2011年02月24日

Coffee Break183 神を冒涜した男(レビ記24章)




 さて、イスラエルの女を母とし、エジプト人を父とする者が、イスラエル人の内に出たが、このイスラエルの女の息子と、あるイスラエル人とが宿営の中で争った。(レビ記24章10節)
 そのときイスラエルの女の息子が、御名を冒涜してのろったので、人々はこの者をモーセのところに連れてきた。(11節)
 人々は主の命令をまって彼らにはっきり示すため、この者を監禁しておいた。(12節)
 そこで、主はモーセに告げて仰せられた。(13節)
「あの、のろった者を宿営の外に連れ出し、それを聞いたものはすべてその者の頭に手を置き、全会衆はその者に石を投げて殺せ。(14節)



 レビ記は、シナイの荒野で、神からのおきてがつぎつぎと布告されている時期のものです。
 やっと幕屋が完成し、祭祀儀礼が祭司によって行なわれたばかりのころ、また、思いがけない事件が起こります。民の一人が、喧嘩をしていて、神を冒涜することばを吐いたのです。
 これは、十戒の三番めの戒め、
あなたは、あなたの神、主のみ名をみだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない、への違反でした。

 争いの原因がなんであれ、彼が神を冒涜したのが咎められたのです。彼の父がエジプト人であったことが、咎められたのではないでしょう。

 主の裁決は厳しいものでした。
 
 主のみ名を冒涜するものはかならず殺されなければならない。(16節)

 イスラエル人は、主がモーセに命じられた通り、彼を宿営の外に連れ出して石を投げて殺したのです。

☆☆☆☆

 シナイで、神から十戒やレビ記の戒めをいただいている時のイスラエルは、文字通りの神権政治国家です。
 ふつう国家と言えば、領土があって、その中に民がいます。そういう目に見える領土に一度でも入れられなければ、共通の言語や文化や習慣を持った「国民」も形作られません。
 一度、共通の言語や文化や習慣をもてば、仮に住む場所を移されても一つの国民としての枠を保つことができます。後に、捕囚の民となったイスラエル人、世界に離散したと言われるユダヤ人が、それでも帰国をして国を再興したのは、ユダヤ人というアイデンティティを持った国民が形作られていたからです。

 けれども、アブラハム・イサク・ヤコブの神によって、エジプトから導き出されたばかりのイスラエル人には、領土がないだけではありません。奴隷から解放されたばかりで、自分たちの文化や精神的支柱も十分ではなかったのです。
 神はこのような民に、契約を与え、彼らが神中心のしっかりした祭祀国家のもとで、民族の自覚をもつように命じられたのです。いわば、神は彼らに戒めをお与えになっただけではなく、「神支配の国」という領土をお与えになったのです。
 神・主ご自身が、彼らの領土であり、国境であったのです。

 このような状況で、神を冒涜することは、この神政政治国家を内部から崩壊させるものでした。国境を破って、敵を導きいれるにも等しい行為だったのです。

 
 「神を冒涜した男」の話が出てくるのは、イスラエルの民がエジプトを出て、やっと一年後の世界。幕屋と祭司の制度、もろもろの戒めやおきてが民に与えられたばかりのころです。神中心の政治と社会の秩序を保って、これから、荒野をとおり、さらにカナンで、見える敵と戦いながら、「約束の地」を勝ち取っていかなければなりません。 
 ですから、レビ記は、その秩序を犯すものに厳しい処罰を下しています。祭司アロンの二人の息子ナダブとアビフが火のささげ方の手違いで、神の怒りに触れて死んだのを思い出してください(レビ記10章1節2節)。上は祭司から、そして一般の民に至るまで、神は、神を冒涜する者に厳罰で臨まれたのです。


 このあと、レビ記26章では、偶像礼拝への戒め、安息日を守ることへの戒めが、あらためて繰り返されます。そこには、神に従ったときの報いと、聞き従わなかった時の神の怒りが具体的に、書きしるされています。



posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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