2011年04月11日

Coffee Break228 バラムのろば2(民数記22章21節〜35節)

 


 翌朝、バラムはバラクの使者たちと、ろばに乗って出かけました。ところが、彼が出かけると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった。のです。

 ろばは主の使いが抜き身の剣を手にもって道に立ちふさがっているのを見たので、ろばは道からそれて畑の中に行った。そこでバラムはろばを打って道に戻そうとした。(民数記22章23節)

 しかし、主の使いは、両側に石垣のあるぶどう畑のあいだの狭い道に立っていた。(24節)

 ろばは主の使いを見て、石垣に身を押しつけ、バラムの足を石垣に押し付けたので、彼はまた、ろばを打った。(25節)

 主の使いは、さらに進んで、右にも左にもよける余地のない狭いところに立った。(26節)
 ろばは、主の使いを見て、バラムを背にしたまま、うずくまってしまった。そこでバラムは怒りを燃やして、杖でろばを打った。(27節)

 すると、主はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」(28節)

 バラムはろばに言った。「おまえが私をばかにしたからだ。もし、私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ。」(29節)

 ろばはバラムに言った。「私は、あなたが今日のこの日まで、ずっと乗ってこられたあなたのろばではありませんか。私が、かつて、あなたにこんなことをしたことがあったでしょうか。」 彼は答えた。「いや、なかった。」(30章)



 聖書箇所をそのまま引用したのは、要約するのはもったいないような楽しい箇所だからです。じつは、とても、深遠な意味があるのですが、このまま読んで、後でじっくり考えさせられるところです。

 私たちは、ろばに見えているものがバラムに見えないこと、また、(主がろばの口を開かれたので)ろばが話すのを、「愚にもつかない話」と笑えるでしょうか。
 じっさい、ろばが口を聞き、正当な理由で反論したので、バラムは、天地がひっくりかえるほどのショックを受けたのです。

 そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。(31節)


☆☆☆☆

 創世記21章19節には、サラの女奴隷ハガルが息子イシュマエルとともに、アブラハムのところを追い出されて砂漠をさまよい、水が尽きて死のうとしているところに、神が声をお掛けになる場面が描かれています。(21章14節〜19節)

 神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。


 また、第二列王記6章8節〜18節にも、主によって、「目が開かれる」エピソードが出ています。
 いずれも、主がご自身の強い意思を、人間にお示しになった箇所です。人間の側から考えると、せっぱつまった人間の目が開かれる時、神のわざが見えるのです。

 イスラエルの民の間では禁止されている霊能者ですが、さすがに評判の高いバラムは、そのような場面の持つ意味がわかったのでしょう。
 主の使いを見て、ひざまずいたのです。

 主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたは、あなたのろばを三度も打ったのか。敵対して出てきたのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対を向いていたからだ。(32節)

 ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を巡らしたのだ。もしかして、ろばはわたしから身を巡らしていなかったら、わたしは今はもう、あなたを殺しており、ろばを生かしておいたことだろう。」(33節)

 バラムは主の使いに申し上げた。「私は罪を犯しました。私はあなたが私をとどめようと道に立ちふさがっておられたのを知りませんでした。今、もしあなたのお気に召さなければ、私は引き返します。」(34節)


 主の使いのお返事は、しかし、「この人たちといっしょに行け。」と言うものでした。





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2011年04月12日

Coffee Break229 のろいと祝福(民数記22章36節〜23章10節)




 バラムが来たと聞いて、バラクは国境のアルノンのイル・モアブという所まで、バラムを迎えに出てきました。

 バラクはバラムに言った。
「私はあなたを迎えるために、わざわざ使いを送ったではありませんか。なぜ、すぐ私のところに来てくださらなかったのですか。ほんとうに私にはあなたを手厚くもてなすことができないのでしょうか。」(民数記22章36章)
 バラムはバラクに言った。
「ごらんなさい。私はいまあなたのところに来ているではありませんか。私に何が言えるでしょう。神が私の口に置かれることば、それを私は語らなければなりません。」(38節)


 このやり取りは、いまの日本人の感覚からすると、ちょっとおもしろいですね。招待するバラクは、客の到着が遅いので、やきもきした気持ちを、「なぜ遅れたのですか。私が歓待するのを信じることができなかったのですか。」と言っているのです。一方、招待を受けた側(バラム)は、「私は今ここに来ているではありませんか。これ以上なにが言えるのですか。」
 暗に、神様の指示通りに行動したのだと、ほのめかしています。

