2011年02月28日

Coffee Break187 偶像礼拝を論じる(新約聖書、使徒の働き17章)

 


 「偶像礼拝の禁止」は、十戒の二番目の戒めになっています。神様が一番目の戒め「他の神々への信仰」とともに、厳しく戒めておられるのを見て、私たち日本人クリスチャンはとても心が波立つのです。
 私たちの社会には、「偶像」がとても多くて、だれでも、それに接触する機会が多いのです。神社や寺にわざわざ行かなくても、葬式や結婚式、法事や神事が、向こうからやってくるのです。曽祖父の代から何代もクリスチャンで、親戚も友人も全部クリスチャンというような人は別ですが、そんな人は、めったにいないでしょう。

 私がまだ、クリスチャンになる前、親戚の葬儀で、その家の嫁のお母さんが焼香を避けて、座っていらっしゃるのを見ました。クリスチャンだから焼香をしないらしいと聞いて、「そんなものかしら」と当時は思いました。また、私より先に救われた友人が、親戚の結婚式で、神主さんの御祓いを拒否したところ、のちに花嫁の父である実の弟さんと、絶交になってしまったと聞きました。
 その方たちは信仰に則って、毅然とした態度をとられたのだと思います。けれども、私はなんとなく釈然としない感情を抱きました。というのも、仏式の葬式や神式の結婚式に出ている人たちのほとんどが、そもそも「礼拝する」信仰心がない人たちだからです。葬式仏教、結婚式・建前用神道などと悪口を言われてきた日本の伝統的宗教は、じっさい生活の方便だと思っている人が多いのです。だのに、クリスチャンだけが、その方便にすぎないものに対して、真剣に「物申している」感じがしたのでしょう。


 ☆☆☆☆

 さて、アテネで二人を待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。(使徒の働き17章16節)
 そこで、パウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。(17節)
 エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っていたが、そのなかのある者たちは、「このおしゃべりは、何を言うつもりなのか」と言い、ほかの者たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい」と言った。パウロがイエスと復活を宣べ伝えたからである。(18節)
 

 ここでのパウロの気持ちは、とてもよくわかります。彼はユダヤ教徒のなかでも、とりわけ優等生的なエリートユダヤ教徒だったのです。
 パウロも回心するまでは、ナザレのイエスを信仰する人たちを憎んでいましたが、しかし、ユダヤ国内にいる分には、「偶像」を拝むものはいなかったのです。
 ところが、異邦人宣教に重荷をもち、アテネまで来て見ると、ギリシャ神話の神々でいっぱいです。彼らと論じあっても、なかなかかみ合わなかったのでしょう。

「外国の神々を伝えているらしい」
 このことばは、現代でさえ、イエス様をお伝えしようとする私たちにも、向けられることばです。イエス様のことを、「キリスト教の本尊」と言ったお年よりもおられたと聞いたこともあります。
 
 このような方々に、天地を創造された神をお伝えするその方法を、さいわい、パウロが二千年前に示し、聖書に残してくれています。

 アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心のあつい方々だと見ております。(17章22節)
 私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、「知られない神に」と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。(23節)
 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。(24節)
 


 このあと、31節までのパウロの説明は、私たちが模範として使わせてもらってもよいのではないでしょうか。じっさい、「知られない神」、天地を創造された神様は、このすばらしい国、日本にもいらっしゃるに違いないからです。



posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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