2011年02月15日

Coffee Break174 祭司の条件・死者から離れる(レビ記21章)





 レビ記21章22章は、ふたたび祭司に対する戒めです。

 祭司は、神聖政治国家にあって、神と民との仲立ちをする、大変神聖で重要な役割を担う人でした。ですから、幕屋での仕事──祭祀儀礼やその手順の綿密で厳格な手続きが、こまごまと記されています。
 アロンの二人の息子が祭壇に火をささげる際に、火がからだに燃え移って焼死した例からもわかるように、わずかな手違いも許されなかったのです。(レビ記10章1節2節)


 祭司は、私生活にも厳しく律法のわくが嵌められました。

 まず、祭司は、縁者の死に際して、一般の民と同じ振る舞いは許されませんでした。

 縁者のうちで死んだもののために、自分の身を汚してはならない。(レビ記21章1節)
 ただし、近親の者、母や父、息子や娘、また兄弟の場合は例外である。(2節)
 近親の、結婚したことのない処女の姉妹の場合は、身を汚してもよい。(3節)
 姻戚の縁者として身を汚し、自分を冒涜することになってはならない。(4節)


 現代の私たちにとっても、葬儀はとても大切な人生の通過儀礼です。もっとも、最近では、葬儀も多様なものになったようです。身内だけの葬儀。宗教色のない葬儀。「生前葬儀」などというものもあるそうです。

 もともと村社会であった日本でも、葬儀や結婚式は、社会とその家と本人にとって、人生の一大行事でした。縁者や村中の人が集まり、総出で弔いや祝言のために手伝い、同時に、村中の人に悲しみや喜びのご馳走や酒をふるまうときでもありました。
 これに参加しないなど、ありえないことでした。また、十分な振る舞いができない家は、蔑まれることもありました。


 素朴な同族社会、村社会であった古代イスラエルも、同じであったことでしょう。
 創世記に出てくるアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの死に対して、近親者、とりわけ喪主とも呼べるような子供たちは、みな死者を葬っています。ヤコブの葬儀など、何十日にもわたる盛大なものでした。(創世記50章7節〜14節)
 イスラエル人でも、一般の人たちにとっては、礼儀を尽くして死者を送るのは、当然のことだったでしょう。それが、シナイで十戒をいただき、神との契約を交わした後、祭祀職の人たちには弔いが制限されたのです。
 祭司は、弔いに交わって死者と触れ、身を汚してはならないとされのです。ただ、ほんとうの近親者の葬儀は、例外であるというのです。

 その場合も、死者を悼んで、頭を沿ったり、ひげの両端をそり落としたり(悲しみを表す風習だった?)してもいけない。からだにどんな傷もつけてはならない。(5節) 哀悼、激しい嘆きを表してはならないのです。

 理由は、彼らは自分の神に対して聖でなければならない。また、神のみ名を汚してはならない。彼らは、主への火によるささげ物、彼らの神のパンをささげるからである。彼らは聖でなければならない。(6節)からです。


☆☆☆☆

 
 「死者に触れる」「死者を見送る」行為が、なぜ、「汚(けが)れ」なのでしょう。
 日本人の場合も、弔いに参加することは、「汚(けが)れ」ることだとされていました。葬式を忌み事と言いますし、死者を出した家の入口に忌中の張り紙を出します。
 塩が配られるのは、「汚れ」を払うためです。


 死者が、なぜ「汚れ」なのでしょう。

 これは、私の個人的な見解ですが、死は「神の御心でない現象」だから、ではないでしょうか。
 エデンの園に置かれたとき、人は永遠に生きるものでした。ほかの動物も、「産めよ増えよ。地に満ちよ」と祝福された存在であって、死については語られていません。
 エデンの園から、悪魔の支配する世界へ追放された時、人間に「死」や苦しみが入ってきたのです。
 それは悪魔の仕業でした。神様は、このような悪魔の支配下にある人間をも、気にかけておられたようです。もともと、人間は神の愛の対象として、造られたからです。また、人は神と語り合うように造られているのですから、神の御許を追放されても、神を慕う気持ちはなくなりません。
 アダムとエバの息子カインとアベルが、彼らの収穫物のなかから、ひつじの初子と農産物の初物を神にささげたのは、彼らの心に、神様を慕い、できればお話したいという気持ちがあったからです。(創世記4章2節〜4節)
 神も、そのような人間の心をお喜びになったのです。ただ、エデンの園で、最初アダムとエバが、神様と共にいた時のような、へだてのないまじわりはできませんでした。

 悪魔(罪)が、神と人間をへだててしまったからです。

 神のおられるところは聖域で、モーセがホレブで神から声を掛けていただいたときでさえ、近づこうとすると、「履物を脱げ」と命じられたのです。(出エジプト記3章5節)

 神は近づくものに対し、可能なかぎり、聖さを求められたのです。

 死の存在する世界──悪魔の支配する世──と、神のいる世界──神の国(エデンの園)を行き来するのは、それほど、大きな障壁があるということだと思います。 

 神はご自分に近づく人間には、聖さをお求めになり、民の代表として神と会う祭司にとくに厳しい戒律をお与えになったのです。

 さいわいなのは、今はこのような戒律や隔てがなくなったことです。
 レビ記から千五百年後、人の姿を取って世に来られた神、イエス・キリストが十字架の上で、どんなささげ物ものにも比べようのない大きな犠牲となって、私たちの罪を精算してくださったのです。
 それで、私たちはイエス様を通して、いつでも、どこでも(幕屋や教会堂のなかでなくても)、神様の前に出て、神様とお話しができるのです。 



posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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