 現代の私たちなら、理由はなんであり、次のような社交辞令であいさつすることでしょう。
「いらっしゃるのが遅いので、道中何か悪いことでもあったのかと心配しました。お待ち申しておりました」
「いえいえ。こちらこそ、来るのが遅れて申しわけありません」


☆☆☆☆

 バラクは準備していた場所に、バラムを連れて行きました。
 そこには、すでに犠牲の牛と羊とが用意されていました。バラクはそれをいけにえとしてささげ、バラムやバラクの家臣たち(モアブのさばきつかさたち)にもふるまいました。
 この犠牲のささげ方は、イスラエルの祭祀儀礼では、「和解の犠牲」に近いように見えます。全焼のいけにえなら、煙になるまで焼き尽くすので食べることはできないからです。
 犠牲をささげる儀式は似ていても、イスラエルの祭祀儀礼ほど厳格な決まりはなかったのかもしれません。

 翌朝、バラクはバラムを、バルテ・バアルと呼ばれる丘の上に連れて行きました。そこからは、モアブの平原に宿営しているイスラエルの民が見えました。

 バラムはバラクに、七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊をここに用意してくださいと言いました。(23章1節)
 バラクはもちろん、言われたとおりのものを用意しました。そこでバラムは一つの祭壇に一頭の雄牛と雄羊をささげます。
 その上で、バラクに、「あなたはあなたの全焼のいけにえのそばに立っていなさい。たぶん主が現れて下さると思います。そうしたら、主の言われることをお話ししましょう」と言って、自分は裸の丘の上に上って行くのです。
 
 神がバラムに会われたので、バラムは神に言った。
「私は七つの祭壇を作り、ぞれぞれの祭壇の上で、それぞれ雄牛一頭と雄羊一頭をささげました。」(23章4節)
 主はバラムの口にことばを置き、そして言われた。
「バラムのところに行き、あなたはこう言わなければならない。」(5章)



 バラクは彼の家臣たちと、全焼のいけにえのそばに立って待っています。

 戻ってきたバラムは、口を開きました。
 神がバラムの「口に置かれた」ことばは、バラクにとっては思いもよらない「託宣」でした。
 バラムはイスラエルをのろうどころか、祝福したのです。
 
 

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2011年04月13日

Coffee Break230 バラムの託宣(民数記23章13節〜30節)


 

 バラクがバラムを招いた理由は、イスラエルをのろってもらうためでした。モアブの近隣諸国との戦争に勝って、なだれのようにモアブにも入り込んできたイスラエルの民は、バラクに取って脅威でした。一戦を交えて勝てばいいですが、負ければエモリやパシャンの二の舞になります。
 霊能者バラムがどれほど有名で、謝礼が高くても、のろってもらって決着が着くなら、その方が良いのです。

「私はあなたが祝福するものは祝福され、あなたがのろう者はのろわれることを知っている。」(民数記22章6節)とバラクが言うのです。
 バラムの霊能者としての名声は、かなりのものだったのでしょう。

 ☆☆☆☆


 これは、私の推測ですが、ふつうバラムのようなフリーの霊能者は、祝福やのろいをクライアントの求めに応じて、祈ったのでしょう。
 それに対して、エジプトの魔術師や占星術師は、雇い主パロのために仕事をしました。他にも特定の王様や国に雇われているものが、たくさんいたに違いありません。

 バラムのような霊能者は、クライアントの都合の良い託宣をするから人気があったのでしょう。
 バラクに招かれたかぎり、バラムはイスラエルをのろい、モアブを祝福しなければならないことはわかっていました。そんなことは、バラムにとって簡単なことだったはずです。

 ところが、イスラエルへののろいは、これまでのようには行きませんでした。イスラエルの神が、バラムに働きかけて、彼の思いもよらない託宣を言わせるのです。


 バラクはバラムをべつの場所に連れて行って、イスラエルの民を見せます。そこからもう一度、のろってもらおうとするのです。

 ところが、この第二の地点でのバラムの託宣は、次のとおりでした。

 立て、バラクよ。そして聞け。
 ツィボルの子よ。私に耳を傾けよ。
 神は人間ではなく、偽りを言うことがない。
 人の子ではなく、悔いることがない。
 神は言われたことを、なさらないだろうか。
 約束されたことを成し遂げられないだろうか。
 見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。
 神は祝福される。私はそれをくつがえすことはできない。
 ヤコブの中に不法を見出さず、
 イスラエルの中にわざわいを見ない。
 彼らの神、主は彼らとともにおり、
 王をたたえる声が彼らのなかにある。
 彼らをエジプトから連れ出した神は、
 彼らにとって野牛の角のようだ。
 まことに、ヤコブのうちにまじないはなく
 イスラエルのうちに占いはない。
 神のなされることは、
 時に応じてヤコブに告げられ、
 イスラエルに告げられる。
 見よ。この民は雌獅子のように起き、
 雄獅子のように立ち上がり、
 獲物を食らい、
 殺したものの血を飲むまで休まない。(民数記23章18節〜24節)


