2011年02月19日

Coffee Break178 ささげ物規程(レビ記22章17節〜24節)




 祭司の仕事は、ささげ物を切り離しては考えられませんでした。十戒をいただいて契約の民となったイスラエルの民は、神の前に犠牲をもたずに出るなど、ありえないことでした。
 レビ記は、最初の1章からささげ物規程が始まります。幕屋や祭司儀礼、祭司の資格などと同じくらい、ささげ物が大きな意味をもっていたからです。

 だれでも、イスラエルの家の者、またはイスラエルにいる在留異国人がささげ物をささげ、誓願のささげ物、あるいは進んでささげるささげ物として、全焼のいけにえを主にささげるなら、(レビ記22章18節)
 あなたがたが受け入れられるためには、それは牛、羊、あるいはやぎのうちの傷のない雄でなければならない。(19節)
 欠陥のあるものは、いっさいささげてはいけない。それはあなたがたのために受け入れられないからである。(20節)


 ささげ物の動物が「傷のないもの」との規程は、レビ記に最初から繰り返し、述べられていることです。「傷のない雄牛」(レビ記1章1節)「子羊またはやぎの傷のない雄」(10節)、同様のことばは、(3章1節、6節)、(4章3節、23節、28節、32節)、(5章15節、18節)、(6章6節)、(9章2節、3節)にも、繰り返されています。


 人が特別の請願を果たすため、あるいは進んでささげるささげ物として、牛か羊の中から和解のいけにえを主にささげるときは、それが受け入れられるためには傷のないものでなければならない。それにはどのような、欠陥もあってはならない。(22章21節)

 傷の種類も列記されています。

 盲目のもの、折れたところがあるもの、傷のあるもの、うみの出るもの、湿疹のあるもの、かさぶたのあるもの(22節)
 足が伸びすぎているか、または、なえ縮んでいるもの、(23節)
──進んでささげるささげ物の場合は可。
 こうがんの押しつぶされたもの、砕けたもの、裂かれたもの、切り取られたもの(24節)

 こうがんについては、去勢と関係があります。動物を去勢するのは古くから牧畜民の間で行なわれていたことでした。発情期がなくなり、また、気性が穏やかになるためです。肉もやわらかくなるのだそうです。


☆☆☆☆

 ささげ物の動物は、自分の罪の身代わりでした。人は神にたいして罪を犯して御前(みまえ)を追放されたのですから(創世記3章23節) 神の御前に出るためには、その罪の精算をしなければなりません。
 本来なら、死にも価する罪だったのですから、許していただくためには、自分のいのちを支払いに当てなければなりません。しかし、神は動物のささげ物で良いとして下さったのです。

 ですから、ささげ物は可能なかぎり、完全なものです。一番高価で、出すのが惜しいような良いものです。
 「もう処分しても良い」と思えるような傷や病気のあるもの、老いて役立たなくなった雄牛などをささげるなど論外です。

 ささげる本人が幕屋の入口まで引いてきた動物を、自分で殺すのですが、その前に祭司の前でその動物の頭に手を置きます。(参照、レビ記1章4節、3章2節8節13節、4章4節15節24節29節33節)

 それは、自分と動物のいのちが同一のものであるとの意味です。いのちは血にあると考えられたため、動物は必ず血をそそぎ出して殺さなければなりませんでした。また、人間は、動物の血を食べることを固く禁じられていました。
 いのちをささげて罪の贖いをするのに、人間が食べてしまっては贖いになりません。

☆☆☆☆


 現代、私たちのいわゆる偶像の世界にも、お供えの習慣はあります。お盆前になると、スーパーなどでも仏事用の菓子が売られます。花屋さんでは「仏事用の花」が、年中売られています。
 私の育った家や親戚、隣近所では、仏壇以外に神棚がありましたが、それぞれ独特の供え物をしていたと思います。良い物を供えるのは事実で、ごはんなら炊きたての、一番上の湯気の上がっている部分。果物でもお菓子でもいちばん良いところをお供えしました。もちろん、人間がいただく前に供えるのです。人間が食べてしまってから、「これ余ったから仏様に」、なんてことはないのです。
 若い人なら、初めてのサラリーを仏壇に供えました。ただし、仏様はお使いになりませんから、結局は「下げる」のですが。

 私個人の考えですが、なにか「ありがたい方」に感謝して、一番良い物を供えるというこのような習慣や感覚は、悪くないと思います。ただ、こうした伝統的宗教には、お供えにしても意味づけがはっきりしていなかったと思います。霊的なものに対してあいまいなために、日本人全体が、「いわしの頭も信心だよ」といった無宗教的な空気の中に流され、唯物論的価値観に埋没していったような気がします。
 日本では、キリスト教がふるわないと言われますが、仏教や神道も、信徒や門徒、氏子を失いつつあるのではないでしょうか。
 学校の教師をしている人が話していましたが、うっかり「いただきますと言いなさいと指導できない。宗教だと言われる」。
 食事に感謝することさえ、「なんで? 私の権利じゃない」というなら、これこそ怖ろしいことです。


☆☆☆☆

 聖書では、犠牲の動物の意味が、くどいほど説明されています。定められたささげ物が、定められた場所で、定められたようにささげられなければ、神に近づくことも、罪を許していただくことも、願いを祈ることもできません。
 
 旧約聖書の時代千五百年ほどの間に、一体どれほどの動物がほふられ、ささげられたことでしょう。動物のささげ物は一回限り有効なので、一人の人が毎年のように動物をささげました。


 それは、イエス・キリストが「犠牲の羊」となって十字架に架かり、全人類の罪を一度に清算してくださったときまで、続けられなければならなかったのです。




posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。