとした群集は、イエス様の「罪のないものから石を投げなさい」のことばに、一人また一人と石を置いて、その場を立ち去ったのです。(ヨハネの福音書8章3節〜9節)
 当時のユダヤ人が律法を大切にしながらも、律法はなかなかまっとうできないことであるのは、ほぼ了解事項だったのでしょう。
 偶像を拝んだり、子どもをいけにえに差し出したり、親をののしったり、占いや霊媒師のところに行くなど、目に見える律法違反はなくても、神の前にわずかな偽りもないこと、ほんとうの意味で隣人を愛すること、他人を中傷しないことなど、すべてを完全に行なえる者はいないのです。

 自信家の青年に足りないのは、「自分が、神の目からごらんになったらとうてい足りないものである」と、知ることでした。
 「隣人を愛しなさい」を実行していると思っていても、「財産を施しなさい」と言われてさえ、できなかったのです。もっとも、財産を売って貧しい人に施して戻ってきたからといって、「さあ、永遠のいのちの切符を下さい」と挑戦的に手を出すような人に、神は憐れみをかけられるでしょうか。

 イエス様は、おっしゃったのです。
 
 あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。その上で、わたしについて来なさい。



posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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