 バラクはバラムに言った。「彼らをのろうことも、祝福することもしないで下さい。」(25節)

 バラクの悲鳴が聞こえてくるようです。
 当のバラム自身も、どうにもなりません。

「私は主が告げられたことを、みな、しなければならない、とあなたに言ったではありませんか。」(26節)

 バラクはあきらめません。

「さあ、私はあなたをもう一つ別の所へ連れて行きます。もしかしたら、神の御目にかなって、あなたは私のために、そこから彼らをのろうことができるかもしれません。」(27節)
 バラクはバラムを荒地を見おろすベオルの頂上に連れて行った。(28節)
(ベオルという山の所在場所は、現在では不明のようです。ただ、そこからなら、宿営しているイスラエルの民が良く見えたと考えられます。モアブの北、ネボ山との解説もあります。)

 イスラエルの民の全貌が良く見えれば、バラクにとってそれがどれほどの脅威かわかる、とバラクは思ったのでしょう。
 バラムはもちろん、クライアントの気持ちはよくわかりました。それで言いました。

「私のためにここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊をここに用意してください。」(29節)
 バラクはバラムの言ったとおりにして、祭壇ごとに、雄牛と雄羊とを一頭ずつささげた。(30節)



 いよいよ三度目の託宣です。





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2011年04月14日

Coffee Break231 託宣と預言(民数記24章)




 バラムはイスラエルを祝福することが主の御心にかなうのを見、これまでのように、まじないを求めに行くことをせず、その顔を荒野に向けた。(民数記24章1節)
 バラムが顔を上げて、イスラエルがその部族ごとに宿っているのをながめたとき、神の霊が彼の上に臨んだ。(2節)


 バラムはさすがに霊能者です。自分にイスラエルの神が働いて、二度までもクライアントの求めと違う託宣が口から出てくるのが、どういうことなのか悟ったのです。
 彼は、自分の都合の良い祈りをやめて、山の上から、主に守られているイスラエルの民の宿営地に視線をのばしました。その時、いよいよ強く神の霊がバラムに臨んだのです。

☆☆☆☆


 ベオルの子バラムの告げたことば。
 目のひらけた者の告げたことば。
 神の御告げを聞くもの。
 全能者の幻を見る者。
 ひれ伏して、目のおおいを除かれた者の
 告げたことば。
 なんと美しいことよ。
 ヤコブよ、あなたの天幕は。
 イスラエルよ。あなたの住まいは。それは延び広がる谷間のように、
 川辺の園のように、
 主が植えたアロエのように、
 水辺の杉の木のように。
 その手おけからは水があふれ、
 その種は豊かな水に潤う。
 その王はアガクよりも高くなり、
 その王国はあがめられる。
 彼をエジプトから連れ出した神は、
 彼にとって野牛の角のようだ。
 彼はおのれの敵の国々を食いつくし、
 彼らの骨を砕き、彼らの矢を粉々にする。
 雄獅子のように、また雌獅子のように、
 彼はうずくまり、身を横たえる。
 だれがこれを起こすことができよう。
 あなたを祝福するものは祝福され、
 あなたをのろう者はのろわれる。(民数記24章3節〜9節)



 このまま細かい注釈なしで読んで、バラムがイスラエルを手放しで祝福しているのがわかります。 最後の2行は、アブラハムが始めて主の召しを受けた時、主が仰せになった約束のことばと同じです。(創世記12章3節)
 異教の王(領主)であるバラクも、このような祝福の言葉の意味がわからないはずは、なかったのでしょう。

 バラクは、三度まで、イスラエルを祝福したバラムに怒りを燃やします。

「今、あなたは自分のところに下がれ。私はあなたを手厚くもてなすつもりでいたが、主がもうそのもてなしを拒まれたのだ。」(11節)

 しかし、バラムも高名な霊能者としてのプライドがありました。


「私はあなたがよこされた使者たちにこう言ったではありませんか。(12節)
『たとい、バラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、主のことばにそむいては、善でも悪でも、私の心のままにすることはできません。主が告げられること、それを私は告げなければなりません。』
今、私は私の民のところに帰ります。さあ。私は、この民が後の日にあなたの民に行なおうとしていることをあなたのために申し上げましょう。」(13節)


