2011年02月25日

Coffee Break184 安息日と安息年(レビ記25章)




 安息日はすべての人が守るべき戒めでした。六日間働いて七日目に休みなさいと十戒に記されています。それは、主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。(出エジプト記20章11節)からでした。

 
 神が六日間で創造のみわざを終え、七日目に休まれたというのは、あくまで当時の人にわかりやすく語られたことです。イエス様が、「人の子は安息日にも主です。」(マルコの福音書2章28節)と語られたように、神様がお休みになることなどないのです。

 安息日は、人に対しては、奴隷も在留異国人も守るべき戒めでしたが、じつは家畜も休ませたのです。家畜も生きたものであり、安息(休息)を取らせて元気を回復させよとの命令なのです。

 そればかりではありません。
 神は、土地についても安息年を守るよう、戒めておられます。

 わたしが与えようとしている地にあなたが入ったとき、その地は主の安息を守らなければならない。(レビ記25章2節)
 六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。(3節)
 七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。(4節)
 

 ☆☆☆☆


 土地は続けて使うと、疲弊して連作障害を起こします。土地を休ませるのも、理に叶っているのでしょう。神様の意図されるところは、人も家畜も土地も休みを取って、その疲れを回復させなさいということです。

 問題は、一年間、種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしてはいけないと聞いた人たちの心配です。
 小麦もぶどうも収穫できなければ、翌年は何を食べたらいいのですか!と、思うのはとうぜんです。
 今の日本のように物質的に安定した社会にあっても、失業のため給料が入ってこないとなると、暮らしの心配が押し寄せて、その休日を「のんびり楽しむ」わけにいかないのではないでしょうか。まして、当時の人は目先の収穫で、その日その月その年を、なんとかしのいでいたのです。


 あなたがたが、もし「種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは七年目に何を食べればよいのか」と言うなら、(レビ記25章20節)
 わたしは、六年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、三年間のための収穫を生じさせる。(21節)
 あなたがたが八年目に種を蒔く時にも、古い収穫をなお食べていよう。九年目まで、その収穫があるまで、なお古いものを食べることができる。(22節)


 また、土地を安息させている年(7年目)に、種を蒔かないのに自然に生えた作物、枝をおろさないのに実をつけたぶどうなどは、食物として食べてもよかったのです。
 それを自分だけの物にするのではなく、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在留している居留者のために、また、あなたの家畜とあなたの地にいる獣とのために、その収穫を食物にするよう、但し書きがあります。


 神の御名を冒涜したものに石打の刑を命じられる神・主の厳しさ(レビ記24章)と、このように地上のすべての者を心配し、細かいところまで、配慮される神様の対比に驚かれるでしょうか。じつは、これが、天地を創造された神様の、聖と愛の性質の現れなのです。



posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。