2011年04月07日

Coffee Break233 大祭司と預言者(民数記20章、ヘブル人の手紙3章2節3節)




 私たちは直接顔見知りでなくても、ある人の噂に心が騒ぐことがあります。毎日、テレビで見ている有名人の訃報などを聞くと、親しい人を失ったような錯覚に陥ることもあります。大好きなドラマや小説の主人公が最後に死んでしまったりすると、しばらく違う結末を思ったりします。

 私たちの心を占領するのは、必ずしも身近に生きている親兄弟や子ども、友人、先生、同僚たちばかりではないのは、だれでも経験することです。アロンの死も、出エジプト記の始めからつきあってきた私には、いささか身近に感じられるのです。

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 アロンが死んで、イスラエルの民は三十日の間、泣き悲しんだ。(民数記20章29節)

 無理もありません。モーセが召命を受けてエジプトに戻ってきたときから、アロンはモーセに同行して、パロとの交渉に臨み、民をエジプトから導き出す役目を果たしてきたのです。
 モーセが神の預言者で、アロンはモーセの預言者となると神は仰せになったのです。
 神が出エジプトのために召命されたのはモーセでした。事実、人間の世界の価値観で見ても、モーセはナンバーワンで、アロンはナンバーツーでした。
 旧約聖書の歴史において、モーセは、もっとも偉大な人物五人に数えられています。それに対し、アロンは十人にも入らないかもしれません。

 でも、あえて、小説を読むようにアロンを見るのを、神様に許して頂くとすれば、アロンはある意味でモーセより印象的なのです。
 出エジプトの最初からその死まで、アロンの、いかにも人間としての弱さが書かれている箇所は、三回出てきます。

 モーセが四十日四十夜シナイにこもっている時に、民にせっつかれて金の子牛(偶像)を鋳造し、それを拝むのを民に赦してしまったこと。モーセに咎められた時の、アロンのしどろもどろの言い訳にはあきれるほどです。(出エジプト記32章21節〜23節)
 また、幕屋で神に火を捧げる息子二人を失った時、彼がどれほどの思いで耐えたかを、私たちは、短い聖書の記述からでも、容易に察せられるのです。(レビ記10章3節)

 祭司は栄誉ある役職でしたが、生身の人間には耐えられないほどの厳しさ、辛さがありました。

 いきなり初代の大祭司に選ばれて、アロンは戸惑い、また高慢にもなったようです。
 ミリヤムといっしょになって、「主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。」(民数記12章2節)と、モーセに詰めより、モーセと同等の権威を求めたこともありました。


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 人間的な弱さにもかかわらず、アロンは大祭司に召され、彼の息子と彼の子孫が,祭司の家を代々引き継ぐことになりました。
 一方、モーセには、そのような目に見える見返りはありませんでした。預言者の召しを受けた者は、後の時代にもたくさん現れました。
 ただ、祭司が世襲だったのに対して、預言者は一代限りでした。
 祭司が、公務員的ないわば国のシステムを支える立場だったのに対し、預言者の多くは在野的な立場から、自由に発言(預言)しました。



 ヘブル人への手紙の著者は、モーセと大祭司の役目について、次のように書いています。

 モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスは自分を立てた方に対して忠実なのです。(ヘブル人への手紙3章2節)
 家よりも、家を建てるものが大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。(3節)


 本物の大祭司イエス様さまとモーセの栄誉は、比べるまでもないことでした。
 
 アロンは大祭司という大きな栄誉を受けたのです。それは、本物の大祭司イエス様に取って代わられるものだったのですから、アロンにとっては、重すぎる役割であったのはふしぎではありません。
 






posted by さとうまさこ at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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