 バラムは、続けて、託宣をのべるのですが、それはもはや、祝福を越えて預言でした。
 祝福されたイスラエルが地に増え広がり、ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つものの脳天を打ち砕く──(15節〜24節)と言うのです。


 バラムは帰って行きました。バラクもまた、帰途についたのです。二人は袂(たもと)を分かったのです。
 モアブはこうして、戦闘を諦めたかのように見えました。




 
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2011年04月15日

Coffee Break232 バアル・ペオル(民数記25章1節〜8節)


 

 モアブとは、戦闘を交えないですみそうでした。
 戦わずして立場が守れるなら、それが最善にちがいありません。イスラエルはエモリの地ヤゼルの近くに、そのままとどまっていました。

 しかし、イスラエルを潰そうとする誘惑は、さまざまな方法で近づいてきます。民はモアブの地に住んでいたのです。その結果、その土地の女たちと仲良くなるものが出てきました。
 ただ、商売や交易で付き合うのではありません。男と女が出会うと、もっと深いところまで立ち入ってきます。

 イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。(民数記25章1節)
 娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。(2節)


 モアブの女と寝た男たちは、女に誘われるままモアブの神バアル・ペオルを拝んだのです。これは、十戒の一番目の戒め「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」
二番目の戒め「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」に対する重大な違反でした。

 「異教徒との結婚」(Coffee Break204)の箇所で、私は、シナイ契約の前には、イスラエル人と異教徒との結婚もあったこと、それも無名の庶民ではなく、モーセやヨセフやヤコブ、イサクでさえ、相手は同じ神を拝んでいた女ではなかったと書きました。
 シナイ契約までのアブラハム・イサク・ヤコブの神は、異教徒との結婚に、案外寛大であったと、言えるのです。


 こうしてイスラエルは、バアル・ベオルを慕うようになったので、主の怒りはイスラエルに対して燃え上がった。(3節)
 主はモーセに言われた。「この民のかしらたちをみな捕らえて、白日のもとに彼らを主の前でさらし者にせよ。主の燃える怒りはイスラエルから離れ去ろう。」(4節)
 そこでモーセはイスラエルのさばきつかさたちに言った。「あなたがたは、おのおの自分の配下のバアル・ベオルを慕った者たちを殺せ。」(5節)


 モーセとイスラエル人の全会衆は、主のことばを聞いて泣きました。犯した罪の大きさを悔い改め泣いていたのでしょう。

 その時、ひとりのイスラエル人が、その兄弟たちのところにひとりのミディアン人の女を連れてやってきた。(6節)
 祭司アロンの子エリアザルの子ピネハスはそれを見るや、会衆の中から立ち上がり、手に槍を取り、(7節)
 そのイスラエル人のあとを追ってテントの奥の部屋に入り、イスラエル人とその女とをふたりとも、腹を刺し通して殺した。するとイスラエル人への神罰が止んだ。(8節)
 この神罰で死んだものは、二万四千人であった。(9節)

  
 ☆☆☆☆ 

 
 何度も書きましたが、イスラエルは、神によって成り立っている神政政治国家です。当時の国は、どの国もその中心に、彼らの神がいたでしょうが、イスラエルはとりわけ強い絆で、神・主と結ばれています。神は、イスラエルの民の始祖アブラハム・イサク・ヤコブを愛と慈しみをもって育成されただけでなく、エジプトで奴隷となっていた彼らの子孫を、多大のふしぎと奇蹟で救い出し、導き、守り、モアブの地まで連れて来てくださったのです。
 さらに、カナンを与えてくださると約束してくださっているのです。
 神とイスラエルの民との間で結ばれたシナイ契約は、結婚の契約にたとえられるほど強いものでした。神は夫、イスラエルの民は妻でした。

 偶像礼拝は、たんなる外形的な儀式ではありません。他の神を拝むと言うのは、イスラエルの神以外の神との霊的な交わりを意味します。妻(夫)が他の男性(女性)と交われば、夫婦の信頼は損なわれ、家庭は崩壊します。同様に、神によって成り立っている国・イスラエルの民が、ほかの神と交われば、イスラエル国家そのものが崩壊してしまうのです。
 聖書がうらないや口寄せを禁じているのも、同じ理由からです。うらないや口寄せ、霊媒は、天地を創造されたイスラエルの神以外の霊との交わりなのです。


 彼らは、姦淫を犯すことが、自分たちの神さまをどれほど悲しませるか、どれほど神の怒りに触れることか、気がつかなかったのでしょうか。






 
 
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2011年04月16日

Coffee Break233 罰する意味(民数記 25章5節〜13節)

 


 主はモーセに言われた。「この民のかしらたちをみな捕らえて、白日のもとに彼らを主のさらし者にせよ。主の燃える怒りはイスラエルから離れ去ろう。」(民数記25章4節)

 イスラエル人の多くの男たちがミディアン人の女と仲良くなり、異教の神の前にひざまずいて礼拝しました。そこで、主は、民のかしら──つまり、彼らを束ねている十人、五十人、百人、千人の長(出エジプト記18章21節参照)の監督責任を問えと言われたのです。
「かしらたちを捕らえて、さらし者に」とは厳しいことばです。日本の武家社会なら、切腹ものだったかもしれません。ここでも、彼らはいのちを差し出さなければいけないのかもしれませんが、モーセの命令は、かしらたちに罪のある部下たちを殺させることでした。

 それにしても悲惨な話です。モーセもイスラエル人の全会衆も泣いたとあります。
 さらに、そのようなところに、一人のイスラエル人がミディアンの女と、手に手を取って戻ってきたのです。
 悲しみと怒りでいっぱいの祭司ピネハスは、そのようなふたりを見て槍を手に取り、刺し殺したのです。
 これは、イスラエルの神・主の気持ちを代弁する行為でした。

「祭司アロンの子エリアザルの子ピネハスは、わたしのねたみをイスラエル人の間で自分のねたみとしたことで、わたしの憤りを彼らから引っ込めさせた。わたしは、わたしのねたみによってイスラエル人を絶ち滅ぼすことはしなかった。(11節)
 それゆえ、言え。『見よ。わたしは彼にわたしの平和の契約を与える。(12節)
 これは、彼とその後の彼の子孫にとって、永遠にわたる祭司職の契約となる。それは彼がおのれの神のためにねたみを表し、イスラエル人の贖いをしたからである。』」(13節)


 ☆☆☆☆

 
 聖書の神は、人格神です。神なのに「人格」と言うのは、ことばの矛盾のように聞こえますが、たとえば、仏像のような伏目がちの穏やかな顔を神性の表れだと思いがちな日本人からすると、なんとも、喜怒哀楽がはげしいのです。
「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」と、みずから創造された動物や人に慈しみの視線を投げかけられる方が、聖書の神です。アダムとエバをエデンの園から追放するときに、毛ごろもを着せてくださり、カインが泣きつくと罪を許してくださり、ノアが箱舟から出てきたときには、彼のささげた動物のけむり(なだめのかおり)をかがれて、「もう人を滅ぼすことはすまい。」と、仰せになるのです。

 また、ソドムとゴモラを滅ぼされるときは、アブラハムの嘆願に、町に十人でも正しい人がいたら滅ぼすまいと、譲歩していかれるのです。

 奴隷の境遇に苦しむイスラエルの民を、エジプトから救い出し、海を分け、砂漠で水やマナを与え、養ってくださる神なのです。


 ところが、契約後のイスラエルの民に対してはとても、峻烈な怒りを爆発させています。
 彼らのつぶやき(不満)に対し、律法違反に対し、偶像礼拝に対し、反逆に対し、淫らさに対して、神・主は、容赦なく死で報いられるように見えます。
 
 民数記では、じっさい、神罰というべき大きな罰が何度もありました。疫病、神からの火による焼死、地面が割れてコラの仲間たちが死んだ事件、さらには、カナンには入れないと報告した斥候の話を信じて泣いたため、イスラエルの民は、四十年荒野をさまようことになりました。
 
 
 ☆☆☆☆

 
 私たちの意識の中には──神を信じていない人でさえ──、悪いことが起こると、天罰ではないかと思う面があります。とくに、大きな災害などは(たとえば、地震や飢饉、水害など)、神が起こしたと考えたのでしょう。昔から、人間はあらゆる神事を行なって自然を静め、豊穣や繁殖を祈ってきました。動物のいけにえの習慣はもちろん、人身御供でさえ珍しくなかったのです。

 ただ、こうした素朴な神への恐れと、聖書の神のイスラエルの民への罰を同列に考えるのは、間違いではないでしょうか。


 イスラエルの民が受ける数々の神罰は、彼らが「神の人類救済の器」として選ばれたからでした。神は、彼らを選びの民として甘やかし、優遇したのではありません。それどころか、ムチをくわえられたのです。

 他方で、イスラエルの民を懲らしめる時、すでに神には救いが完了する日のことも、わかっておいででした。

 
 「人類を救う計画」では、私たちの罪を贖って、神ご自身が人となって地上に来られ、みずから十字架にかかって死ぬと言う、大きな犠牲を払われたのです。


   







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2011年04月17日

Coffee Break234 復活




 来週の日曜日4月24日は、復活祭(イースター)です。十字架にかかって死なれたイエス・キリストが、三日目に復活されたことを記念する祭りです。復活祭は「春分の日の後の、最初の満月の次の日曜日」に祝われるため、年によって日付が変わり、今年は、4月24日になるのです。

 私たちの教会(町田クリスチャンセンター)では、復活祭の一週間前の今日、復活祭を記念して、町の商店街でしゅろの葉のパレードを行ないます。今年で3回目ですが、今年は、大震災の被災地と被害者の方々を思い、神の慰めと助けを願い、日本の復活を祈る「祈りのパレード」となります。

 しゅろの祭りは、聖書のイエス様のイスラエル入城の記述に基づいて、世界中で行なわれているものです。
 ヨハネの福音書には、次のように記されています。

 その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、
 イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、しゅろの枝を取って、出迎えのために出て行った。そして、大声で叫んだ。

   「ホサナ。
    祝福あれ。
    主の御名によって来られる方に。
    イスラエルの王に。」          (ヨハネの福音書12章12節13節)



☆☆☆☆

 聖書の神は、ハランでアブラハムを召され、ミディアンの地でモーセを召され、イスラエルの民をエジプトから救い出し、シナイで契約を与え、さまざまな痛みや憤りのなかでも、イスラエルの民を守り、導き、やがて、イスラエルの民をカナンに入れられるのです。

 しかし、そこから、神の人類救済計画は、さらに長い時間を要しました。イスラエルの民はまたしても、荒野にいた時のようなさまざまな間違いを犯したからです。イスラエルは、王国を建てて栄えたものの、偶像礼拝や悪政で神にそむいたため、王国が崩壊し、またしても外国の捕囚となり、絶望と辛酸の中に置かれたのです。


 しかし、国が分裂し、弱くなり、外国に攻められ、神殿は壊され、民が捕囚になった苦しい時期に、イスラエルには、力ある預言者がたくさん現れました。

 
 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
 悲しみの人で病を知っていた。
 人が顔をそむけるほどさげすまれ、
 私たちも彼を喜ばなかった。

 まことに、彼は私たちの病を負い、
 私たちの痛みをになった。
 だが、私たちは思った。
 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
 しかし、彼は、
 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
 私たちはみな、羊のようにさまよい、
 おのおの、自分かってな道に向かって行った。
 しかし、主は、私たちのすべての咎を
 彼に負わせた。              (イザヤ書53章3節〜6節)
 


 イザヤは南北に分裂したイスラエルの、南王国ユダの預言者でした。
 この預言は、救い主イエス・キリストを預言した箇所として、とくに有名です。

  
☆☆☆☆


 週の初めの日の明け方早く、女たちがイエス様の墓に行って見ると、墓の入口をふさいでいる石が転がしてありました。女たちが入ってみると、イエス様の遺体がありません。
 女たちが途方にくれていると、まばゆいばかりの白い衣を着たみつかいがふたり現れて、言いました。

「あの方はここにはおられません。よみがえられたのです。まだ、ガリラヤにおられた頃、お話しのなったことを思い出しなさい。
 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」(ルカの福音書24章6節7節)


 女たちは走って帰って、このことを、使徒たちに話しました。

 使徒たちは、すぐには信じなかったのです。けれども、すでにこの日、イエスはエルサレムからエマオへの道で、二人の弟子に現れました。その弟子たちがエルサレムに引き返し、使徒たちに自分たちの体験を話したとき、イエスが彼らの前に現れました。幽霊だと思っている弟子たちに、イエスはご自分の手や足をお見せになり、弟子たちが差し上げた焼いた魚を、召し上がったのです。

 復活は、たんに死人がよみがえることがありうるか、の話ではありません。

 私たちは、この復活のイエス様を思う時、復活祭の重み、救いの完成の喜びを新たにするのです。














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2011年04月18日

Coffee Break235 復活、新約の犠牲の羊


 
 
 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
 悲しみの人で病を知っていた。
 人が顔をそむけるほどさげすまれ、
 私たちも彼を喜ばなかった。

 まことに、彼は私たちの病を負い、
 私たちの痛みをになった。
 だが、私たちは思った。
 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
 しかし、彼は、
 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
 私たちはみな、羊のようにさまよい、
 おのおの、自分かってな道に向かって行った。
 しかし、主は、私たちのすべての咎を
 彼に負わせた。              (イザヤ書53章3節〜6節)
 


 イザヤのこの預言は、聖書を始めから読んできた者には、涙なしには読めません。
 みずからの「そむきの罪のため」楽園から追放された人間は、神の守りの外に出てしまいました。自分自身が罪ある存在になっただけでなく、環境もサタンに支配されるいびつにゆがんだ世界でした。そこでは、どれほど、正しく生きようと思っても、どうにもなりません。ある時は良いことができても、ある時は悪い考えが浮かんできます。人を善意で愛する瞬間があれば、打算で自己防衛をします。神に従おうと決心しても、空腹やかわきや、粗末な生活に耐えられないのが、人間です。

 神様がくださったマナを「あきあきした」と言い、肉を求め、水を求め、さらには、指導者であるモーセやアロンをねたみ、自分たちが望んだエジプト脱出でさえ、誰かが連れ出したかのように恨み言を言います。
 神礼拝への意思もすぐにゆらぎます。偶像崇拝の禁止や安息日遵守の律法も守ることができません。戦さで勝っても、女の誘惑を退けることができません。
 それでも、神は彼らを育成されようとし、彼らも神に従う気持ちはあるので、イスラエルの民の神政政治国家は、だんだん形を整えていきました。

☆☆☆☆

 民数記26章では、主のご命令で、二度目の人口調査が行なわれます。一度目の人口調査はイスラエル十二部族の宿営地や役割を定め、祭祀制度や軍団を整えるものでした。
 二度目の人口調査は、いよいよカナンを目前に、カナンでの割り当て地を決める目安となるものでした。中心になる神と国家の制度、軍団、民がいても、国土をもたなかったイスラエルの民に、いよいよ目に見える国土が与えられるのです。


 イスラエルは、そのようして、神の導きで国土をもつことができました。
 ところが、イエス様がお生まれになった頃は、ローマ帝国の植民地でした。
 天地を創造された唯一の神、アブラハム・イサク・ヤコブの神、「わたしはある」と自己紹介された神への信仰は、民数記のころよりはるかに確かになっていました。
 ただ、律法学者、ファリサイ人、祭司などの宗教エリートは、律法主義、形式主義に陥り、庶民は、ローマの圧制もあって苦しんでいました。


☆☆☆☆

 ベツレヘムの馬小屋で、処女マリヤが産んだ赤ん坊のことを知った者はわずかでした。
 イエス様が、三十歳で公生活に入られてからは、その教えとお働きは目を見張るものでした。しかし、イエス様が、神ご自身が人となってこられた方なのだとは、ほとんどの人は思いませんでした。

 救い主は「預言のように」来られたのですが、あまりにも思いがけない方法だったので、イエス様の弟子たちでさえ、理解できなかったのです。

 
 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」

 また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。
 イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」(マルコの福音書14章22節〜24節)


 有名な最後の晩餐の場面です。このとき、イエス様が言われた「わたしの体」が幕屋でささげ物として殺された「動物のからだ」であること。「わたしの契約の血」が、幕屋で振りかけられた「動物の血」であることに、弟子たちでさえ気がついていたでしょうか。

 次の、箇所は弟子たちのイエス様に対する理解が、どのようなものだったかを語っています。


 それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて三日の後に、人の子はよみがえる。と話しておられたからである。(マルコの福音書9章31節)
 しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。(32節)






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2011年04月21日

Coffee Break236 祈り





           祈り
    


   病あり そんな気がする真夜中に 正座して想う大きなかたを

   生かされていると気がつくこの日にも 何やらつぶやくコーヒータイム

   お祈りをしようと椅子に腰おろし しかし 聞こえる草刈機の音

   




   なにほどか 弱ったように見える人 明るく賛美捧げる横顔

   病もつ姉妹 みんなで取り囲み 祈り合わせる せつないまでに

   妻のため 遠くへ出かけて 「しるし見た」 よろこびいさむ その夫婦愛




 
     いつも訪ねてくださってありがとうございます。
     二日間、出かけたので、ブログを休んでしまいました。
     あすから日曜日まで、「復活」について、
     来週から、ふたたび、民数記の続きに戻りたいと思っています。
     ぜひ、訪問してくださいますよう、お願い申し上げます。

                        さとうまさこ  
   










   
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2011年04月22日

Coffee Break237 白鳥と王子と悪魔(マタイの福音書27章、イザヤ53章)

 


 私はある時期、クラシックバレエが大好きでした。といっても、踊るのではありません。観るだけです。バレリーナの、極限まで鍛えられたしなやかで優雅な動きに、息をのんだものです。もちろん、体操や新体操、エアロビクス、ジャズダンス、社交ダンス、日舞も美しいものだと思います。その中で、とくにクラシックバレエに惹かれたのは、バレエの持つ「音楽性」のためだったかもしれません。
 たとえば、白鳥の湖、くるみ割り人形、眠れる森の美女、ジゼルなど、古典バレエと言われる演目は、曲もまた名曲です。

 ただ、キリストについて知らない頃の私には、どうしても理解できないことがありました。「白鳥の湖」の王子とオデットの愛の物語など、あまりにも他愛ないと思えました。もともとの観客は、上流階級の人々だったのです。そうそうたる教養人の(ように見える)観客が、どうしてこんな他愛ないお話に、引き込まれるのだろうと思ったのです。


 「白鳥の湖」の筋書きは(説明するまでもないと思いますが)、森のなかの湖にいる美しい白鳥と王子様の物語です。白鳥は、じつは悪魔の魔法で、姿を変えられたある国の王女とその侍女たちだと言う設定です。白鳥は、夜の間だけ人間の姿に戻れるのです。
 ある夜、白鳥狩りに湖にやってきた王子は、そこで、美しい娘に戻っているオデットと出会い、恋に陥ります。娘は、だれかがオデットを愛し、結婚してくれたら魔法がとけるのだと打ち明けます。そこで、王子はオデットをお城の舞踏会に招待します。母親の女王に紹介し、婚約をしようとするのです。

 ところが、これを知った悪魔は、自分の娘オディールをオデットそっくりに仕立て、舞踏会へ送り込みます。何も知らない王子は、オディールに愛を打ち明け、婚約をしてしまいます。
 さあ、大変! オデットと王子の愛は成立せず、オデットの魔法は解けないわけです。王子は湖に出かけ、オデットに謝り、愛のために、自分のいのちを賭けて、悪魔と闘います。
 悪魔が敗北し、魔法は解けて二人はめでたく結ばれるのです。


☆☆☆☆

 
 イエス様の十字架と復活は、「愛」が「死」を打ち破った話です。「愛」が「悪魔」を打ち破り、悪魔によって縛られ、自由を失ってしまった人間が、悪魔の桎梏から解放され、永遠の救いに入る話です。
 愛のためにいのちを賭けたのは、イエス・キリスト(神ご自身)です。罪を犯して楽園を追放され、死にも等しい姿に変えられているのは、私たち人間です。
 
 イエス・キリストが、私たちの罪を贖って十字架上で死んでくださったことは、クリスチャンなら、だれでも知っていることです。それが、どれほど大きな神様の愛であったか、恵みであったか、とてもことばに尽くせません。
 
 悪魔ロットバルドと闘って、愛の強さで魔法を解く王子の話は、決して単純なおとぎ話ではないと、キリスト教が背景の文化では飲み込めたのでしょう。

 ☆☆☆☆

 それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。
 そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。
 それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」
 また、彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。
 こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。   (マタイの福音書27章27節〜31節)


 彼は痛めつけられた。
 彼は苦しんだが、口を開かない。
 ほふり場に引かれて行く羊のように、
 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
 彼は口を開かない。
 しいたげとさばきとによって、彼は取り去られた。
 彼の時代のもので、だれが思ったことだろう。
 彼が私たちの民のそむきの罪のために打たれ、
 生ける者の地から絶たれたことを。   (イザヤ53章7節〜9節)
 



 サンクトペテルブルグ(ロシアの首都)のキーロフ劇場から出てくる、帝政ロシア時代の着飾った貴族の男女は、かわいそうな美しい白鳥が、りりしい王子様の愛に救い出されたお話に、とても幸せな気分だったに違いありません。

 自分たちをオデット。王子を神様だと思えば、とうぜんです。わざわざ聖書を読み返して、せっかくのいい気分を損なう人は少なかったのではないでしょうか。
   
 聖書を読み返し、十字架の前に引き出されるイエス・キリストを、つぶさに思い浮かべ、「さて、悪魔は誰かしら」なんて思い始めたら、眠れなくなったかもしれません。

 バレエは、すばらしいエンターテイメントです。





  
 
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